ユメオイビト
僕が僕で有り続けるために、何が必要なのだろうか?
体、頭、人格、精神、記憶。果たして僕はどこにいるのだろうか。
さわやかな風がビルの壁面をなでるように大通りから吹き上げる。どこからか迷い込んだ一枚の桜の花びらが風にもてあそばれて踊るように宙に舞う。立派なビルが立ち並ぶ通りを当てもなくさまよっていた花びらだが、風に誘われるがままに高度を上げた。夜の遅い時間だからか、この近くの橋をねぐらとする浮浪者が落ちているゴミを拾っているほか、人影は少なかった。
やがて花びらは、一つだけ開け放たれた窓に吸い込まれるように入っていった。そのビルはほかのビルと比べていくらか古く、小さかった。長年風雨にされされているせいか、ところどころにひびが入り、ビルの側面には歴代の悪ガキによって書かれたグラフィティが重ね重ね、縄張りを主張するかのようにでかでかと書かれていた。
花びらは湿っぽい部屋のノートの上に着地した。部屋の中は蛍光灯がついてはいるが、2列あるうちの1列の片方が薄暗い。来客用のソファと机が部屋の中央に鎮座している。ここに置かれた当初は、ずっしりとした重厚感がある立派な革張りのソファと、これまた重厚感のあるソファの脚と同じくらいの高さの机だった。透き通った天板のガラスは、机なかに格納されている雑誌や本を新品同様に映し出し、しっかりとしたこげ茶色の机の足や引き出しは、圧倒的な存在感を放っているハズだった。しかし、それらは手入れをする人間がいないせいか、ソファにはところどころ破けた跡が有り、革はくたびれ、机のガラスは溜まったホコリによって透過する光を阻んでいる。机の足の色はくすんで別の色になっていた。部屋の壁の一面に本棚が置いてあり、一部をのぞいてびっしりと本に覆われていた。比較的新しい自己啓発本や、いつ発行されたかすらわからない、古めかしい洋古書が乱雑に並べてあり、各々にはうっすらとホコリがかぶっている。風は、ほこりのひとかけらをちぎり、床に落下させた。
比較的窓側にある事務用の机と椅子に、東堂十史は寝ていた。机に足を組んでのせ、椅子に座り、ノートで顔を覆うようにして、いびきを立てている。桜の花びらが、かすかな風に吹きあがり、顔面のノートがずり落ちた。
少し眉間にしわを寄せ、うめくと男は目を開けた。目の前にピンク色の何かがある。
うっとうしそうに鼻についている花びらを払った。十史の視線に、壁に掛けられたアナログ時計の針が目に入る。
「少し寝ちまったな」
机に乗せた足を優雅におろし、疲れた目でモニターに向かう十史。モニターにはびっしりと文字で埋め尽くされている。
「早く終わらせないとな」
モニターと、机の脚に立てかけてあったキーボードを机の上に置き、交互に見てタイプ打ちをする十史。薄暗い部屋の中で、十史の顔がモニターの光の反射で青く浮かび上がる。
十史の背後にある壁の端に、色あせたポスターが貼られている。ポスターには、人が横たわり、夢を見ていて、別の人物が夢の中に入っていくイラストが描かれており、『あなたの探し物、見つけます、ユメオイビト~東堂十史~』と書かれている。端の方はめくれていて壁の色が異なっている。夜の闇が静かに十史の周りを取り囲んでいた。
黄色いテープをくぐり、足元に付している肉塊を見下ろしながら、田中修司は深いため息をついた。銀行の窓口受付だが、あたりには赤い血が散乱している。かぎなれた血なまぐさいにおいをかき分けて、修司は現場の捜査員に話を聞いた。
「少し申し訳ない。時間をいただいてよろしいだろうか」
修二はポケットから手帳を取り出そうとしたが、捜査官はそれを手で制した。
「お話は伺っています田中修司特殊刑事」
修二は少し驚いた表情をし、ズボンのポケットから手を出した。
「強盗は人質を撮り立て篭もったあと、数時間後に頭部が破裂しました。人質に怪我はなく、署の方で保護を」
