鍵
懲りずに3度目の正直。ちょっとは良くなったかな。。
「……ばか。」
それだけを言い残して君は去っていった。
テレビからは申し訳なさそうに漏れる笑い声。それをリモコンでプツっと消すと、僕の耳に入ってくるのは、エアコンと意外にうるさい洗濯機の回る音だけになってしまう。行き場を失った僕の声は君に届きそうもない。本当は君に言いたいことがいっぱいあるのに……。
いつも通りの朝、いつも通りに目覚めると、嫌にスカスカな左腕に不快感を感じてしまい、(没落したレストランじゃあるまいし)と一瞬嫌みな思考がよぎる。いや、名店のシェフならば、常連客を手放すようないい加減な料理は出すはずはないだろう……結局は『三流以下』と自分を位置づけ、『不味いことをした』と後悔する事しか今の状況を納得させられるものはなかった。
僕は寂しがる左半身をそのままに、会社に向かう支度をし始めた。
身支度をしているその最中に、セオリー通りにいかなくなった自分の部屋に少し苛立ちを覚えていた。自分の部屋なのに気づけば自分が他人になったような感覚だろうか。「いつもなら、いつもなら」と愚痴をこぼすように回転する頭を、接触不良を起こした安いテレビのようにぶっ飛ばしてやりたい気分になってしまい、こういう気分にさせる機械仕掛けを君が創造して僕をその中にセットしたんじゃないか、とさえ疑い感じてくる。
何から手を付けていいものやら、とりあえず写真や賞状等が赤や青の飾りのついたピンで留められている壁に額を強く押し付けた。
会社をホドホドに切り上げて帰る途中の散歩道。そういえば君とよく歩いたな、とかなんとかを思い出す。この前はどうだったとか、左手の感触を気にしてキョロキョロしている僕に、斜め正面を歩いていた女の子が振り返り様に指さした。
(なに?)と嘘めいて表情をつくり顎と目で訴えると、なにを勘違いしたのか「ママー」と先を歩いていた母親に向かって駆けていった。
(なにをしたと言うんだよ……)
なにか言いたいなら言えばいいのに、思わせぶりに投げかけられて置き去りにされると、後味の悪さといったらこの上ない、あの小さい女の子でさえそういう技術を持ち合わせている事を考えると男なんて生き物は、なんてことない操りやすい存在なのかもしれないな。いや、思えば、ただ単に怪しいと思われただけかもと、嘘めいた自分の表情にメッキの上塗りをして俯きかげんにもう一度その顔を創ってみる。鏡があるわけでもなしに、しかしその顔は容易に想像できた。どういう風に肯定しようか迷い所だが、先程の事は自分の考え過ぎだろうと切り捨てることにしよう。
見渡せばもうあたりには僕しか歩いていない。
トボトボと歩いていたのは僕と、長く伸びた僕の影だけだった。一足を進める度にゆらりと揺れて愛嬌をまいて感心を惹きたいといったようだ。しょげて歩いている男の足元から笑いかけて揺らめき伸びるその影。夕日に僕らは照らされて見事なくらいにみじめさを象っていた。
散歩道の終点近く、家からほど近い小さな公園のベンチに腰掛けて何気なく時間を潰すことにする。周りより少しだけ盛り上がった土地に作られた公園のベンチは端のほうにポツンと据えられていた。腕時計の針は6時22分を示し、ふと見上げた空にはピンク色に鮮やかに映えた鰯雲が群れをなして夕日に向かって泳いでいる。まるで冴えない僕の心に微笑みかけているようで僕の顔も甘んじて夕日に染めさせた。昼間雨が降っていたせいか空気の透明度が高くなり、いつもの霞も何処かの世捨て人に喰われて無くなって空をより一層高く見せていた。デコボコに建っている家並みは落ちていく太陽に合わせて見上げていた顔をゆっくりと下ろしている。日中はさぞかし首の凝ったことに違いない。と思いながらこの景色に似合わないのは僕一人だけだった。
こじんまりとした公園には、やはりこじんまりとした物しか置いてなく、小さな砂場と二人分のブランコ。そこで遊んでいる母子と目が合ってしまい、思わず目を逸らしてしまう。今の僕にとって幸せそうな家庭を想像してしまうことが何よりも辛いことなのだ。
