伍 燕青拳
八極拳発祥伝説
〈八極拳開門譚〉
第一章 真壁雷蔵の段
【伍】
清・雍正二年(1724)春節。
新年の気分の残る無錫に雷蔵と韋は五日間滞在し、雷蔵は神槍李から楊家槍の基本を教授された。
二人は敢えて運河に懸かる橋のたもとで練習をした為、その練習自体がひとつの見世物となり、また雷蔵と李の腕の差が歴然としていた事もあり、興業としては大いに盛り上がった。
五日後、李は温州に向かって旅立って行った。雷蔵と韋も、寧杭街道を江寧へと出立した。
「急ぎの旅では無いとは言え、長居をしたもんだな」
韋は笑いながら言った。
「お陰で楊家槍の技術を教えて貰えたんだ。得をしたってもんだ」
雷蔵は上気嫌である。
「お前、よっぽど武術が好きなんだな」
「武術こそ、人間の叡知の結晶だと思うぜ」
「そう言えば、お前の貫流の槍も凄かったな」
「ありがとよ。お前さんもやってみるかい?」
「俺は剣と楯が専門でな」
「それは昂拳の武器術か?」
「ああ、そうだ」
「今度教えてくれよ」
「お前さんにその暇があればな」
二人は急ぐでもなく街道を歩き、その日の晩は常州の街で蘇東坡を偲んで杯を傾けた。翌晩は街道に程近い農家の軒先を借りて夜を明かし、夜明けと共に出立した。
二人の健脚は、他の旅人達を次々と追い越し、無錫を出てから三日目の昼過ぎに江寧の城門を潜った。
かつてここは三国の呉、東晋、南朝の宋、斉、梁、陳の六朝の首都として栄え、金陵、あるいは建康などと呼ばれた。
また明の太祖である朱元璋(洪武帝)がここを根拠地として全土を統一した後、応天府と名を改め、明の首都と定めたが、靖難の役で皇位を簒奪した永楽帝により首都が順天府(北京)へ遷都され、「南京」と改められた。現在は隨の頃の呼び名であった江寧で通っている。
栄枯盛衰を操り返すこの地は、しかし昔日と変わらず交通の要衝であり、活気のある大都市である。
「北京にある紫禁城は、かつてこの地にあった紫禁城を元に造営されたらしいぜ」
韋が得意気に蘊蓄を披露した。
「紫禁城とは何だ?」
雷蔵が尋ねた。
「皇帝の住まう宮殿の事だ」
「ああ。御所って事だな」
「壮麗な建物だそうだ。俺はまだ見た事は無いがな」
「北京か。話にしか聞いた事無いな。さぞかし立派な街なんだろうな」
「いずれ行く事になるかも知れないぜ」
「まあ、今はとりあえず、今夜の宿を確保するとしよう」
雷蔵は辺りを見渡しながら言った。新年の江寧は、しっかりと底冷えがする。歩いている間はあまり寒さを感じなかったが、やはり空気の冷たさが身に堪える。
「そうだな。先ずは温かい飯と美味い酒、そして柔かい布団。甘鳳池とやらを探すのは、それからだ」
韋のその言葉に、雷蔵も笑って頷いた。
街道はうっすらと雪に覆われている紫金山の裾野を廻り、西へと向かっている。
「確かこの辺りに明孝陵があるはずだ」
その山を見ながら韋が言った。
「明孝陵とは何だ?」
「明の太祖、洪武帝こと朱元璋とその后妃の陵墓だ」
「なるほど。ここを都と定めた明の初代皇帝の墓か」
「この先に、故宮(紫禁城)趾がある。その辺で宿が見つかるはずだ」
韋はそう言いながら、街道の先を透かし見た。
「流石はかつての都だけあって、街並みも立派なものだな。それに城壁も大したものだなあ」
先ほど検問の時に通った城壁の隧道を思い出しながら、雷蔵は感嘆の声を上げた。
月牙湖のほとりを通り辿り着いた故宮趾は、古い石垣に囲まれながらも、敷地内は主だった建造物も無く、広大な廃墟といった趣きであった。
「ここは靖難の役のときに城攻めを受け、最後には火をかけられて後片も無くなったんだとさ」
韋が溜め息混じりに言った。遺構は、昔日の壮大さを想起させるのに十分な規模があった。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、か」
雷蔵は感概深く呟いた。
「何だそれは?」
「日本の軍記物の一節だ。その後に『娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす』と続いてな、如何なる権勢もいつかは滅びてしまう、という物の哀れを表現している一文だ。しかし、こんな中でもそこらの廟には燈籠が掛けられ、丁寧に祀られているんだな」
「そうだな。明日までは元宵節だからな。その飾りだろう」
「元宵節?」
