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八極拳発祥伝説  作者: 宝蔵院胤舜
第一章 真壁雷蔵の段
9/9

捌 無極流兵法

八極拳発祥伝説


〈八極拳開門譚〉



第一章 真壁雷蔵の段



【捌】


清・雍正二年(1724)春節を過ぎた頃。

雷蔵が皆に話したのは、「常盤橋の決闘」の逸話である。

無極流流祖の土子泥之助は、常州江戸崎にて一羽流の開祖、諸岡一羽の門人として根岸兎角、岩間小熊と共に剣術を学んでいた。

しかし、一羽が癩風に倒れると、小熊と泥之助は師を最期まで看病し続けたのに対し、兎角は道場を見限って出奔した。

文禄二年(1593)九月に一羽は亡くなるが、兎角は江戸で一羽流を「微塵流」と称して道場を興していた。兎角が師を見捨て、かつ師から教わった剣術を自分が創始したかのように見せて道場を開いたことに怒った小熊と泥之助はこれを討つことに決めた。

籤により小熊が江戸に向かい、兎角を倒して一羽流の名誉を回復するのだが、その時に決闘の申し出を無視して逃げ続けていた兎角を引きずり出す為に、小熊は大橋(後の常盤橋)に「日本無双」と掲げて兎角を貶め、挑発したのである。

「なるほど。面子を潰された兎角は、出て来ざるを得なくなったという訳か」

韋が大きく頷きながら言った。

「そう言う事だ。ニセ甘鳳池も恐らく自尊心だけは高いはずだから、この作戦に引っ掛ってくれると思うぜ」

雷蔵も腕を組んで大きく頷いた。

「そうね。この辺りで聞いた噂でも、偽者はお山の大将っぽいものね」

董は微笑みながら言った。初めは少々躊躇のあった彼女だったが、雷蔵や韋、そして甘の強さは判っているので、徐々この状況をに楽しむ気分になって来ていた。

「それならあたしも協力させて貰いますよ」

部屋の隅にかしこまっていた女将も笑顔で言った。

「ようし、では、明後日に決行だ。何日掛かっても、偽甘鳳池を引きずり出して、仇を取ってやろうぜ」

雷蔵の言葉に、全員が頷いた。


決行当日、女将の飯店のすぐ横にある四つ辻の一部を占拠して、雷蔵達一行は二枚の横断幕を掲げた。幕には、

『江南無双 神拳 于派燕青』

『兇賊 甘鳳池 討殺』

と墨痕黒々と認められていた。

「あまりいい気分はしねえなあ」

幕を見上げて、甘は苦笑した。

「まあまあ、ニセ者をおびき寄すまでの辛抱だよ」

韋が笑いながら言った。

「さあて、今からが本番だ。頼むぜ頭領!」

雷蔵は大声で言いつつ、幕の前に(しつら)えた舞台を見た。そこには机を二段に重ねた舞台があり、その上にかなり派出めに化粧をした董が椅子に座っていた。

「これ、思ってたよりずっと派出ね?」

舞台役者のような化粧をした董が、首をかしげながら言った。今朝、飯店の女将に化粧をして貰ったのだが、彼女が昔贔屓にしていた旅役者の残していった化粧と衣装をそのまま身に着けたので、かなり目立つ様子である。

「甘鳳池」の名前はやはり効果があり、『江南無双』の高慢な看板を引きずり落とそうと、甘を勝手に兄貴分と思う若者達が挑んで来たが、韋に叩きのめされてことごとく敗退した。

二日後には神拳于派燕青の名はこの近辺に広がり、数多くの腕自慢がやって来たが、その全ては弟子(を称する)男達、則ち雷蔵と韋の二人にコテンパンにやられてしまっていた。

