胡蝶之夢
長岡俊介は、中学時代の初恋の同級生、浦川原雪緒に卒業から十年以上がたった初夏に東京で偶然再開した。互いに地元の別の高校に進学し、別の人生を歩んでいた。その後上京することで、二人は気づかぬうちに、ずいぶんと互いの生活のそばにいることになった。しかし、連絡は一切とっていなかったから、どこで何をしているのか、全く知らないままであった。
俊介は十年間、叶わなかった初恋を引きずり続けていた。しかし、それに気が付いたのは偶然の再開に意気投合し、三度目の食事をした夜であった。
一度目は二人の仕事の話。結局食事だけだったが、俊介は同級生で初恋相手という精神的な負い目を抜きにして、あわよくばと下世話な発想がゼロではなかった。
二度目はお互いの時間が空白になった学生時代と上京してからの話。話をしながら、俊介は過去の女を思い返し、それぞれ全員異なっていながら、外面的か内面的に雪緒との共通点があったことに気が付いた。
三度目に思い出と恋の話をした。そこで俊介は今までの恋のすべてが雪緒の面影を無意識で見ていたこと、いまだに雪緒への思いがくすぶっており、それが今、愛情と欲情として再燃焼して、あまつさえもっとも激しく燃え上がっていることに気が付いた。
「雪緒、俺、あの時、お前のこと好きだったんだ」
「知っていたよ、俊介君」
雪緒の家が近い、西新宿のホテルが待ち合わせと食事の定番になっていた。三度目の夜、レストランを出ると、俊介は、十年前は歯がゆくも、言えず終いだった、その一言を告げた。青い告白でさえなかった。大人になった二人には予定調和のその一言が必要だった。二人が同級生でなければ、単なる男女の駆け引きに過ぎず、その先にあるものは、精神的にも、肉体的にも結ばれたいだけの欲求だった。それは俊介にも、雪緒にもわかっていた。
「俺は、今でも、いや、たぶん、十年間、好きなままだった」
「私のこと、忘れちゃってた?」
「また会って気づいたよ。俺の今までの恋愛は、全部お前のこと、初恋のお前を求めていただけだった」
「いつもそうやって女の子、口説いているの?」
雪緒はいたずらっ子のような笑顔でダメ押しを誘っていた。それも予定調和であったし、俊介の中にも、それは筋書きとして出来上がっていた。
あの頃、理想的だと心奪われた少女が、大人になった今、そんな風に自分を誘ってくる。俊介は自分がそうであるように、純粋で、汚れた、美しくも醜い、そんな情愛の表裏を知り尽くしたようなやり取りをする雪緒が愛おしくてたまらなかった。
「好きだよ。雪緒」
「俊介君」
名前を呼ぶと、雪緒は俊介の胸に顔をうずめて、俊介の身体を背中に回した腕できつく抱きしめた。ワコマリアの白いシャツは雪緒に握りしめられ、皺になって歪んだ。
「家、近いの。知っているでしょ? 今日は泊まって」
俊介も雪緒の小さな身体を抱きしめた。
十年たって、背が伸びたのは、俊介だけであった。しかし、気持ちだけあの頃に置き去りにされて、今こうしてくすぶっているのもまた、俊介のほうだった。
目が覚めたのは、寝汗を吸い取った布団が肌にまとわりつく不快感からであった。見知らぬ天井をぼんやり眺めていたが、おぼろげな夢と現実とをさまよっているような感覚は薄く、脳内の感覚はずいぶんとはっきりとしていたし、昨夜のことの理解もしっかりとあった。
にわかに開けられていたカーテンの奥には雨が降っているのが確認できた。耳の感覚もはっきりしてきて、ざあっという雨音もしっかり聞こえてきた。俊介は隣の雪緒がまだ眠っていることを確認して、静かに身体を起こした。鼻腔からかすかに寝息が聞こえ、それに合わせて小さな肩がゆっくりと揺れており、呼吸のたびに胸元がわずかに上下していた。布団の中で、白い小さな身体は仰向けに横たわって、細い首はわずかにねじれて、顔だけが俊介のほうを向いていた。昨夜、意識を落としたときも同じような格好であったから、雪緒はずいぶんと姿勢よく眠っていたようだった。閉じられたまぶたの端から伸びる長いまつ毛はぴくりともせず、このまま布団を出ても気づかないだろうと思うほど、彼女は熟睡していた。