「新年の満月までのお祝いさ」
「支配者は替わっても、人々の暮らしは変わらずに続いて行く、という事か」
雷蔵は一人頷いた。
故宮趾周辺には宿が無かったので、近くにいた住民に教えて貰い、南西に歩いて半刻ほどの所にある、夫子廟へと向かった。
夫子廟は孔子を祀る廟で、付近一体は旧院と呼ばれ、江寧屈指の歓楽街として栄えていた。
街中はやはり燈籠で華やかに飾り立てられ、宵の口だったが、大層な人出であった。
「あっ!ここは!」
街中を歩いていた韋が、一軒の娼館の前で立ち止まった。
「おいおい昌輝、俺としては普通の宿に泊まりたいんだがな」
雷蔵は苦笑混じりに言った。
「いや、別にそういう訳じゃないんだが」韋は建物を見上げた。「ここは『媚香楼』だよな。そうか、『桃花扇』は本当に実在したんだな」
韋は一人で納得している。
「昌輝よ、何なんだいその『媚香楼』やら『桃花扇』やらというのは」
「ああ、すまんなヘキ。『桃花扇』という戯曲があってな、文人・侯方域と伎女・李香君の悲恋の物語なんだがな、この『媚香楼』というのは、その李香君がいた娼館なんだよ」
「なんだ昌輝、お前そんな戯曲なんか観るのか?」
「田舎じゃあ、都会の雰囲気には憧れるもんさ」
「まあ、気持ちは判るがな。しかし、ここには泊まれそうも無いぞ。随分と高そうだ」
何やら興奮ぎみの韋に、雷蔵は小さく首を振った。
『媚香楼』からそれほど離れていない所に、手頃な飯店(旅館)を見つけた。一階は食堂になっていて、結構繁昌しているようである。
「俺達は、これくらいの所が分相応だ」
雷蔵はそう言いながら、食堂に入った。食堂の受付が宿屋の受付を兼ねており、宿泊棟への入口のすぐ横に厨房の入口がある。丁度夕飯時とあって、席はかなり混み合っていた。
韋が宿泊の手続きをしている間に、雷蔵は食事の場所を確保しようと、空いている食卓に向かって歩き出した。しかしその時、食堂の奥の席にいる客の様子が気になった。
男三人、女一人の席なのだが、女だけが旅装で、しかも他の男達とは違い、明らかに何らかの緊張感を持っている。
雷蔵は席に着いてからも、その女に注意を払っていた。
「よう、どうしたヘキ。何を食うか決まったか?」
受付を済ませた韋がその席に来た時、事は起こった。
「何よ、話が違うじゃないの!」
声を上げたのは、先程雷蔵が気に掛けていた女だった。
「何言ってんだ。ちょっと上の部屋で話をしようってだけだろ?」
一緒にいる眉に傷のある男が下卑た笑いを浮かべて言った。
「右も左も判らない土地で、人探しも大変だろうからよ、その苦労話でも聞いてやろうってんだ」
別の男もニヤニヤ笑いながら言う。三人目のチビの男は黙ったまま、女を舐めるように見つめている。
「私は、あんた達が甘に会わせてくれるって言うから、食事に付き合っただけよ。とっとと案内してちょうだい」
「だからよ、ヤル事ヤッたら会わせてやるっつってんだよ」
眉傷は少々イラつきながら吐き捨てた。
「そう言う事ならもう結構よ。他を当たるわ」
女はそう言って立ち上がった。
「おいおい待てよ。まだ用は済んじゃいないぜ」
「私にはもう用は無いわ。私は甘鳳池を探すので忙しいの」
女はそう言うと、男達を残して食卓を離れた。
「おい、今の聞いたか」
雷蔵は韋の顔を見た。
「確かに『甘鳳池』って言ったな」
韋も頷いた。
取り残された男達は、料理をひっくり返しながら立ち上がると、女を追った。
「待てよ」
ニヤケ顔が女の右の肩を掴んだ。女はその手首を捕らえ、引き込みながら体を左に捻った(※1)。
ニヤケ顔は仰向けに床に倒された。背中を強く打って、ニヤケ顔はグェッと声を上げた。
「やる気かてめえ」
眉傷が無造作に拳を放った。女はそれを身を潜めて躱すと、下から突き上げた(※2)。眉傷は仰け反って突きを避け、そのまま数歩間を取った。
「ちょっとは使えるって事か」
「于派燕青拳(※3)。甘く見ないで」
女はそのまま構える。
その後ろに、チビ男が気配を殺して回り込んだ。女の背中を冥い目で見つめると、両手を拡げて突進した。
チビ男の頭に韋の前蹴りが直撃し、チビ男は壁まで吹っ飛んだ。自目を剥いて気絶する。
「お兄さん方、大の男が三人掛かりで女一人に手を出すとは、恥ずかしいとは思わんかね?」
雷蔵は座ったまま、眉傷に向けて言った。女は、状況を図りかねて、構えたまま目だけで眉傷と雷蔵を交互に見ている。
