壱 竹生島流棒術
八極拳発祥伝説
〈八極拳開門譚〉
第一章 真壁雷蔵の段
【壱】
享保八年(1723)夏の終わり。
「おー、今日はまた素晴らしい日本晴れだ。絶好の旅日和だな」
真壁雷蔵は、諫早の宿屋を出て、空を見上げた。
雷蔵は豪農の息子だったが、土子一之助に才能を見出されて一羽流剣術道場に入門し、無手類無極流兵法の皆伝を受けた。
生来の武術好きで、皆伝を得てからは頻繁に江戸市中へ出掛けては、色々な道場の門を叩き、良ければ武術談義に花を咲かせ、悪ければ師範代との仕合いとなった。ただ、人柄の良い雷蔵は手合わせの後は大概仲良くなって、その流派の秘伝を教えてもらったりして、結果的に当初の目的を果たす事がほとんどだった。
そんな彼が、小作人の中に唐人を見つけた。長崎から流れて来た、という呉さんは、実は唐土の武術、査拳の使い手であった。そして、呉さんを追って来た組織の者達は、査拳と洪家拳を操った。
雷蔵は、この唐土のウーシューが見たくて堪らなくなった。
思い立ったら後には引かないこの男は、呉さんから唐土の言葉を学び、とうとう江戸を飛び出した。
東海道をひたすら西へ行き、京から西国街道で西宮を経て、摂津の須磨から船に乗った。瀬戸内海を渡り、下関から再び陸路の長崎街道を進み、諫早へと至ったのである。ここから長崎は、もう目と鼻の先である。
街道を歩き出した雷蔵に町人風の男が一人近付いて来た。雷蔵と並んで歩き出す。
「江戸崎の真壁雷蔵様とお見受け致しやす」
「如何にも」
「あっし、長崎出島の唐人屋敷の唐人番(警護役)で下働きをしておりやす、伊左吉と申しやす。呉の若さんから連絡を頂いとりやした」
「ウーさんってそんなにエラい人だったのかい?」
「若さんのお父上、呉大人には、我々番方もお世話になっておりやす」
伊左吉は辺りに気を配りながら言った。唐人屋敷とは、出島から入国した唐人の船乗り達を住まわせる施設で、監視とは名ばかりで、実際には唐人と長崎商人との重要な商いの場であった。
「で、お前さんは何を気に掛けているんだ?」
辺りに気を使う伊左吉の態度に、雷蔵は尋ねてみた。
「実は、孫大人の手の者が様子を見に来ているって情報があって」
「誰だい孫大人ってのは」
「唐人屋敷は二つの勢力が覇を競ってるおりやして。壺や皿のような工芸品や櫛や簪みたいな小物が得意な孫大人が、薬や食品を扱う呉大人のシノギを狙ってるんですよ。場合によっては実力行使も辞さないって奴で」
「物騒だな」
「そんな世界に嫌気がさした若が、町人の娘と駆け落ち同然で逃げ出しちまいやして」
「何だよ、逃げ出したなら放っとけば良かったのに。物々しい追っ手が来やがったぜ」
「それが、若が青幣に名を連ねていたもんで」
「はあ」雷蔵は溜め息をついた。「渡世の義理って奴か」
「まあそんなとこで」伊左吉も肩をすくめた。「とにかく、あなた様のお陰で、若の消息が知れたのですから、呉大人としては喜ばしい事ではあったんですよ。ただそのせいで、孫大人にも居処がバレちゃいましたけどね」
「上手い事行かないもんだな」
「まあそんな訳で、東国で若と一緒にいた、あなた様の様子を窺いに来てるようなんでさ」
「大きなお世話だなあ」
雷蔵は笑って言った。
「で、雷蔵様は清国に渡りたいとお考えで」
「その通り」
「そんな話しは、唐人屋敷内ではあっという間に広まっちまうんでさ」
「俺は、どっちの味方でもないぜ」
「要は、孫大人は呉大人の邪魔をしたいだけなんでさ」
伊左吉は笑いながら言った。
「いい迷惑だな」
雷蔵は顔をしかめた。
「どうやら誰もいないようです。あなた様が予定よりも遅く来られたので、向こうも痺れを切らせたのかも知れませんな」
