膝 呂紅八勢
八極拳発祥伝説
〈八極拳開門譚〉
第一章 真壁雷蔵の段
【膝】
清・雍正二年(1724)春節。
江寧(現在の南京)の地であいまみえた甘鳳池は、不生出の好漢であり、董の夫を殺害した仇敵ではなかった。
ごろつき共を叩きのめした甘と雷蔵達一行は、旧院を出て秦淮河を渡った。街路を少し南東へ歩くと、鬱蒼とした森が見える。白鷺洲と呼ばれる湖沼地であり、街路を一歩離れるとほぼ人目にはつかない。その湖畔に、高床式の小屋があった。そこが、甘の住み家である。
甘が仇ではないと判って、董は今だに落ち込んでいる。敵だと思っていた相手が実は人違いであり、結局仇捜しは最初からやり直しとなってしまったのである。
「なあ、ねえさんよ、取り敢えず落ち着きなよ。甘鳳池じゃない誰かが仇だって判っただけでも進展じゃねえか」
「……」
床に踞り、俯いたまま董が呟いた。
「えっ?」
何とか聞き取ろうと、韋が耳を寄せた。
「本当の仇にたぶらかされて、見当違いな恨みに振り回されてた自分に腹が立ってるのよ!」
董が突然顔を上げて大声を出したので、韋は耳を押さえて引っくり返った。
「お、ちっとは調子が出て来たかい?」甘が笑いながら茶を人数分持って来た。「これでも飲んで、一服しな。気分が落ち着くぜ」
差し出された茶を、董はにおいをかいでから、手に取った。茉莉花茶だった。
「……ありがとう」
董はゆっくりと茶碗を取り、熱い茶をすすった。冷えた体に茶の熱さが染み渡る。
「ところで甘さんよ」雷蔵が茶をすすりながら言った。「あんたの名を騙る不届き者、本当に心当たりがないのか?」
「悪いが、良く知らんのだ」甘は肩をすくめた。「俺は、役人に目を付けられている。なるべく目立たないようにしてるのでな、偽者の事も噂話以上の事は知らんのだ」
「役人にって、あんた一体何をやらかしたんだ?」
耳を気にしながら、韋が尋ねた。
「別に何もやっちゃいねえよ。ただ俺は、幼い頃から武術をやっていた。まあ、学問よりも好きだったからな。一所懸命やってるうちに、『提牛撃虎的小英雄』なんて呼ばれるようになって、天狗になってたんだな。そんな時に、黄百家って先生に出会ってな。先生にコテンパンにやられて、弟子入りして内家拳を習ったんだ。その後、大嵐山の一念和尚から少林拳を習った。どちらも素晴らしい武術だったが、その二人が反清復明の志を持った人々でな」
「反清復明って何だっけ?」
「満州族の清朝から、漢民族明朝の覇権を取り戻そう、という運動の事だ」
雷蔵の質問に、韋が間髪を入れずに答えた。
「俺はただの武術家で、明でも清でも、はっきり言ってどっちでも良い。ただ、清の役人は『師匠が反清復明の徒』ってだけで俺を危険分子だと考えて、何かしら監視していやがるんだ。特に俺は漢族だからな」
甘が腕を組んで苦い顔をした。
「漢族だとやっぱりマズいのか?」
「かなり形骸化しつつはあるが、『反乱を抑制する』という名目で、漢族は武術の練習は禁じられている」
「…甘鳳池の名を騙っておきながら、偽物がのうのうとしていられるって事は、きっとそいつは満州族だ」
雷蔵がポンと手を打って言った。
「満州族が漢族をいじめるのなら、役人も見て見ぬ振りだろうしな」
韋も頷きながら言う。
「これで少しは容疑者が絞れて来たって事か?」
甘が明るい声で言った。
「あんたくらい背が高くて、満州族で、ヤクザで何か武術を習っている男か。それだけの条件があれば、案外早く見付けられるかもな」
韋も気楽な事を言う。
「夫子廟近辺じゃ、花街以外では偽者の話はあまり聞かなかったな」
雷蔵がそう言うと、甘が笑いながら言った。
