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人間というのは相対的なものだ。人間は時間・空間というような認識基準をもってしか世界を見る事ができない。時間を超えた時間、空間を超えた空間は理解できない。「ビッグバンと共に時間が始まった」と科学が言えば、人は「ではそれ以前は?」と問う。だが「以前」というような時間的単位で時間以前を測ろうとするのだから、そもそも無理の話だ。ここに限界がある。
カントは理性の限界を発見した。人は、空間や時間という先天的形式を通じてしか世界を認識できない。だから「時間以前の時間」とか「空間の外の空間」は想像ができない。意味がわからない。時間や空間は我々の根底にある形式であり、この形式を延長した場所に世界と呼ばれるものがある。完全に客体的な世界は存在しない。
ベルジャーエフを読んでいて気がついたが…カントがこのような考え方、物自体と現象の区別ができたのはその底にキリスト教思想があったからだろう。このキリスト教思想の話は茫漠とした話になるだろうが、やっておく必要があると感じる。
ベルジャーエフの線に沿って考えるが、キリスト教の終末思想、最後の「救済」というのはあくまでも歴史の「外」に考えられていた。歴史の内部ではなく外側に最後の審判の日、メシアがやってくる「時」が考えられていた。
だからキリスト教の現実的な敗北は、決してキリスト教それ自体の敗北ではないとベルジャーエフは言う。そうではなく、それは来たるべき、時間の外側の救済の理念を持つ存在に訪れる必然である。現実の敗北は、キリスト教それ自体の間違いを証明するものではない。キリスト教徒の目にメシアは見えたとしてもその姿は常に現実に留まる。
これを哲学に移し直すと、カント哲学になる。つまり物自体と現象の分離である。我々は常に現象という現実的な存在に留まるが、物自体という完全性を想定する事が肝要である…時間や空間がなんであるかを認識するにはその外側が了解されなければならない。ある物の境界線を引くにはその「外」が理解されていなければならない。
この事は極めて重要である…時間や空間内部における問題は、その外側においてしか、つまり決して訪れぬとしても信じなければならない何かによってしか解決できないとキリスト教思想は先んじて考えていた。カントはこれを哲学的に表した、と。時間や空間の先を想起できたのは、メシア思想が歴史の外を志向していたからである。
この歴史の外を志向する思想と、進歩思想や、最初にあげたアップデート的なもの、つまり時間的なものの中に絶対的なものを封入しようとする意志は相反する。
ヘーゲルは、カントに比べると、カントの二元論を一元化してしまったように見える。そこからヘーゲルの矛盾に満ちた歴史哲学が生まれる。だがそれは現実内部に救済を持ち込もうとする為に、カントより一層わかりやすく、また魅力的に、ある人々には見えたのだった。