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第伍話《訣》

『……そう、あの時憑依していなければ彼は屋上から飛び降りることになっていた』

 ただ、と神様は正すような口調になる。

『憑依の仕方も何もようわかっておらんそちは記憶を少年と統合してしまい、混濁してしまった記憶の中、少年の進むはずだった悲しい未来からはっきりとしないまま思いからがら救ってみせたわけなのだが』

 意図せずの行動、というわけではなく、自分の意識が働いていたことを知ると不思議と良かった、という気持ちが湧いて出てきた。しかし続きには、それによって起きた重大な事故について言及された。

『そちはあやつを救ったはいいもの、憑依の解除もわからず少年として生きることになってしもうた。そのため己の記憶はいつしか少年の意識の欠片となり、その存在を思い出すことはこれまで無かった』

『そちはこうしてそち自身の存在を封じてしまったのじゃが。ここまで来たらさすがにわかるよの』

 そして事の顛末を一気に聞かされた。朧げに思い出した記憶と合致した点も多く、十分に信憑性は高い。

『その記憶の封印はあれから二十年、あの少年に憑依してから六年の時を経た今、解かれたというわけじゃ』

 六年……長いんだか短いんだか。

 自分の死んでいた間のストーリーを話し終えた神様はその少女のような姿で振り向くと、可愛らしく微笑み冗談かましくこう言った。

「なにせ、そちは何もわからず憑依したのだから、あの少年の記憶の乖離もてこずらせたものじゃぞ」

 まったくじゃ、と呟く神様……何となくその苦労を思うと労いたくなってしまうような。

「ま、まあ、この儂の手にかかればあんなもんはなんてことないのじゃからな、ほれわし、神じゃから」

 ちょっと強情な、目の前の神様を見ていると不思議と笑いがこみ上げてくる。こんなに腹の底から笑えたこと、これまでにあったかな、と自分でも思うくらい笑った。

 自分にあった疑問、忘れていたこと。それらすべてが瓦解、氷解し、何かが吹っ切れたように感じた。


「……幼いころはよう笑う子じゃったのになぁ」

 ──目の前で笑う少年に聞こえないほどか細い声で狐は呟く。


 ……なにか聞こえたような気がしたが、それはさておき、聞きたいことについて聞いてみたい。

「あの、じゃあもう一つ質問いいですか」


「質問は一回のみなどとは言っておらんぞ」

「じゃお言葉に甘えて。僕がこの世界に連れられてきたのは何故なんでしょうか」

「そち、何もわかっておらんようじゃの……まあ良い、質問に答えぬなど神として不遜なことはあるべきことではない」

 黄金色の毛皮の神様はこほん、と小さく咳をする。

「この社に来る者はすべて、現世に未練を残しておる」

「でも、それなら僕の未練はもう無くなったはずじゃないんですか」

 それならばここに来る必要はなかったに等しいだろう。

「その解決に至るまですべて自力だったとでも? 多からず少なからず儂の手が必要であったじゃろ」

「今さっきもう十分に借りたじゃないですか! だとしたらもう、僕はこの世界にいる必要が」

「まあまあそうくでない。まだそちにはやってもらうことがあるのじゃからな」

「やってもらうこと……?」


「そう、この社には今までのそちのような人が何人も来ることになるのじゃが、わしはそのような可哀想な魂が未練を果たしてあの世に行くための手助けをしている。儂にはそれに手一杯でなかなか手が回らない仕事もあっての」

なるほど。神ってのも大変なもんだ。

「そちには生ある世界で彷徨ってしまっている、いわば幽霊状態の死者の魂を説得して無事にこちらの世界へ来れるようにするという任務を請け負ってほしい」

「僕にそんなこと出来るわけが」

「現にあの少年を救ったのはそちじゃろうが。他人の手助けをすることが寧ろそちに出来ないわけが無い」

 そう否定し切った神様は濃い霧の向こうを指差し、ある言葉を囁いた。


『汝、何者にも代えざらんことを』



 この言葉を耳にした時、ふと気づいた。何物でもない、僕は僕自身で、僕は一人しかいないという当たり前のことに。

 僕がいた世界には残してきたことがたくさんあった。……それなのに、それらを僕は置き去りにして来てしまった。

 自分がまだ生きていたら、本当にやり遂げられたのだろうか。

 ──それは自分自身と向き合わねばならない試練。

 それを逃れることは出来ない。

 その試練に真正面から向き合うには自分一人ではまるで敵わない。


 そんな時に助けとなる存在がいたらなんて心強いのだろうか。……自分はなんとかこのムクゲの手も借りながら来るべき場所まで来られた。そんなわけで、今度は自分が他人ひとに対し助けとなるべき側なのかもしれない。



△▼△



──この2日ほど、僕はムクゲの留守や、境内や拝殿(一番手前の建物)の中の掃除を任されたりしていた。

中庭に面した廊下を絞った雑巾で掃除している途中のこと。


「殊勝な心掛けに感心してひとつ言い忘れたのじゃが、これがあくまでボランティアなんて言うことではなく、成仏するまでの間の霊には課せられた任務というものがあるわけでの……一応それは弁えておいて欲しいのじゃ」


いつの間にか建物まわりにも籠っていた霧は晴れてきて、中庭に佇むムクゲの姿や顔貌がはっきりと見えるようになった。その整った顔を困り顔にさせるのも気が引けるわけで悪いこととは真逆なことをしているはずなのにちょっとバツの悪い心持ちになる。

何もせずあの世に逝けると思うなよ、ってそりゃそうだ。


「それはそうと、そろそろ下の街にも行っては見ぬか」

「この世界はここだけじゃないんですね」

「そうじゃとも」


「是非行ってきなさいと言いたいところじゃ……がしかし、案内もなしに行かせるのも難じゃ、儂が途中まで付いていこう」



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