「ピンク色の鰯雲。いつか食ってやりたいなぁ。」
僕はそう呟いて、ぼんやりと流れていく景色を眺めていたら、沈みかける夕日はその色を次第に濃ゆくしていき淡い桃色に照り返していた鱗の一つ一つは日焼けか火傷をしたように赤くなり、時間と共にその鰯雲は熱を失って最後尾から群れを隠すように淡青色に冷めていった。西から東へ首をぐるりと回すと空には綺麗なグラデーションが架かっている。僕はいままでに感じていた嫌な事を少しだけこの空に染み込ませるようにタバコをふかし空に舞い上げる。完全に沈んでしまった後の夕日の僅かな光に少しだけ照らされて、「さようなら」を言っている様だった。
5階建てのアパートの最上部、自分の部屋の前で足を止めドアノブに(無事にカエル)というカエルの飾りのついた鍵を差し込む。シャランシャランと揺れる鍵の束に、一際目立つキーホルダー。決して秀逸とは言えないデザインのカエルが嬉しそうにVサインを出している。これは君が僕にくれたプレゼントの一つだ。
「センス悪いよ。」と僕が言うと、「アハハ。」と君はさも愉快そうに笑うだけで、その口の端までいっぱいに伸ばして意地悪に笑う君につられて僕もオカシクなって、二人して声を上げて笑いあった。一瞬にして思い返される光景に身体が熱くなる。鍵を差し込んだまま暫く立ち止まってしまった自分。この今の姿を他人が見るとかなり怪しい人物に見えるかもしれない、とかなんとか考えが浮かぶと、ぶんぶんと振り切って差し込んだものを半回転させた。
勢いよくドアノブを引くとドアがガチッとなり部屋の中に入ろうとするのを拒絶されてしまった。そういえば僕に鍵をかける習慣なんて無い。頭をボリボリやりながら、鍵を今度は反対側に半回転させる。今度は慎重に開いてみる、が、なんともなく開いていくドアと部屋の電気を消し忘れている自分に蹴りを入れたくなった。
「ただいま。」
ボソッとつぶやいても返事が返ってくるわけでもなく、部屋はしんと静まり返っていた。こういう癖も直していかなくてはいけないと、カエル付きのキーホルダーを玄関の鍵掛けにちゃんと掛けた。
買い物袋をテーブルに置いてガサゴソとその中身を確認すると、6缶パックのビールと冷凍のおつまみを取り出して、空になったビニール袋を再利用できるようにクルクルっと巻いて食器棚にしまう……やはり、身に染みついた癖というものは、なかなかこの体を離れてはくれないようだ。取り出したビールをテーブルの上に3本並べると、残りの3本を冷蔵庫にしまっておく。そしてテーブルに置いた一本をプシュッと開けてそのまま一気に飲み干すと、くぷっと泡を喉の奥で掻き消した。いつもは君の面白い反応が見たいが為にわざとそのまま出していたのに、やっぱり行儀が悪かったかな、とかなんとか。
冷凍のおつまみを電子レンジに入れたあと自動ボタンを押すと、眠そうにぶいんとオレンジ色に応えて温めだした。なぜかしら小生意気な態度をとられている様に感じてしまう。
「オートマチック」はあまり好きじゃなかったが、難解な説明書に時間をかけるよりは少しはマシなほうだろう。例え難解であったとしても君に説明書がついてたなら、持てる時間をすべて使ってでも読み解いてみせるのに、と思ってみたが、自分にその努力はあっただろうか、とか、それを実践しても君を僕の思い通りにすることはやはり不可能な事だろうとか、だいいち、「オートマチック」は好きじゃないだろうが、とか。
おつまみを取り出してお皿に移すと、テーブルにある二本目のビールを手に取りベランダに腰掛けた。タバコを取り出して数秒間君を待ってしまった自分が恥ずかしい。そういやライターはと、もう今日は一日中グダグダな感じになってしまったな。
7月18日。午後10時21分。ぼんやりと大きく出ていた月も凧揚げをする角度まで上がってくると、青白色に輝きだしてそれはとても綺麗に光っていた。
5階の角部屋を借りている僕の自慢は、このちょこっと突き出たベランダから見える、まんまるのお月様だ。