「甘鳳池よ、潔く我らの前に来られよ。尋常に勝負せよ!」

雷蔵は意気軒昂に雄叫びを上げた。もうすっかり馴染みになった見物人も多く、皆が甘鳳池の出現を今や遅しと待ち構えていたのである。

六日も経つと、見物人達が「甘鳳池を出せ!」「甘鳳池出て来い!」と騒ぐようになった。そんな見物人達をかき分けて、男共が四人やって来た。

「何だてめえら、大騒ぎしやがって!甘の兄貴に何の用だ!」

そう大声で怒鳴る男に、雷蔵は見覚えがあった。

「あ、お前、ちょっと前に夫子廟で甘に殴られた頭目だな」

雷蔵は男を指差して言った。

「あ、てめえあの時の女か!」

頭目は董をしげしげと見てから大声で言った。派出な化粧と衣装とで、先日の女と同一人物だとは気付かなかったらしい。

「ようやく本命が懸かったか」

韋がニヤつきながら言った。

「仇だ仇だと言いやがるが、武術家同士だ。命のやり取りは当たり前だろうが」

そう(うそぶ)く頭目を董は舞台の上から睨みつけた。

「大勢で武器を持って取り囲んでなぶり殺しにして、武術家を騙るとは片腹痛いわ」

董の言葉を聞いて、野次馬の中から「卑怯者」と野次が飛んだ。頭目が声の方を睨みつけるが、声の主は引っ込んでしまって姿は認められない。

「俺がお前をぶちのめして兄貴の濡れ絹を晴らしてやる。降りて来い!」

頭目は勢い込んで喚いた。

「悪いが師匠はお前如き雑魚は相手にされない。俺一人で十分だ」

雷蔵が韋を押しのけるようにして前に出た。顔がニヤついている。

「ふざけやがって」頭目は吐き捨てるように言った。「てめえらをぶちのめして、あの女を引きずり出してやる」

頭目の合図を待たず、一番若い男が前へ出た。間を合わせる事なく、小走りで舞台に近付いた。雷蔵もそれに応じて歩み寄る。

若造は勢い良く雷蔵の前に飛び込んで来ると、大振りの右拳を放った。雷蔵は左手刀でその突きを捌き、たたらを踏む相手に振り向き様の右裏拳と更に体を回して左肘を連続して打ち込んだ(※1)。若造は飛び込んだ勢いのまま前方に吹っ飛び、舞台前でうつ伏せに倒れた。

「おいヘキ、今の『老虎回頭』か?かなり無極流の形になってるな」

韋が笑いながら言った。

「そうか?やっぱり身についた動きが出るんだな」

雷蔵は首をひねった。

「ふざけやがって!お前行け!」

頭目が喚くと、上背のある男が進み出た。大股に歩み寄ると、左の前蹴りを放って来た。雷蔵はその蹴りを左手で掬い受けつつ右足で腹を蹴り上げ、相手が体を折る所へ更にその蹴り足を踏み込んで右の中楔で人中を突いた(※2)。男は白目を剥いて倒れた。

「今のは金水門拳法の技だな。元の形より随分硬いぞ」

韋は大笑いの態だ。

「あの水拳の動きは一朝一夕には再現出来んよ。お前も細かい事を言うな」

雷蔵は肩をすくめて答えた。

三人目は何も言わずに前へ出て来ると小さく構え、いきなり正面から右突きで飛び込んで来た。雷蔵は半身になって突きを躱しつつ踏み込み、胸に肘を打ち込んだ(※3)。相手は頭目の足元まで吹っ飛んだ。

「やっぱり体に馴染んだ技が一番出し易いな」

雷蔵はしみじみと呟いた。

「それこそが功夫だからな」

韋もしたり顔で頷いた。

頭目はそこかしこに倒れている手下共を見ると、顔を引きつらせながら雷蔵を睨みつけた。

「ど、どうやら俺がやらなきゃ治まりそうもないようだな」

「腰が引けてるぜ頭目さんよ」

韋が嘲るように鼻で笑った。


そんな舞台を睨みつけている男がいた。丁度舞台の反対側の酒家(宿屋)の食堂に陣取って、辻の向こう側の様子を窺っている。四人の屈強な男達に囲まれた、一際背の高い男だ。眉間にしわを寄せてむっつりと黙り込んでいる。