「そりゃそうだ。夫子廟は古い街だ。俺の顔馴染みも居る。あの辺は俺の縄張りだからな」
「と言う事は、偽者はちゃんとそれを判ってるって事だ。甘さん、顔見知りって事はないだろうな?」
「俺は知らんが、向こうが俺を知ってるって場合もあるからな。何とも言えん」
「とにかく、夫子廟辺りは偽者はあまり来ない、という事だな。善は急げだ、南側の方を捜してみようぜ」
韋が勢い込んで言った。
「まあ確かに、南側は大報恩寺という古刹があって、その周辺は古来からの住人も多く、また外からの人間の流入も多い。ヤクザ者が目を付けやすい街だろうな」
甘は納得の態で頷いたが、雷蔵は笑いながら茶々を入れた。
「昌輝、お前新しい盛り場を覗いて楽しもうとしてないか?」
「それくらいの『役得』はあっても良いんじゃないか?」
韋は悪びれずに言って、ニヤリと笑った。
夕刻、雷蔵達は白鷺洲を出て、夫子廟から南下し外秦准河を渡って、大報恩寺界隈にやって来た。この地に江南地方で最初の仏教寺院が建立された場所で、明の時代に航海家鄭和が「大報恩寺」の建立を発願し、十万人を集め、十七年を費やして現在の荘麗な七堂伽藍を完成させたと言われている。その出来晴えに永楽帝が「第一の塔」の称号を賜ったという。また、清朝になってすぐに、康煕帝が行幸した事でも知られている、江寧隨一の仏教聖地である。
寺の門前は、宿坊や料理屋が軒を連らね、巡礼者を受け入れる仏教信仰の街の様相だが、通りを一つ奥に入れば、酒場や売春宿がひしめく『裏の繁華街』である。
「へぇー、噂には聞いていたが、こんなに賑やかな街だったとはな」
甘が目を丸くして嘆息した。
「何だよ甘のダンナ、まさか知らなかったとでも言うつもりか?」
韋が甘を横目で見ながら言った。
「だから言ったろ?俺は大人しく生活してんだ。こんな盛り場に来やしねえよ」
甘は笑って肩をすくめた。
「まあとにかく、ヤクザ者が徘徊しやすい街なのは間違いなさそうだな」雷蔵が周りを見回しながら言った。「この辺りで"悪党"甘鳳池の話を聞いてみようぜ」
「今度こそ仇を見付け出してやるわ」
董は眥を吊り上げた。
と、すぐ近くの飯店(酒場)の中から、酔っ払いの喚き声が聞こえて来た。暫く何やら言い合いをしているようだったが、やがて机の引っくり返る大きな音がした。
「何だ?ケンカか?」
韋が目を丸くしてその飯店を見ながら言った。
「ケンカと言えばヤクザ者か」
雷蔵は言うなりその物音のする飯店へ駆け出した。
と、雷蔵達がたどり着くより早く、扉を破って男が一人飛び出して来た。通りを歩く人々が驚いて散り散りになる。
勢大に地面を転がって大の字に倒れた男は、剃髪に修行着を着ていた。僧侶のようだ。
続いて同じ見た目の男が二人、やはり吹っ飛ばされて地面に転がった。
「何だ貴様は?何でこんな事をしやがんだ?」
最後に地面に転がった三人目の僧が、立ち上がりながら叫んだ。酒のせいか呂律が怪しい。
その声に応じるように、店の中から男が出て来た。五尺五寸、年の頃なら五十前後か。少々小柄だが、その身の筋肉の発達は凄まじい。男は僧侶達を睥睨して口を開いた。
「最近、大報恩寺の下っ端の坊主どもが調子に乗って困っている、とここの女将に相談を受けていたのだ。僧侶でも何でも、酒を呑むのは構わんが、節度は守れ」
「お前は天下の大報恩寺の僧を愚弄するのか?」
「天下の大寺の僧が他人に迷惑を掛けた上に、まだ名声に頼って強弁を吐くか。恥を知れ」
男は僧侶に歩み寄ると、小さな動作で腹に突きを入れた(※1)。僧侶はうむと唸って体を二つ折りにした。
「今一度座禅に取り組み、心が落ち着いたらまた客として来れば良かろう。それまではどの店の敷居も跨ぐな。次に姿を見たら、この程度では済まさぬぞ」