ベランダから外を見渡すと、視界を遮る障害物が一切無い。眼下には少し小さめの原っぱもある為、今日みたいにキレイに空が澄み渡った日には月明かりがその原っぱの雑草に当たり、風が吹くにキラキラと波打つのを見ることが出来た。昼間に溜め込んだ熱も涼しげな虫の羽音に食べられてしまっている。放出しきれずに留まったベランダの熱が薄着の僕の足元を柔らかく暖めた。
手擦りに依りかかりおつまみを口の中に入れると、その味で君とのいろいろな思い出がよみがえってくる。少し冷たくなったおつまみを、噛みしめる度に君が溢れてくるようだった。
「なぁ。キレイだろ?」
三本目のビールを開けてポツリと呟いた。
「うん。」
と、いつもだったら君がこう答えるはずだ。
しかし、ここには僕しかいない。当然返事も返ってこない。そんな事はわかっている。頭では分かっているが、なかなか心がついていかないのはよくあることでしょう。
半分開いたスライド式の窓からは風にカーテンが靡いて優しく僕の肩を撫でている。そんなカーテンのやさしい慰めに胸が窮屈に絞められてだんだんと哀しくなってきていた。
「なぁ。」と僕が言うと、
「うん。」と君が答える。
それがとても自然なことだと思っていた。しかしここには僕だけしかいないということを改めて実感すると、そういった当たり前の事さえも自分にとってすごく大事なものだったと気づかされる。今更もう遅いかもしれないが、君への想いは僕の中で急に加速し始めた。空になったビール缶にタバコをいれて、ベランダから部屋の方に振り返ると君のおもかげがちらほらとそこら中に広がっている。君の物だらけだ。何も捨てられずに、君が出て行ったままの状態に残されている。そのひとつひとつを確認していくと、堪えていた感情が今にもはち切れそうに全身を支配して湧き出してきた――。
僕の「ただいま」の一声も、
君の「おかえり」の挨拶も、
今日の帰り道に見上げたピンク色の鰯雲の話しも、
公園に在る二人分のブランコでも、
幸せそうな家族連れを見ても、
君のくれたカエルのキーホルダーも、
三本しか飲むことが許されない安いビールも、
自慢のベランダから見える景色も、
君の趣味に偏ってレイアウトされたこの部屋も、
散らかっている君の洋服も、
ドレッシングのたくさん入った冷蔵庫も、
もう使わないかもしれないフライパンや調理器具にも、
シーツに残っている君の使っていたシャンプーの香りも、
眠るとき、目覚めた時の僕の左側にも、
朝、君のいれるコーヒーも、
君のポップコーンのようにはじけた笑い顔も、
これから二人で行こうと思っていた映画のチケットも、
たまに見せる哀しそうな横顔も、
君がいない間に起きた出来事のすべてや、僕のことを「好き。」と言ってくれたこと、君のことを「愛してる。」と言って照れていた日々のことも。
君がいなければ何も価値はないと気づいていたんだ。
君が、いつものように、僕のそばにいなければ、日常に起こるすべての事は、その価値を失うと分かっていたんだ。君は僕にとって「当たり前」にそばにいる存在なんだと、それがとても自然なことだと僕は知っていたんだ――。
僕の涙はポロポロと流れ出した。次から次へと流れてくる。君に昨日伝えたかったこと、伝え切れなかったからこんなに哀しいんだろう。僕には君しかいないのに簡単に君を傷つけてしまっていた。ごめんね。君と一緒に過ごした日々にも、本当にごめん……。
月明かりを背にしてひとしきり泣きじゃくった後、取り替えたことのない携帯を取り出した。もし許されるなら君が出て行く前からやり直したい。僕の気持ちを精一杯君に伝えよう。そうすればきっとこの部屋のドアを開けて、君が何も無かったかのように帰ってきてくれるかもしれないから……。
大丈夫。と自分に言い聞かせる。
だって君は、僕とお揃いの「カエル」のキーホルダーを持っているから―――。
おわり。
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