「甘の兄貴、そろそろ俺達が出て行って、あいつらを黙らせましょうや」

朱が渋い表情の男を見ながら言った。

「あの女、河北冀県の燕青拳使い、于俊熙(うしゅんき)の嫁ですよね。俺らの独立の景気付けにぶっ殺してやった奴の」

黒が凶暴な表情で呟くように言った。

「あの二人の弟子と称する奴らは多少使えるようですが、兄貴には到底及ばねえでしょう」

青は笑いながら言った。

「あいつらに好き放題言わせてると、兄貴の沽券に関わりゃしませんか?」

黄が生真面目に言う。

甘の兄貴は黙ったままである。

「まあ、好らが多少頑張った所で、俺達、朱・青・黄・黒の四天王が、あんな奴ら蹴散らしてやりますぜ」

朱がそう嘯いて、ニヤリと笑った。

そんな彼らの視線の先で、突き掛かった頭目が、 雷蔵にその突きを右腕でいなされ、半歩踏み込んでの右肘(※4)を鳩尾に食らって吹っ飛ばされていた。

「そりゃあ、お前ら、ましてや俺が行けば、あんな奴らは赤子の手を捻るようなモンだろうが、奴らの挑発に乗ってノコノコ出て行くのも胸糞悪いじゃねえか」

頭目の姿を見つつ、甘の兄貴は肩をすくめて言った。

「ああ。やっぱりここに居たか」

後ろからの低い声に、その場の全員が飛び上がった。慌てて振り向くと、そこには七尺に近い大男が立っていた。誰もその男の気配に気付かなかったのだ。

「誰だ貴様は?」

朱が鋭い声で誰何した。

「ここは、あの辻の舞台が一番良く見える"特等席"だからな。お前はこの場所へ来ると踏んでたんだ」

大男は朱の言葉を無視した。

「誰だって聞いてんじゃねえか」

黒が暗い眼で睨みながら言う。

「甘の兄貴、いや袁鳳義よ、お前あの四人がやられる所をずっと見てたんだろ?それであいつらの力を見抜けないようでは、底が知れてるぜ」

大男は一切相手の言葉には答えず、自分の言いたい事だけを喋っている。そんな大男の言葉に、甘の兄貴と四天王は思わず目をむいた。

「貴様、何故兄貴の名を!?」

青が大男を睨みながら立ち上がった。既に拳を握り込んでいる。大男はその拳を真下に払い落としつつ怒声を上げた。

「俺が甘鳳池だ!」

そのまま踏み込むと、震脚しつつ馬歩になり、両掌を掬い上げて青の胸を打った(※5)。

青は血を吐きながら吹っ飛び、酒家の扉を突き破って辻の真ん中辺りまで転がり出た。突然の事に、辻を囲んでいた野次馬達は悲嗚を上げて逃げまどった。

袁と残りの三人は慌てて壊れた扉から外へと飛び出した。辻は大量の野次馬で三方の道は塞がれており、彼らは自然と舞台正面へ出る形となった。そこには、仁王立ちの董、韋、そして雷蔵が待ち構えていた。