「嫌味な言い方だな」雷蔵は苦笑した。「仕方なかったんだ。小田原や浜松、尾張や須磨で色々とあったんだ」
「まあ、長崎会所(長崎奉行直属の蘭清交易機関)には話を通してますんで、船には乗れると思いますよ」
「そうか」
「その代わり、あなたは海に出るまでは唐人で通して貰います。そこが抜け道って奴です」
雷蔵と伊左吉の二人は、夕方を待たずに長崎出島に到着した。雷蔵は、黄五山という名前で出島に入った。
「誰なんだ黄五山って?」
そう尋ねた雷蔵に、伊左吉は笑って答えた。
「何でも呉大人のひいじいさんだそうで」
出島に入った時点で連絡が届いたのだろう、唐人屋敷へ来ると、呉大人が出迎えてくれた。
『やあ、よく来た。君が真壁雷蔵先生だね』
肌がよく陽に焼けた初老の男が、笑顔で言った。唐土の言葉である。
『初めまして。江戸崎の真壁雷蔵と申します。よろしくお願いします』
雷蔵は丁寧に頭を下げた。やはり唐土の言葉だ。
『言葉もちゃんと身に付けたようだね。君の覚悟はよく判った』呉大人は頷いた。『君は十日後の寧波に向かう荷船の船員、黄五山として乗り込んで貰う手筈になっている』
「ところが、ちょっと厄介な事がありやして…」
伊左吉が言い難そうに切り出した。
「我が大清帝国へ密航したいというのはお主か?」
大きな声で言いながら、別の一団がやって来た。言葉は日本語だが、明らかに清国人である。
『孫、声が高い』
顔をしかめて呉大人が言った。
「厄介な事が自分から来なすったぜ」
伊左吉は肩を落とした。
『呉よ、お前も物好きだな。息子が青幣を足抜けして揉めてるって時に、今度は密航者の手引きか?』
『お前に何か言われる筋合いは無い』
呉大人は吐き捨てるように言ったが、孫大人はそれを無視して雷蔵に視線を向けた。
『お前のような田舎侍に清国で何が出来るものか』
『俺は別に世の中を変えようなどとは思ってないぜ』
『何だ、言葉が判るのか?』
孫大人は目を丸くした。
『こんな風に馬鹿にされない為さ』
雷蔵はそう言って腕を組んだ。
「何の目的で清国へ渡るつもりだ?」
「彼の地の武術を見たいんだ」
「清国には色々な武術がたくさんある。お前が行っても袋叩きにされるのが落ちだ」
孫大人は見下すように言った。
「そうでもないと思うぜ」
雷蔵は刀の柄に手を置き、不敵に笑った。
「ならば、その腕を見せて貰おうか」
孫大人は悪そうな表情で言った。
『おい孫、いい加減にしろ』
呉大人が止めに入ったが、雷蔵はそれを遮った。
「俺が唐土へ渡る為の、最終試験って奴さ。受けて立つよ」
「いい度胸だ。そうでなくては海も渡れまい」孫大人は唇を歪めた。「先生、お願いしますよ」
孫大人が奥へ声を掛けると、部屋の中から男が一人出て来た。手に六尺ほどの棒を持っている。
「何だい、お国のウーシューじゃないのかい?」
雷蔵は意外な展開に目を丸くする。
「竹生島流棒術の由良と申す。訳あってここで用心棒をしている。このような仕儀なのでな、一手お手合わせ頂こう」
「では、辧財天より感得したという技、ご指南賜ろう」
雷蔵は大刀を伊左吉に預け、由良と相対した。用心棒を生業とするだけあって、その所作には隙がない。
「かなりの手練れとお見受けする」
雷蔵は楽しそうに言った。
「貴殿こそ」
由良も笑う。笑いながら棒を構えた。首の後ろに担ぐような独特の構えだ。
「へえ。見た事のない構えなのに、どこかで見た事があるような気がする」
雷蔵は思いを声に出して言った。確かに初めて直接目にする流派なのだが、何か心当たりがあるような気がするのである。
「左様か」
由良は口数が少ない。安定した構えである。
雷蔵も構えた。右手を前に出し、肘を曲げる。拳が鼻の前に来る。左手は胸の前に置く。