男は目を剥いて叱りつけた。僧侶達はほうほうの態で逃げ帰って行った。
「ヤクザ者ではなかったな」
「坊さんだったぜ」
「生臭坊主だな」
そんな事を口々に言っていた雷蔵達だったが、ふと誰かの視線に気付いた。先程の小柄な男が、雷蔵達一行をまじまじと見ているのだ。
「誰か知り合いでもいるのか?」
韋が首をひねった。
「董さんの事を見てるんじゃないか?」
雷蔵は笑いながら言った。
「やめてよ気持ち悪い」
董は両肩を抱いて身をすくめた。
男はしばらく彼らを凝視していたが、やがて意を決したように足を踏み出すと、雷蔵達に向かって歩いて来た。
「やばい。俺達も悪漢だと思われたかな?」
男を見ながら雷蔵が言った。表情は楽しそうである。
「ヘキ、お前のその"ケンカ好き"なところ、早く直した方がいいぜ」
そんな雷蔵を見て、韋は肩をすくめて言った。
それほど離れてはいなかったので、男はすぐに雷蔵達の前までやって来た。男の目は、甘を見ていた。
「俺に何か用かい?」
男の眼圧に気押されて、甘は遠慮がちに尋ねた。
「貴殿は『提牛撃虎的小英雄』の甘鳳池殿とお見受けする」
「その二つ名は気恥ずかしいが、いかにも、私が甘鳳池だが」
甘はそう答えて抱拳礼をした。
「そうか。ではきゃつより先に出会ってしまった訳か」
男の言う事は良く判らない。
雷蔵が何事かを尋ねようと口を開いた時、男が突然頭を下げた。
「甘殿、誠に申し訳ない」
「えっ?」甘は目を丸くした。「何だい突然?いきなり謝られても、何の事だかさっぱりだぜ」
「私は莫英輝、この大報恩寺から見て秦淮河対岸の聚宝門(現在の中華門)近くで、呂紅八勢という武術の把式場(道場)を持っている」
「呂紅八勢!」雷蔵が眼を輝かせて身を乗り出した。「それは、戚継光の『紀效新書』にある呂紅短打の事か?」
「その通りだ。だが、そんな我が門派から、恥知らずな者を出してしまった。本当に申し訳ない」
莫はそう言ってまた頭を下げた。
「だから、俺には何の事だか判らねえって言ってるだろ?」
甘が苦笑して肩をすくめた。
「今から少し時間を貰えないか?部屋を用意する」
莫はそう言うと、壊れた扉の店内を指し示した。
莫は雷蔵達を飯店内に案内すると、とある一室に招じ入れた。ややあって、五人の机上に簡単な酒肴が用意された。女将らしき女が小者達と共に酒肴を整え、小者達を下がらせると、全員に酒を注ぎ、部屋の隅に退いた。
「彼女は私の古くからの友人なので、ご心配なく。どうぞ一献」
莫は微笑みながら言った。しかし、誰も手を伸ばさない。
「えーっと、莫さん。先ずは、なぜ俺達をここへ招待してくれたのか、を話してくれないか?」
甘が困り顔で言った。
「ああ、そうだった。申し訳ない」莫は改めて頭を下げた。「実は、私の弟子の一人、袁鳳義という男が、甘殿の名を騙って悪さを働いているようなのだ」
それを聞いて、董は息を呑んだ。雷蔵は、そんな彼女に気を配りつつ、莫に尋ねた。
「その男、俺達も捜している所なのです。どのような男で、どこにいるのでしょうか?」
「やはり貴殿達の耳にも入っていたか。袁は康煕五十七年(1718)に我が門を叩いた。『小英雄』のようになりたい、とな。それまでにも武当六歩拳を学んでいたのだが、より実践的な武術を求めて来た、と言っていた。袁はまだ若く、野心に満ちた男だったが、根気がなく、早く結果を欲していた。だが、我が呂紅八勢は即応の拳ではあるが、その真髄は技の習熟にある。袁は功夫の蓄積こそが真の強さである事に気付けなかったのだ」
「結局我慢出来なかった訳だ」
韋が鼻で笑った。