「よう、良く来たな甘、いや甘鳳池の名を騙った卑怯者の袁鳳義!」

韋は大声で言いつつ、『兇賊 甘鳳池 討殺』と書かれた横断幕を引き剥がした。

「お前の悪行の数々はこの界隈の皆から聞いてるぜ」

雷蔵は笑いながら言った。

「私は董凛風!我が夫の仇、取らせて貰うわ!」

董は壇上から言い放つと、ひらりと飛び降りた。そのまま駆け出そうとするのを、雷蔵が優しく止めた。

「何故止めるの?」

董は睨んだが、雷蔵は笑って答えた。

「邪魔な三人を片付けてからだ。御大は最後の最後に出るもんさ」

そう言った雷蔵の前に、韋が出て来て仁王立ちとなった。

「俺にも分けてくれよ」

「しょうがねえな。一人だけだぜ」

雷蔵は肩をすくめた。

「やい!お前!俺と勝負しろこの野郎!」

韋は黒を指差しながら喚くと、相手の反応にはお構いなしに、ずかずかと間合いを詰めた。

「あいつは私がやるわ」董は朱を見ながら言った。「あいつが棍で夫を殴り倒したの」

「判った。あいつで体を暖めればいい」

雷蔵は優しい表情で言った。

二人がそう言っている間に、黒は韋に左右の突きからの前蹴りに止めの膝(※6)を食らって大の字に伸びていた。

「何だ何だ?四天王を自称する割りには、歯応えがねえなあ」

韋は胸を張って嘯いた。周りの野次馬から失笑が漏れるが、今の偽甘達にはそれを咎める力はない。

韋が物足りなさそうに下がるのと入れ替えに、雷蔵が歩み出た。黄に手を差し伸べ、こまねく。

「お主の相手は拙者がして進ぜよう」

雷蔵は敢えて日本語で言った。その場の誰一人として何と言ったかは解らなかったが、その意図は理解出来た。黄は苦い顔をして前へ出た。

「お前、俺に勝てるつもりなのか?」

黄は尊大な態度で言った。

「俺には負ける要素が見つからない」

雷蔵は静かな声で言った。言いつつ歩いて間合いを詰める。

黄も間合いを詰めると、雷蔵の顔面に右の突きを放った。

雷蔵は左に踏み出しつつ右手でその突きを引き込み、左の突きで黄の顔面を打ち抜いた(※7)。

黄は仰け反って数歩よろけたが、すぐに立ち直った。

雷蔵は思わず自分の拳を見つめた。甘の同じ一撃は、相手を一丈あまりも吹き飛ばしたというのに、自分は打ち倒す事すら出来なかった。確かに、甘の動きを真似ようとするあまり、違和感のある突きになった事は否めない。

「そうか。その門派独自の発力法に叶っていないから、威力が出ないのか」

雷蔵は口に出して言ってみた。そう言えば先に昂拳と金水門拳法の技を使ってみたが、どちらも形が違うと言われた。

「その門派独自の発力に叶っていないならば、所詮付け焼き刃な技という訳だ」

種々な技を一つの理論で統一する、そんな流派を立ち上げてみたい。雷蔵はそんな妄想を抱いていた。今は個々の技の試験をしている状況なのである。実践の中で、何か見えて来たものがある。

そこを隙ありと見たか、黄が蹴りを放った。雷蔵はそれを無意識に捌きつつ、その蹴り足を掬い上げて黄を地面に放り投げた(※8)。黄は背中から地面に倒れ、息が詰まる。雷蔵は黄の頭を蹴り飛ばし、気絶させた。

「考え事してんだから邪魔すんなよ」

雷蔵は首をひねりながら後ろに下がった。それと入れ違いに董が出た。朱を強く睨みつける。

「あんたの相手は私がしてあげる。有り難く思いな」

董はそう言い放って、朱に手招きをした。

朱は嫌らしい笑みを浮かべて近付いて来た。

「お前、あの時の女だな。于だったか、あいつの妻だったな」

「あんたの事も忘れた事なかったわ」

「そうかい、もっと可愛がってやりゃあ良かったか?」

朱は言いつつ右拳を放った。董は小さくかわす。その拳が開かれ、董の襟首を掴んだ。

「ここで可愛がってやってもいいんだぜ?」

朱がそう言っている間に、董は左肘で朱の右腕を下から持ち上げつつ左足を踏み出し、左腕と右腕とで同時に朱の上半身を打った(※9)。朱は後ろに引っくり返り、後頭部から地面に落ちた。

「お断わりよ」

地面に倒れた朱を、董は蔑みをもって睨みつけた。

物凄い形相で立ち上がった朱は、右拳を大きく振りかぶって突っ込んで来た。董はそれを仆歩で低く躱し、素早く朱の背後に回ると、振り向きざまに右勾手を首筋に突き込んだ(※10)。

董は身を左に転じ、棒立ちになった朱の頭へ渾身の里合腿を叩き込んだ(※11)。朱は朽ち木のように倒れ、二度と立ち上がらなかった。

「いいぞいいぞ!」

韋が拍手をしながら声を上げた。

董はそのまま袁を睨みつけると、仰々しい上着を脱ぎ捨てた。

「夫の仇、取らせて貰うわ」

袁は、尊大な態度を崩さず、ゆっくりと董に近付いた。

「それなら、お前も俺の手で冥府へ送ってやるぜ」

袁は言いつつ構えを取った。四六歩の小さな構えである。

「董、気を付けろ。呂紅八勢は蓄勁の動作が小さい」

雷蔵は董に声を掛けた。仇敵を相手に少しでも心を平静に保てるようにとの配慮だったが、それは杞憂に終わった。

董は雷蔵の声も耳に入らない程の集中力で袁と対峙していた。

(八歩は間合いがある。こちらから仕掛けて…)