ゆっくりと布団から出た俊介は全裸のまま、ふらふらとキッチンに向かった。一人暮らしの女の家としては、学生が住むような間取りで、1Kの部屋のキッチンはキッチンと呼べるほどのスペースはなく、ほぼ正方形の部屋の一角に無理矢理水場が設えてあった。仕事が忙しいと言いつつも、比較的自炊をこなす頻度が高い雪緒の部屋のキッチンは、せいぜい二人前がやっとの深手の鍋も、グラスも箸も皿も御椀も実務的に整頓されてあった。一つだけ口を開けたコンロの上には、ティーポットが置かれ、中身は冷え切っていた。まだかすかにアールグレイの香りが漂っていて、俊介はシンクに置かれた2つのカップを眺めて、昨日、二人で飲んだ、残った紅茶を飲もうかとも考えた。しかし結局、冷蔵庫に手をかけ、五〇〇ミリリットルのボルヴィックを取り出して、開栓すると喉を潤した。狭い一人暮らしのキッチンに不釣合いな、黒いメタル調の大型の冷蔵庫は雪緒のこだわりだった。いつだったか、自炊の話になって、俊介は学生時代もそうだったが、社会人になってほとんど自炊をしなくなり、冷蔵庫の中もミネラルウォーターが入っている程度になったと言ったが、雪緒は実家から野菜や生鮮食品が送られてくることも少なくなく、冷蔵庫は大きいほうが良いと何度も言っていた。母からの教えとも言っていた。そんな些末なことを思い出し、水を飲みながら、我ながら彼女のことになるとなんでも記憶しているどころか、その時のセリフのやり取りまで覚えているなんて、と俊介は自身の記憶力に半ば呆れ気味に感心した。
ふいに背中に視線を感じた。振り返ると眠そうにまぶたをこすりながら雪緒がぼんやりとこちらを眺めていた。
「ごめん。起こしたかな」
雪緒は大げさに首を左右に振った。長い黒髪は、頭の動きに合わせてぼさぼさと頬や首に絡みついた。
「ううん」
「水、いる?」
俊介は右手に握ったボルヴィックを差し出し、首を傾げた。雪緒は声にならないほど静かさで、うんとだけうなずいた。俊介は栓を閉めて、そのまま軽く放ろうかとも一瞬思ったが、半分眠っている雪緒は受け取れないだろうし、そもそも、身体を重ねあったほどの男女の仲でもペットボトルを放る乱暴さはいささかはばかられるものがあった。そんなことをあれよあれよと考えながら、結局、数歩の距離ではあるのだけれど、布団まで戻ると、雪緒がすっと半身をずらして設けたわずかなスペースに身体を滑り込ませた。
そのまま仰向けに横になった俊介は持ってきたボトルを雪緒に手渡して、後頭部で手を組んだ。蛍光灯の点いていない薄暗い部屋だったが、肌が触れ合う距離にいて視線を移せばその肢体が見えてしまう恥ずかしさからか、雪緒は左手で胸元まで布団を手繰り寄せ、空いた右手でボルヴィックのボトルを受け取った。ところが、両の手がふさがったままで、開栓できないことに気づき、ぼんやりとその様子を見ていた俊介と二人ではにかんだ。ばつが悪そうに子供じみた演技がかった顔で、ん、とボトルを俊介に突き返した。俊介はやれやれと子供をあやすようにボトルを受け取ると栓を開けた。そこには面倒くささやうんざりするような、彼女を非難する気持ちは一切なかった。本当に手間のかかる幼子の様子を見る父親のそれと一切違わぬものだった。
「こぼすなよ」
と、俊介はボトルの口から水面がだいぶ下がっていたが、演技じみて慎重に雪緒に、再びボトルを渡した。雪緒は、今度は両肘で布団の端を抑え、チューブトップのようにして胸元を隠したまま、両手でボルヴィックを受け取ると、ゆっくりと口をつけた。栓の先に上品に下唇をつけてボトルを傾げると、流れる冷たい水がゆっくりと、静かに、雪緒の喉を鳴らした。
