26:安藤さん絶望する
パキ、パキ、と乾いた音が落ちてきた。
恐怖とはどこから生まれるものなのか。
遺伝子に刻み込まれた本能か、あるいは経験や知識から来る想像力か。
どちらにせよ、未来に見る悲劇の予感こそが恐怖の根底にはある。
刃物が目の前で振り上げられたなら、その刃が自身の体を切り裂く予感が背筋を凍らせる。
もっと抽象的な物でも良い。
死はいつか必ず訪れるという漠然とした不安ですら、予感に変われば恐怖心を無限に生み出す。
恐怖心とは一つの感情である。
心とは、それはすなわち、脳から発信される信号の一つに過ぎない。
そんな事は理科の授業で誰だって習う。
だが、知識としてそれを理解する事は、体感する事とはまた別の話だ。
安藤は初めてそれを体で理解する。
知っていてなお、知らなかった。
遺伝子が悲鳴を上げ、脳が泣き喚くその様を、その身を持って感じとった時、初めて理解したのだ。
恐怖とは、全身から生み出されるものなのだと。
無意識に息を飲むように呼吸が止まるのを、心拍数が跳ね上がるのを、ねっとりと這うように汗の粒が背中を落ちるのを、全身が硬直して思考回路が凍結するのを、本当の恐怖を思い知った。
薄い画面越しのものでもなく、誰かに管理されているものでもなく、それは生まれて初めて目の当たりにする、捕食者が人類に牙を向く姿だった。
獰猛な肉食動物よりも遥かに不気味な、等身大以上の質量を持つ肉食昆虫という、デタラメな怪物である。
藤田の首から鎖骨にかけての骨が、二つの鋏のような上顎で砕かれた。
「ぎゃ」
断末魔の悲鳴は短く、あっけないものだった。
頸椎を粉々に砕かれ即死していた。
その後の光景を見てしまえば、それは運が良かったとすら思える。
まるで危険信号を発するような黄色と黒のストライプを走らせた腹を揺らし、巨大な蜘蛛は上顎に隠された牙を剥き出しにして藤田の体に突き立てた。
人間の倍以上はある巨体に反して小さな牙だった。
突き立てた牙から、ジュル、ジュルと何かを吸い上げていく。
血液と共に吸い上げられているのは、牙の先から出される分泌液で溶かされた藤田の内臓だ。
藤田の体は、まるで空気が抜けた風船のように見る見る内に萎んでいき、干からびた残骸だけが地面に落とされた。
ペロリと、とでも言うべきか、あっと言う間の事だった。
目の前で、友人の顏が溶かされている様を見ながら、安藤は動けなかった。
尻餅をついたまま、その光景を見上げるしかできなかった。
脳の血流が止まったように、酸素を求める魚のように口をパクパクを虚しく動かすしかできなかった。
「安藤さん!」
異変を感じたのか、焦った様子で大村が安藤の後を追って窓を飛び出した。
その声で、安藤はやっと我に返った。
大村からは、この巨大な捕食者の姿も、その真下に捨てられた藤田の残骸も影になって見えていないのだ。
「まて、大村……」
ダメだ。
危険だ。
止めろ。
全ての言葉は、一つとして声にはならなかった。
旧校舎を覆う並木にかかる天蓋のように張り巡らされた空の巣の上で、巨大な蜘蛛が器用に身をよじる。
グロテスクに光る腹がかすかに蠕動すると同時に、その腹の先から白い液体が射出された。
それは空気を帯びて形をなし、一纏まりの糸となる。
糸は、旧校舎から飛び出してきた大村の姿を正確に捉えていた。
「う、うわあ!?」
大村にとって、安藤以上の衝撃だっただろう。
巨大な異形の化け物を視界に捉えるや否や、その身を捕らえられてしまったのだから。
糸は大村の胸のあたりに的中し、べちゃりと張りついた。
藤田はきっとこの糸に引き寄せられたのだと、二人が理解するのに苦労はしなかった。
糸に引っ張られ、大村の体が宙に浮く。
「大村っ!!」
「あ、安藤さぁん!!」
引き寄せられればお終いだ。
大村も、藤田と同じように干からびるしかない。
大事な友達を二人とも失ってしまうと分かっていて、それでも安藤の体は動いてくれなかった。
「大村ぁぁぁ!!」
今、動かなくてどうするんだと、安藤は自身の足を強く叩いた。
痛みが、痺れるように足先に流れていく。
金縛りが解けたように、安藤は立ち上ると同時に走った。
恐怖は全身に纏わり続けている。
それでも、とにかく動けと脳は命じていた。
恐怖が本能ならば、それに打ち勝つ力は理性だろう。
その恐怖を克服できずとも、安藤は自分が今、成すべきことを選び抜いた。
「た、助け……!」
大村が助けを求めて手を伸ばす。
安藤も、それに応えるべく手を伸ばした。
今、助けずして何が友達だ。
大村の体が高度を増していく。
このままではとても届かない。
安藤は跳んだ。
その手を掴みさえすれば、自重を重ねて引き落とせるかもしれない。
今は、その手を取りさえすれば良い。
例え引きはがせなくとも、後の事はそれから考えれば良いだけだ。
ただ、今は、その手を掴むためだけに手を伸ばす。
そして、その腕が掴まれる事はなかった。
指先が触れ合うような、ほんの僅かなタイミングで、二人のその手が空を切る。
「大村あああああああ!!」
後先も考えずに跳んだ安藤の体が地面に転がった。
見上げる大村の体は、ただ巨大な蜘蛛の口元へ引き込まれるだけだった。
「安藤さああああん!!」
絶望がその口を開けた。




