2-2・月の丘
イコガがお茶を淹れている間に、扉が叩かれ、誰かが入って来る気配がした。
「いいよ、俺がやるから」
セリからは使用人らしい者の姿は見えず、イコガが話している声だけが聞こえた。
窓の外はすっかり闇に包まれている。
薄いレースのカーテンが下がっていて、その隙間からしか見えないが。
壁一面にある天井近くから床までの大きな窓をセリは不思議そうに眺めていた。
「口に合うかは分からないけど」
イコガが料理が乗った盆を片手に持ち、茶器を乗せたワゴンを押してやって来た。
今度こそ手伝おうとセリが立ち上がるが、それもやんわりと断られる。
テーブルの上に並べるイコガの手際は確かに慣れていた。
「ありがとうございます」
セリはそう言うしかなかった。
「田舎で、何もなくてすまない」
暖かい煮物が入った器、少し硬そうなパン。
生野菜は見当たらず、果物が乗った皿がある。
セリはアゼルから『ウエストエンド』の事情を色々と聞いていたので、これは贅沢なほうなのだろうと思う。
ありがたくいただこう。
セリは感謝の祈りを捧げる。
そんな彼女の姿をイコガは黙って見ていた。
食事は美味しい。
ただ緊張して黙って食べているせいか、お腹が膨れる感じがしない。
これが自分の家なら、祖父と弟の陽気な声と、母の叱る声が聞こえるはずだ。
量はそれほど多くないせいか、食事はすぐに終わってしまう。
イコガがさっさと片付け、お茶を淹れる。
目の前のカップに湯気が上がると、何だか懐かしい香りがした。
「あ」
セリは、駅の広場でイコガが飲んでいたお茶の香りだと気づく。
その香りにセリがほっとして微笑んだ。
「その、どうだったかな?。
俺、食事はいつも一人だからさ」
イコガはセリの口に合ったか、訊ねたいようだ。
「とても美味しかったです」
セリがそう言うと、安心したようにイコガは息を吐いた。
「隣に客用の寝室を用意してある。
そこに君の荷物も入れておいたから、ゆっくり休んでくれ」
お茶もそこそこにイコガが立ち上がる。
「え、もう?」
ゆっくり話す暇もなく、セリは部屋の外へと追いやられることになった。
イコガの部屋を出ると、暗い廊下の少し先に確かに扉があった。
館の中はまるで真夜中のようにひっそりとしていて、人の気配がない。
「あの、ここには他に誰も住んでいないんですか?」
そんなはずはないと思いながら、セリはイコガに訊ねる。
「中央棟に執事が、右棟にドクターがいる」
他にはいないそうだ。
「夜は魔物たちの時間だ。
滅多なことはないと思うが、部屋からは出ないように」
案内されて部屋に入ると、イコガはそう言ってすぐに出て行ってしまった。
セリに用意された部屋は、イコガの部屋よりは狭いが照明がいくつも点っていて明るい。
とりあえず荷物から寝間着と兼用の部屋着を取り出して着る。
セリは何もすることがないので寝台に上がり、思ったより柔らかな寝具に驚きながら横になった。
「はあ、私、何しに来たのかしら」
明日の朝一ということは、出発は夜明け頃になる。
セリは謝罪どころか、イコガとなんの話も出来ないまま帰ることになるのだ。
こんなはずでは。
何度も寝返りをうち、考える。
「コガ先輩って、いつも何してるんだろう」
一人の食事。 一人の夜。 あの広い部屋で、彼はたった一人。
セリの部屋は枕元に小さな明かりを残しているが、これを消したら完全に闇だ。
何気に窓を見ると重そうな布のカーテン。
外からの光が全く入らない。
恐る恐る窓に近寄る。
「外には出るなと言われたけど、見るだけなら大丈夫よね」
カーテンに手をかけ、そっと捲る。
「え?」
セリの目に飛び込んだのは大きな月だ。
「庭ではないのね」
窓の外は荒野。
背の高い木や建物が一切ない。
ただ大きな月が空に低く浮かんでいる。
ぽかんと見ていると、地平線に一部盛り上がっている所がある。
「何かしら」
セリはつい我を忘れてカーテンを開き、窓に顔を寄せる。
すると目の前を何かが過った。
「きゃっ」
小さく悲鳴を上げ、セリは目を閉じてうずくまった。
黒いモノ?、いや、光っていた気がする。