そう考えていた董の真前に袁が立っていた。瞬間的に問合いが詰められていた。

董の体は、考えるより先に動いた。

袁の右拳が腰から打ち上げられる(※12)のを体を回転させて躱し、裏拳を放った。袁は難無く肘で受けたが、その隙に董は地を蹴って袁から距離を取った。

「何よ今の?速すぎるじゃない?」

董は思わず口に出して言った。

「俺の『旱地撐船』をよくぞかわした」

袁は嘯くと、また四六歩で構えた。

「独特の歩法だ。頭や肩の動きにとらわれるな」

雷蔵の声に、董は視野を大きく取って袁を見た。多少ぼんやりとした見え方だが、相手の全身が視界に収まる。

袁の体が動いた。また瞬時に間合いが詰まる。だが今度は見えていたので、董は袁の掌の喉への突き(※13)を躱しつつ身を低くして腹に肘を入れた(※14)。袁は顔をしかめたが、そのまま腕を横なぎに払って董を弾き飛ばした。董は軽やかに受け身を取って立ち上がった。間髪を入れずに離れた間合いを一気に詰め(※15)、反応の遅れた袁の顔面を打ち抜いた。

袁はのけ反りながらも蹴りを返した。董はその脚を払いつつ一歩退きながら身を低くして右拳を振り出して袁の軸足を打った(※16)。

「グァッ?」

袁が初めて苦痛の呻き声を上げ、地面に倒れ込んだ。身を起こした董の手には、判官筆(※17)が握られていた。

凄い形相で立ち上がった袁の前に、甘鳳池がやって来た。董の横に、彼女を護るように立つ。

「お前の悪行もこれまでだ。観念しろ」

甘は静かな声で言った。

「うるせえっ!」

袁は吠えると、甘に大振りの突きを放った。技も何もない、隙だらけの一撃だった。甘はそれをかわしもせずに踏み込むと、両掌で袁の頭を挟み打った(※18)。袁は脳震盪を起こして棒立ちになる。そこへ董が踏み込み、水月に判官筆を撃ち込んだ。袁は呻きながら崩れ落ち、土下座のような形になった。