丸顔の頬は真っ白で、暗い部屋の中で対照的に浮かび上がってくるようだった。ミネラルウォーターに濡れた薄い唇は、俊介が初めて出会った中学生のころと変わらぬそれだったが、俊介の好意のせいか、ひどく艶っぽく見え、ほんの数時間前にあれほど求め合ったのに、今すぐ両手を抑え込んで、水がこぼれて布団が濡れてしまうのも構わず、彼女に覆いかぶさって、その唇を自分の唇でふさいでしまいたい欲にかられた。ぞくぞくと背筋に冷水を垂れ流したような感覚が走り、内腿を指先でゆっくりなぞられるような錯覚に陥り、下腹部がきゅっと締め付けられ、股間が熱くなるのを感じた。
「お水、美味しい。」
雪緒は満足したのか、わずかに減らしたボルヴィックを、ふたを持つ俊介に返した。俊介はにこりと目を閉じてうなずき、再び栓を閉めると、布団のわきにボトルを置いてしまおうとも考えたが、股間に集まった血流と頭の中をよぎった目の前の雪緒の視覚的な性的魅力に対する感覚の冷却に必要な時間の確保のため、また布団から出て、冷蔵庫に向かった。
いやらしさが不潔だと感じるような純粋無垢な年齢でも関係でもなかったが、それでも朝から勃起していることへの羞恥心だけでなく、それを抑えるためにわざわざ布団から出たことで、逆に自分の性的興奮が知られてしまうかも、なんていう滑稽なことを考えて、思わず苦笑した。そんなことを考えているうちに、布団に戻るころの俊介の身体はすっかり平常心を取り戻していた。
「俊介君、優しいね」
雪緒はうつろな瞳を俊介に向けながら、しかしはっきりとした声で俊介に聞いた。俊介は別段驚きもせず、しかしその問いに万事納得している様子もなく、なにが、とだけ答えた。
「お水、用意周到って感じ。いつもこんなことしているの?」
ボルヴィックは昨夜、雪緒の家に向かう最中に俊介が買ったものだった。雪緒も俊介も同郷の田舎の出身で東京の水が不味いという感覚はあったが、逆に、だから飲めないという潔癖さは二人とも持ち合わせていなかった。だから雪緒が普段紅茶を淹れるときも、泊まるとなったときに、「じゃあ雪緒の紅茶を淹れてくれないか」と俊介が頼んだときも、その際に雪緒の家の蛇口をひねることを差して気にしていなかった。しかし雪緒が普段、ためらいなく水道水で紅茶を淹れるのと同様に、潔癖とか美味しさとかそんなことを意に介さず、ただ単純に普段の癖のようなもので、寝起きに俊介は、自分がミネラルウォーターを欲しがるだろうなと思っていたし、男女に限らず、そういう朝は無条件に喉が渇くことを知っていた。クリスタルガイザーでもエビアンでも良かったが、とにかくコーヒーやジュースやお茶のような味の強いものではなく、それこそ冷めた昨夜の紅茶なんて美味い不味いにかかわらず論外で、未開封のミネラルウォーターこそ好ましかった。だからコンビニで用意したものだったし、それが周到さだとは思わなかった。しかし、結果的に雪緒に限らず、それは自分であっても相手の女性であっても、朝の起きぬけに新品のミネラルウォーターを、それも栓まで開けてもらい、あまつさえ布団にいたまま持ってきてもらえる、そんな手配をしてもらえることは、ずいぶんと甘やかされていることであったし、この場合、俊介の相手の女である雪緒にとって都合のよいことだと思えた。そういうことを半ば意識せずにやったことは、俊介の優しさに違いなかった。
「なんだよそれ。お前、寝た男に水も買ってもらったこともないし、しかもそれを飲ませてもらったこともないわけ?」
へらへらと笑いながら、自分で言っておきながらそんなことを毛頭思ってもいないにもかかわらず、俊介は軽口を叩いた。雪緒も、それがいつもの冗談だと気付いていたが、思わずくしゃっと破顔して「んふふ」と押し殺したような声にならない独特な笑い声をあげた。照れ隠しのように笑う、幼さの残る雪緒の、いたずらっ子のような声が俊介はたまらなく好きだった。
「そういうのじゃないの。部屋にあげて、エッチしたのは俊介君がはじめて。だから男の人って自分の家でするとき以外も、いつもこんな用意しているのかなって」
「別に。ほかの男がどうしているかなんて気にするような年ではなくなったし。それに――」
俊介は、再び布団の中に身体を沈めると、雪緒と向き合うように横になった。直立したまま、両手を胸元にたずさえ、ゆるくS字に身体をくねらせている雪緒から、布団を半ば奪い取るように端を掴んで、ふわっと自分と雪緒の身体が首元まですっぽり覆われるように掛けなおした。
