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最近、よくわからないインテリ(?)の人が「アップデート」という言葉を使うのを見かけた。アップデート、要するに上書きの事だが、何か新しいものに書き換えるというような意味だ。それを新しい哲学用語のように使っている。
この「アップデート」というのは当然というべきか、近代以降の進歩思想から生まれたものだろう。進歩思想を更に通俗化した、大衆向きにしたものと言える。常に人は進歩し続けるのだから、最先端の「今」こそが素晴らしいというような考えだ。この進歩思想は資本主義と相性がいいのだろう。新しい商品を買わせる事は進歩主義と一致する。
先日、たまたまテレビを見ていたら、木村拓哉がマクドナルドのCMをやっていて、ハンバーガー齧って「うめえ」的な事をやっていた。長らくテレビを見ていないので、スマップ解散ぐらいは知っていたが、未だに木村拓哉が二十代のカジュアルな若者みたいな役割でCMをやっているのを見て驚いた。
なぜ急にキムタクの話をしたかと言うと、要するに、この「アップデート」の思想というのは絶えざる現在の上書きでしかないという事と関連する。木村拓哉が未だにカジュアルな若者という雰囲気、かっこいいお兄さん的イメージを要請されるのは、こうしたタレントは年を取る事を許されていないからだ。
「嵐」なども、未だに高校生の若者のような雰囲気を出す事を要請されている。ここでは年を取る事は厳禁で、しかし現実では年を取るからこの社会では「入れ替わり」される事になっている。年を取ってもう使えないとなれば新しいのを導入する。その繰り返しである。そして古くなったものは誰も思い返さない。古いものには価値がないとされる。絶えざる「今」の連続が、現代の社会である。
萌えアニメなども「嫁」は年を取らない。次々「嫁」は新しく現れるが、オタクの方は年を取っていく。
川上弘美の「センセイの鞄」という小説も、年取ったキャラクターのあまりの幼児性に驚いたが、あの幼児性は現代社会が絶えず現在の中に埋没する事を要請し、成熟する事を許さない為にそうなったと言える。川上弘美はこの事を全く意識しておらず、為に作者も幼児的な感性にとどまっていたが、伊藤計劃はそれを意識的に取り上げて、「虐殺器官」で描き出していた。伊藤計劃の考えでは人はテクノロジーの中で成熟できない。成熟できないのが「今」だという他者の視線があった。どちらが優れた作家は言うまでもないだろう。
現在はこうした進歩思想であるが、ここには「今」という限界がある。私が思うのはーー結局、時間の中で発生した問題は時間の中では解決できない、という事だ。
現在に目を戻すと、「今」は絶対化されている。この「今」は絶えざる上書き、「アップデート」である。ここで神聖化されている「今」は特に、メディアの上に現れては消えるタレントに象徴されている。気味悪い話だが、学問だろうが芸術だろうがスポーツだろうが、メディアの上で大衆の視線を受け、神聖化された「今」そのものになりきる事が現代ではあらゆるものの頂点と考えられている。ここにディストピアに近似した社会の特徴がある。
この今という時間の中では絶えず、神聖化が行われる。人々の視線を受ける舞台の神聖化ーーところが時間は流れ変化していくので、いくら神聖化しようと、次の瞬間にはそれは流れ去ってしまう。老いさらばえた醜いタレントなど価値がない。誰もそれを見ない。しかしいつかは誰もがこうなる。人は表舞台には立ち続けられない。またその表舞台そのもの低劣な価値観の集積になりつつある。ユーチューバーなどはまさにその代表だが、私が「ユーチューバーはくだらない」と言えばそれは「嫉妬しているんだろう」と言われる。私の言い分は「今」という宗教に反していると思われるのだ。
この今、この現在、この相対的な現実世界の上に、絶対的な神聖化された空間を作ろうとする試みは必ず挫折する。かつて共産主義はそれをやろうとした。だが現実に天国を作ろうとする試みは地獄を現出する事に終わった。革命の反動としての専制は必然であろう。
現代の大衆世界、「今の神聖化」も壊れかかっているのだろう。さっきまで神聖化されていたタレントが、次の瞬間には些細な罪で多数者に踏みつけにされる。彼が神を演じきれなかった事、大衆のイメージに背いた事が最大の罪であった。だが、そもそもその構造に無理がある。