董はその頭に向かって判官筆を振り上げたが、それを雷蔵の手が優しく止めた。

「あんたまで人殺しになる必要は無い。復讐は成就した」

雷蔵の言葉を聞いて、董の目から大粒の涙が溢れ出た。

「仇討ち、お見事!」

韋が大声で言うと、野次馬達から期せずして拍手が起こった。

その中で、董は雷蔵の肩に顔を埋め、大声を上げて泣いた。


翌日、飯店の食堂に現れた董は、既に旅支度を整えていた。

「やあ、おはよう」

雷蔵が明るく挨拶をすると董は笑顔で小さく呟いた。

「何だ、もう発つのか?」

韋が、(パオ)をモゴモゴと食べながら言った。

「ええ。仇討ちも叶ったし、河北冀県へ帰ります。夫の残した把式場を守って行くつもりです」

董はそう言って、静かに微笑んだ。

「憑き物が落ちたようにすっきりとした顔になったな」雷蔵は笑顔で頷いた。「今後は于派燕青拳を守り、後継者の育生に専念するんだな。頑張れよ」

「ありがとう、へキ、そして韋先生。貴方達の事は、生涯忘れないわ」

董はそう言って韋に抱拳礼をした。韋も礼を返す。

雷蔵は席から立ち上がると、董と相対した。

「道中気を付けてな」

雷蔵は抱拳礼をした。董は礼を返すと見せて、両腕を雷蔵の首に巻き付け、その体を抱き締めた。

「へキ、本当にありがとう。もし冀県に来る事があったら、顔を見せてね」

董に耳許で囁かれて、雷蔵は少し赤くなった。

「何だ、ヘキにだけご褒美かよ」

韋が揶揄するように言った。

「ヘキの方があんたより優しかったんだから、当然じゃない」

董は笑ってそう言うと、改めて二人に抱拳礼をして、飯店を出て行った。

「…行っちまったな」

韋がしみじみと言った。

「何だ昌輝、お前案外董の事を好いていたのか?」

「そんな身もフタもない言い様をするな」

雷蔵に言われて、韋は肩をすくめた。

そこへ、大男が息を切らせて駆け込んで来た。

「おお、良かった。二人とも居たか。董はどうした?」

「何だ、甘のダンナ、朝っぱらから騒がしいな。董は今しがた出て行ったぜ」

韋にそう言われて、甘は肩をすくめた。

「済まねぇな、急いでるもんでな」

「どうしたんだい?」

「偽者の袁の野郎が捕まって、甘鳳池が満州族ではなくなったせいで、また"反清復明"の危険分子扱いよ。よもやよもやだ」

甘は笑って言った。

「笑い事ではないがな」

雷蔵は首をひねった。

「まあそんな訳で、俺は江寧を離れる事にした。では、さらばだ。縁があったらまた逢おう」

甘はあっさりそう言って、飯店を出て行ってしまった。

「慌ただしい奴だな」

韋が笑いながら言った。

「まああの男の事だ、何とか生き延びるだろうさ」

雷蔵もそう言って笑った。

「さて、俺らはどうする?お前の目標は無くなってしまった訳だが?」

韋の問いに、雷蔵は笑って答えた。

「そうだな、三皇炮捶拳は技を見るだけで終わってしまったが、莫さんに呂紅八勢を教わる事は出来そうだぜ」


それから半年程、雷蔵は莫について呂紅八勢を学んだ。左右八本の短い套路ではあるがその技は奥深く、寸勁を多用するその身法は雷蔵の興味を大いにそそった。

雷蔵は近隣にある査拳や洪家拳の把式場へも行ってみたが、彼の中では呂紅八勢を越えるものではなかった。

暑さが増して来た七月のある日、雷蔵は莫に尋ねた。

「莫老師、最高の武術とは何でしょうか?」

「そうさな。武の道を極めた者の技が、至高の武術と言えるかも知れんな」

莫は笑って答えた。

「流派ではなく人、ですか」

「武術各派はそれぞれに良いものだろうが、その力を発揮するのは、やはり使い手の功夫によるのだろう、と私は考えているのだよ」

「そのようなご尽はいるのでしょうか?」

「うむ。確かにおられる」

「それは誰ですか?」

「まあ、今現在、武術を続けてどうかは定かではないが」

莫はそう言って椅子に座り直した。

「私は康熙三十六年(1697)から康熙四十一年(1702)の間、西安に居たのだが、その時に、さる高貴なお方に武術をお教えする機会を得たのだが、そのお方こそ、武を極める可能性を持った若者だった」

「そんなに凄いのか?」

「私の元に来た時には、既に宋太祖三十二勢長拳を修めており、ひとかどの腕前であった。しかしそこから更に修練を重ね、我が呂紅八勢をも修めたのだ。理解力も高く、苦練を厭わず、応用力もある。稀に見る逸材であったよ」

「今はどうしてるんでしょうか?」

「康熙五十四年(1715) に偶然この江寧で再会したのだが、更に他の武術を吸収して、進化しておられたよ」

「して、その方は何という名なのです?」

身を乗り出して尋ねる雷蔵に、莫は居ずまいを正した。

「そのお方は、李国全と申すのだが、やんごとなき出自ゆえ、(らい)と名乗っておられた」

「癩か。今は何処におられるのでしょうか?」

「私も詳しくは判らんが、西安に行けば、その足跡はあるのではないかな?」

少々歯切れの悪い莫の答えだったが、雷蔵は何の疑念も抱かなかった。

「癩。会ってみたいな」

雷蔵は小さく呟いた。彼の心は、既に西安に飛んでいた。




第一章 完


20201114



註 :


※1 昂拳 躱身刺豹から老虎回頭

※2 金水門拳法 猛虎扑食

※3 無極流兵法 (いただき)

※4 三皇炮捶拳 側身掩肘から弓歩頂心肘

※5 三皇炮捶拳 翻臂揚掌

※6 昂拳 水牛撞樹

※7 三皇炮捶拳 上歩右抓虎から左十字捶

※8 無極流兵法 扇返し

※9 于派燕青拳 排山倒海

※10 于派燕青拳 大鵬展翅

※11 于派燕青拳 雷震王母

※12 呂紅八勢 挑掠

※13 呂紅八勢 穿轉

※14 于派燕青拳 莽牛献角

※15 于派燕青拳 閃疾歩

※16 于派燕青拳 固若金湯

※17 点穴用の暗器(隠し武器)

※18 三皇炮捶拳 双翻掌

これにて第一章は完結となります。

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