瞬間、雪緒からは俊介のへその下あたりまでが視界に入ったし、それは俊介の視界に雪緒の生まれたままの姿が、へその下まで入っていることの裏付けであった。布団の中に二人が包まれるその間際に、雪緒はきゃっと小さな声をあげて目をつむった。思わず両手で胸先を隠した。
「知っているだろう。好きになった女には、なんでもしてやりたいんだ」
「俊介君」
互いの息が降りかかるほど、俊介は顔を近づけると、雪緒は俊介の首に腕を絡ませてきた。薄らと開けられた雪緒の唇は滑稽であったが、その艶めかしさは、俊介のタガを外すには十分すぎる色気があった。
「雪緒」
そう言い終える前に、雪緒は、俊介の唇に自身の唇を押し当てて、鼻からゆっくり空気を抜いた。俊介はそうなることを予期していたが、それでも瞬間たじろぎ、だがすぐに好意と愛情と欲望が頭の先から、足の指先まで、陳腐な言い方をすれば、魂の深淵まで駆け巡り、両の手で雪緒の頭を押さえつけ、自分のほうへと引き寄せた。押し当てられた雪緒の、半開きになった唇の奥へ、これ以上ないほど深く、自分の舌をねじり込んだ。雪緒は少し苦しそうにしながらも、その舌先をすんなり受け入れた。自分の口腔を所構わず暴れ、のたうつ、俊介の舌に、雪緒は自分の舌を絡ませた。
ん、ん、と吐息とも声ともつかぬ耽美な音が漏れ、灰色の部屋の中を官能的に反響した。雨音は遠く聞こえ、せつない喘ぎ声だけが、二人を包んだ。
「抱いて」
お互い、ずっとそのままで構わなかった唇をわずかに離すと、雪緒は目を潤ませた。
「愛してる」
うんざりするほど吐いたセリフを、俊介は口に出さずにはいられなかった。あの時、十五歳のときに言いたくて仕方がなかったそのセリフを昨晩は嫌と言うほど伝えたが、それでも俊介はまた口に出した。
雪緒は、ただ俊介の名前を叫んだ。
白い冷たい布団の中で、二人はきつく身体を抱きしめ合い、不可思議に四肢を絡め合わせ、唇を貪り合い、時に嬌声をあげ、ただ快楽に身を投じた。
「パパ」
ビデオカメラのモニターに映る体操服姿の娘が、少し不安そうな顔で俊介に手を振った。
「ちゃんと撮れてる?」
幼稚園のお遊戯と変わらないと思いながらも、小学校にあがった娘の、運動会の学年別の出し物である、創作ダンスを踊る様子を見ながら、すっかり大きくなったと俊介は娘の成長を改めて実感した。
そんな愛娘の晴れ舞台にもかかわず、もう十年前の一晩のことを思い出す自分の、父親としての実感のなさと、浮ついた消えない記憶に呆れた。
「可愛く撮れているよ」
BGMと、本部から流されている教師の解説と、俊介と同じようにカメラを向けて、わが子になにか声援を送る父兄たちの喧騒のなか、俊介は、数メートル先の娘に聞こえるように声を出した。
少女は満足そうに、んふふ、と照れ隠しのような独特の笑顔を向けた。
娘との視線が交差して、彼女が再びお遊戯じみた創作ダンスに集中するのを確認して、俊介はビデオカメラを持ち直し、モニターの中心に娘がいるように微妙に調節した。
ふいに、すぐ近くに人の気配を感じた。
「健君」
健と呼ばれた男の子は、俊介の娘の後ろを、別の女の子を挟んで、踊っていた。母親の声に対して、極めて恥ずかしそうに、しかしすこぶる安心した様子ではにかんでいた。色白の頬の丸顔で、長いまつ毛の目元と薄い唇は母親そっくりであった。母親は、んふふ、と息子と同じように少し恥ずかしそうに笑い、大きく手を振った。
「雪乃」
俊介も娘に声をかけた。雪乃はちょっと難しい振付なのか、演技に一生懸命で、ずいぶん真面目な顔で、目線だけ俊介に向けた。
健の母親は、俊介のほうを向いて、モニターに映る雪乃を見つめながら言った。
「好きな女の一字を取って、娘の名前を付けるなんて。いけないお父さん」
いたずらっ子のような雪緒の声に、俊介は下半身が震えるのを感じていた。
中秋の空は、あの朝とは真逆の晴天であった。