「私の指導が至らず、面目ない。その袁は、私に"秘伝の技"を授けろと言って来た。当然断わったが、そもそも我が呂紅八勢には、そんなに都合の良い必殺の技など無いのでな。そのすぐ後、袁は彼を慕う弟分十人を連れて、この把式場を出て行った。それが康煕六十年だ」
「同じ年に、夫は殺された」
董は冥い声で言った。
「きゃつが侠客の真似事を始めたのが、その頃だったのだろう。つまらぬ事に巻き込んでしまって、本当に申し訳ない」
莫はまた頭を下げた。
「あなたのせいではないわ」
董は顔を上げ、莫の眼を見て言った。
「まあ、とりあえずこれで本当の仇が判明した訳だ。莫さん、袁の居場所は知っているんですか?」
雷蔵が神妙な面持ちで尋ねた。それに、莫はかぶりを振って答えた。
「残念だが、袁が三年前にこの江寧を出て、各地を『武者修行』と称して放浪したらしい事、最近になってこの地に舞い戻って来た事、それくらいしか知らないのだ。それで、何か武芸者が揉め事を起こす度に、そこヘ出向いて様子をうかがっていたのだが」
「状況としては、俺達と同じだな」
韋が肩をすくめて言った。
「受け身に回っていても埒が明かないって事か」雷蔵はそう言いながら天を仰いだ。「かくなる上は、袁を無理矢理にでも引きずり出すしかないって事だな」
「何か手立てがあるのかい?ヘキよ」
韋が身を乗り出した。
「一応な。ただ、それをするには董さんにも嫌な思いをして貰わなきゃならんのだが…」
雷蔵はそう言うと、董に視線を送った。
「私は大丈夫よ」董は気丈に顔を上げた。「夫の無念を晴らす為にやって来たんだから。出来る事なら何でもするわ」
「そう言ってくれると思ってたよ」
雷蔵は屈託のない笑顔で言った。
「いやらしい事は嫌よ」
「そんな事はさせやしないさ。ただ、もの凄く目立って貰う事にはなる」
「お前さん、何を企んでるんだい?」
韋の言葉に、雷蔵は手元の盃を取って一気に呑み干した。
「これはな、俺が修行している無極流の流祖の兄弟子が実際にやった事なんだけどな」
そう言い置いて、雷蔵は話し始めた。
話を聞き終えると、董は思わず苦笑いを浮かべた。
「本当に、もの凄く目立っちゃうのね」
「確かに闇雲に捜して歩くより、向こうから何らかの手懸かりが寄って来そうだな」
腕を組んで、韋が頷いた。
「これは、あんたの仇討ちだ。嫌なら、無理にする事はないぜ」
雷蔵がそう言うのを、董は晴れやかな表情で答えた。
「せっかくの好機なんだから、逃がす手はないわ。皆、協力をお願い出来る?」
「任せとけ。あんたには指一本触れさせやしねえぜ」
腕を張って、韋が受け合った。
「俺も、そして莫先生も、自分の行いにけじめをつける為にも、是非とも協力させて貰うよ」
甘はそう言って笑った。莫も頷く。
「よっしゃ。では、しっかりと準備をして、明日から始めようじゃないか」
雷蔵は明るくそう言うと、莫に向かって表情を改めた。
「なあ、莫さん。袁は、一応呂紅八勢を修得しているんですよね?」
「皆伝にはほど遠いが、中々の使い手ではある」
莫の答えに、雷蔵は顔をほころばせた。
「じゃあ、俺に呂紅八勢を指南してくれませんか?奴と手を合わせる事になるんだし。『敵を知り己を知れば百戦危うからず』と孫子も言ってるでしょう?」
「またへキの悪い癖が出て来たな」
莫に迫る雷蔵の姿に、韋は肩をすくめて笑った。
20200907
註 :
※1 呂紅八勢 衝撃
※ 内家拳 明末清初 武当山の仙人・張三丰を始祖とする。太極拳とは異なる。
※ 呂紅八勢 呂紅短打とも。綿張短打と共に、近接短打の雄として戚継光に認められ『紀效新書』に記された。