「てめえらには関係ねえ。引っ込んでて貰おうか」
眉傷が目をすがめて凄んだ。
「『袖振り合うも多生の縁』と昔の人も言ってるぜ」
涼しい顔で雷蔵が言った。
「そんな昔の奴には会った事がねえ」
眉傷が噛みつきそうな表情で返した。
「折角、これ以上痛い思いをしないように、と気を使ってやっているのに。気の利かん奴だな」
韋が仁王立ちで嘲笑った。
「何だとコラ」
眉傷は苛ついて韋に一歩近付いた。
「やっても良いが、ここでは他の客に迷惑だ。表へ出ろ」
雷蔵はそう言いつつ立ち上がり、眉傷に背を向けて店の外に向かって歩き出した。その何げ無い行動に、眉傷とニヤケ顔も思わず後に付いて表に出た。
「このお節介野郎が。ぶちのめしてやる」
眉傷は今にも襲い掛かりそうな勢いだったが、雷蔵は落ち着いたものである。
「それよりも一つ聞きたい。お前ら、甘鳳池を知っているのか?」
「それがどうした?」
「俺も甘鳳池を探していてな。俺にも紹介してくれないか?」
「俺に勝てれば、教えてやるよ」
眉傷は不敵に笑った。
雷蔵は無造作に眉傷に近付くと、右手刀を突き出した(※4)。それは眉傷の首筋を強かに打ち抜き、眉傷は一撃で気絶した。その場にくたりと倒れ込む。
「おいおい、気を失っては、こちらの質問に答えられないじゃないか」
雷蔵はそんな眉傷を見下ろして肩をすくめると、呆然と立ち尽くしているニヤケ顔を見た。既にニヤケた表情は完全に消えている。
「お前も知っているんじゃないのか?」
韋が穏やかな声で尋ねた。
「お、俺達は勝手に甘の兄貴に惚れ込んでるだけだ。居場所なんて知らねえ」
ニヤケ顔は大きく首を振った。
「何よあんた、知ってるって言ってたくせに!」
後から表に出て来た女が、ニヤケ顔に食って掛かった。
「あの人は神出鬼没だからよ、いつ会えるかも判んねえんだよ」
ニヤケ顔は必死に弁明をした。先程までの勢いは全く無い。
「まあとにかく、この辺りで逢える可能性があるってこったな。ありがとよ、もう帰ってもいいぜ」
雷蔵は笑いながら手で払う仕草をした。ニヤケ顔は、まだ朦朧としている仲間達を引き摺りながら、すごすごと去って行った。
「思ったより役立たずな連中だったな」
韋が首を傾げながら言った。
「それでも、この辺りに居るという情報は手に入れられたぜ」
雷蔵がそう言いつつ振り返ると、女が不審げに彼らを見つめていた。
「あんた達は誰?なぜ甘鳳池を捜してるの?」
「俺はへキ。こいつは韋。俺達は、甘鳳池が拳法の達人だと聞いて、逢いに来たんだ」
「ちょっと待てよ」
韋が、女の顔を見ながら考え込んでいる。
「何よ?」
「判った。あんた、河北冀県で燕青拳の武館をやってた、于俊熙の嫁さんだろ?」
「昌輝、何で知ってんだい?」
雷蔵は目を丸くした。
「于には以前に何度か手合わせをして貰った事がある。仲々の功夫だった。二年ほど前に、果たし合いに破れて死んだと聞いたが」
「そうよ。私は董凜風。于は私の夫よ。夫は、甘鳳池に殺されたの」
董は厳しい表情で言った。
「仇を討とうってのか?」
雷蔵の言葉に、董は大きく頷いた。
「果たし合いなんかじゃない。甘は、卑怯にもいきなり大勢で夫を取り囲んで、なぶり殺しにしたわ。絶対に許せない」
「なあ昌輝、彼女に手を貸してあげないか?」
雷蔵はそんな事を言い出した。
「何だヘキ、仇討ちの手伝いをするつもりか?」
「場合によってはな。俺の考えていた甘鳳池とは雰囲気が違うんでな。この目で確かめたい」
「勝手な事言わないで」董は雷蔵を睨んで言った。「でも、甘を捜し出すのに協力してくれるのなら、一時的に手を組んでも良いわ」
「そうかい。では甘鳳池を捜す、という共通の目的の為に、力を合わせて行こう。董さん、よろしくな」
雷蔵は屈託無く言った。
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註 :
※1 燕青拳 収弓待發
※2 燕青拳 固若金湯から石裂天驚
※3 「燕青拳」 秘宗拳、迷蹤芸とも。開祖は『水滸伝』の登場人物「燕青」であると言う。燕青は北宋に対する反乱軍の将であるため、伝人は開祖(宗師)の名を秘したことから秘宗拳とも呼ばれたという(Wikipediaより)。
于派はこの作品の為の創作。
※4 一羽流剣術「疾風」 刃を寝かせて首筋を斬る技の徒手での応用