ドクドクと心臓の音が激しくなる。
「魔物?」
ここは魔物の地だ。
もしかしたら相手を怒らせてしまったのではないかと思い、セリは何とかイコガに報告しようと部屋から出た。
廊下は真っ暗だ。
ただ、イコガの部屋の前には明かりがあった。
ホッとしてセリはその扉を叩く。
しかし中からは何の反応も無かった。
「コガ先輩?。 あのー」
セリは、長い背後の廊下を振り返り、その闇から何かがこちらを見ている気がして焦る。
取っ手をガチャガチャと動かすと扉が開いた。
「すみませんっ、あのっ」
大声で何とか伝えようと声をかけるが、薄暗い部屋は静かなままだった。
「せ、先輩?」
その時、ふわりと風が流れて、あの大きな窓のカーテンが揺れた。
部屋に入って扉を閉めたセリは、惹きつけられるようにその窓へ近づく。
白いレースが揺れ、外へと出る扉が開いているのが分かる。
部屋の中に人の気配がないのだから、イコガはここから外に出たことになる。
「いいのかしら」
セリはその扉から外へと顔を出した。
背の低い木や、足首くらいまでしかない雑草。
「裸足だけど、まあ、いいか」
セリは辺りをキョロキョロしながら、足音を忍ばせて地面に降りた。
荒野に浮かぶ大きな月を背に、頂上が平たく台になったような大きな岩が見えた。
その周りを、光がピカピカと点滅しながら飛び交っている。
(さっきの光はあれかしら)
今さら引き返すことも出来ず、音を出さないように気をつけながら歩く。
興味が先走り、セリはただ岩を目指した。
岩の側まで来ると、それはセリの背丈よりも高い立派なものだった。
月の光が強いせいで彼女の姿は岩陰の闇に紛れていた。
何とか岩の上に上がれそうだ。
足をかけ、思いっ切り背伸びしたセリは、ひょこっと岩の頂上へと顔を出す。
(わあ)
声が出そうになるのをぐっと押える。
月の光に誘われるように、小さな何かが踊るように飛び交っていた。
大きく目を見開き、セリはそれを凝視する。
光に目が慣れ始めるとその姿がはっきりと見えた。
薄い昆虫の羽のようなものを背中に付けた、それは小さな人の姿をしたモノ。
「よ、妖精?」
おとぎ話の世界に舞い込んだような感覚。
唖然と凝視していたセリは誰かの視線にハッとした。
その妖精と思われるモノの一つが明らかにセリを見ていたのだ。
キラキラと光る羽がセリのすぐ近くを飛ぶ。
「きゃあ」
驚いたセリの手が岩肌から離れた。
ドサリと地面に落ちると思っていたが、何故かセリの身体は途中で止まる。
ふわりと大きな布が被せられ、大きな手で口を塞がれた。
「静かに」
布にくるまれたまま、誰かに抱きかかえられている。
ザザザッと草を踏み分ける音が消え、カタンとどこかに入った音がした。
セリは柔らかい物の上に降ろされ、扉を閉める音、カーテンを閉める音がした。
「はぁあ」
大きなため息が聞こえ、布が取り払われた。
「まったく!、命知らずだな」
「だって、コガ先輩を探してー」
言いかけて、セリは目の前にいる青年に言葉を失った。
真っ白な髪に透き通る水のような青い瞳。
白い肌は昼間みたイコガより一層白く見えた。
医療知識でいうところの『白化』または『白子』だ。
先天的な病気の『白子』は、産まれても身体的に虚弱ですぐに亡くなることが多い。
後天的な『白化』は原因は不明だが、セントラルでもわずかに存在する。
驚いた顔のセリに、イコガは不機嫌そうに顔を背ける。
「あの」
セリは必死に言葉を探す。
「あんまりキレイで驚いちゃいました」
さっき見た攻撃的な妖精のことなどすっかり忘れて、セリは微笑んだ。
「それが先輩の異形だったんですね」
「『異形』?」
「はい。 先輩、『ウエストエンド』の子供は異形が多いとおっしゃってたでしょう?」
そんなこと言ったかな、とイコガが首をひねる。
「そんな美しい異形だなんて、先輩らしいです」
セリは何の悪気もなくそう言った。
「あ、違いますね。 これは『異形』じゃなくて『病気』ですもの」
イコガは気が抜けたように肩を落とした。
「はあ、なんか君の前だと調子が狂うよ」
だから会いたくなかったのだと、イコガは小さく呟いた。