「無手か」
由良が呟いた。
「無極流兵法、真壁雷蔵。参る」
言うなり、雷蔵から動いた。小細工なく真正面から近付く。その気迫に押されるように、由良は構えから棒を振り下ろした。雷蔵は少し左に外す。振り下ろされた棒が引き落とされ素早く回転して、再び上から振り下ろされる。雷蔵は同じく左に外す。今度は、振り下ろされた棒が跳ね上がって来た。雷蔵は大きく一歩退がって避ける。
体勢を整えた雷蔵は、最初の位置に戻らされた事に気付いた。
「竹生島流、侮れんな」
雷蔵は感嘆の言葉を吐いた。
「無手を恐いと思ったのは初めてだ」由良も釣られて呟く。「貴殿の腕前に敬意を表して、我が必殺の一手をお目に掛けよう」
由良はそう言うと、棒を地面に立てるように構えた。その後ろに体が隠れるように気配が消える。
雷蔵は畳んでいた右肘を伸ばし、手刀の構えを取る。
棒が動き、由良は右手を高く取った左上段の構えになった。棒の先は下を向いている。そこから棒が鋭く旋転して、凄まじい気合の声と共に人中を突いて来た。雷蔵は小さく右足を右外に踏み出しつつ、右手刀で棒を逸らせ、その隙に乗じて懐を取ろうとした。
由良は自らの右手を潜るように棒を背負いながら素早く右に体を開いた。棒は雷蔵の視界から完全に消える。
上か?下か?
その判断をする前に、雷蔵の体は動いていた。右足を踏ん張り、その反動で由良の懐に飛び込んだ。
由良は袈裟掛けに雷蔵の横面霞を打ち込もうとしたが、雷蔵は双手突きの形で由良の右肘と右手首を押さえた。打ち込みの途中で動きを止められて、由良は体を仰け反らせる格好になる。
雷蔵はそのまま由良の両足の間に自分の右足を踏み込み、急激に体を開いて右半身になりつつ、右肘を由良の壇中に叩きつけた。ほぼ体当たりである。由良はうむと唸って後ろへ吹き飛んで、地面に大の字に倒れた。周囲の見物人から嘆息が漏れた。
暫しの間由良に極めた「頂」 の姿勢のまま固まっていた雷蔵だったが、倒れていた由良が身じろぎをするのを見て大きく息を吐いて姿勢を解くと、由良に近付いて手を差し伸べた。
「大丈夫かい?」
「何とかな」由良はその手を取って立ち上がった。「見事な当て身だった。俺の『五輪砕』が破られるとは」
「やっぱり棒は恐かったよ。そう言えば、構えや運足に『柳生心眼流』を彷彿とさせるものがあったよ。見覚えがあるってのは、そういう事だったらしい」
「俺は心眼流は知らんが」
「さっきのお主の上段構え、心眼流の山勢厳って構えに似ていたんでな」
「それは杖術か何かか?」
「いや、柔だ」
「そうか」
「あー、お二人さん、ちょっと良いかな?」
武術談議を始めた二人に、孫大人が割って入った。
「何だよ、今いい所なのに」
雷蔵はあからさまに不気嫌な態度で答えた。
孫大人は雷蔵の邪険な扱いにいささか苛立ちを覚えながらも、大物振りを示す事に成功した。
「真壁殿、見事な腕前だった。お主が清国へ行っても、何とかやって行けそうだという事は判った。もう余計な口出しはしない。気を付けて行って来るんだな」
「ありがとう。これで俺も心置き無く旅出てるってもんだ」雷蔵は笑って言うと、表情を改めた。「ところで孫大人、一つお願いがあるのだが」
「何だ?」
「俺が出発するまでの間、由良殿に棒術を習っても良いか?」
「そんな事なら、全然構わんよ」
「そうかい、ありがとう」
雷蔵はそう言うと、由良に向き直った。
「俺も構わんよ」
由良も笑って答えた。
十日後、寧波行きの荷物船に乗り込み、雷蔵は清国へと旅出った。
「待ってろよ唐土!俺が存分に見聞させて貰うぜ!」
雷蔵は、果てしなく続く海原に向かって大声で言い放った。
20190601