修司はむき出しになっている死体の頭部を見、そしてかがんだ。
「この方の頭部には爆弾が仕掛けられていましたか?」
「いえ、爆発物らしき痕跡は見当たりません」
綺麗にヒゲがそられた顎に手を当て、撫でながら、
「となるとやはり、“頭部破裂症候群”の患者ですか」
捜査官は黙って頷いた。
死体はうつ伏せに倒れていた。左手が体の下敷きになり、右手に握られている銃が殺意を失った銃口をあらぬ方向へと向けている。そしてその死体が特異なのは、
頭がなかった。
正確に言うと、下顎はあるのだが、本来下顎から上に当たる頭部があるはず位置は血だまりに変えられ、頭を構成していたパーツが無機質な銀行の床に放射状に転がっている。まるで人生最後で社会における不満を精神的にではなく、物理的に爆発を行ったかのようにみえた。はるか後方に吹き飛ばされた眼球が虚しく銀行の天井を映している。
「遅くなりました」
テープをまたいで大平実彩子が駆け寄ってきた。片手にバインダーをもち、採寸ぴったりのスーツを着て、整った顔立ちを見ると、一見効率的に仕事をこなせるように見えるのだが、
「大平さん、足元の眼球は踏みつけないよう注意を払ってください」
「あ、申し訳ありません」
すんでのところで足元の眼球を避けたのだが、
「うわ!」
足を下ろす場所の目測を誤り、足をくじく実彩子。くじいた拍子に、手に持っていたバインダーをその場にぶちまける。
「痛、申し訳ありません」
尻餅をつく格好になった実彩子はかけていた黒縁のメガネを手探りで探していた。バインダーに挟まっていた紙が宙を舞う。
「いつまでたっても治りませんね」
半ば諦めたかのようにため息を付き、死体の観察を続ける修司。周りで作業を行っている捜査官は皆顔をしかめ、近くにいる数人は飛んできた書類を実彩子に渡す。顔を赤面させ、書類の回収を行う。
「奇跡的に現場を荒らしていないようでよかったです」
修司の言葉に、面目なさそうな表情で彼の後ろにつく。
「修司部長、これで今月に入って3人目の発症者ですね」
修司は振り返らず、死体と吹き飛んだ破片の距離を測っている。実彩子は天井を眺めている。そこまで高くはない天井だが、おおよそ3メートルぐらいだろうか。天井に頭蓋骨の破片が刺さっているのが見えた。
「実彩子さん、この病、偶発的に起こっているものだと思われますか?」
「正直、我々が調査しているので、ただの病ではないと考えています。しかし、今のところ発症者に一つの共通点しかない」
修司とゆっくり振り返り、実彩子を見上げる。実彩子は天井に目を向けたまま、話を続ける。
「発症する前に夢で白黒の般若、夜叉を見たというものです」
「本当にありがとうございます」
「こちらこそ、贔屓にしていただきありがとうございます」
初老の男性とその孫に当たる小さな男の子が、十史の前で話している。3人は元は応接のためのソファに座り、男の子は手に持っていたドリルを嬉しそうにめくっている。
「家族旅行を満喫するために、春休みの宿題をこなしました。こちらが請求額です」
十史は男性にメモを渡した。男性は満足したかのように頷き、胸ポケットから財布をとり出した。開かれた財布からお札をとり、指を舌で舐めて枚数を確認している。
「ねぇ、ねぇ、おじいちゃん、“ユメオイビト“ってなぁに?」
男の子が男性のブレザーのはじを引っ張り、色あせたポスターを指差していった。
男性は少し十史の方を伺いながら慎重に答えた。
「ユメオイビトていうのは、忘れたものを取り戻してくれる人のことだよ」
「どうゆうこと?」
「夢の中に入って、忘れたものを探すんだ」
十史が男の子の疑問に唐突に答えた。今まで男性に向いていた好奇の瞳が、十史の方に向けられる。
「よくわかんない」
男の子が座っているソファから身を乗り出す。十史は口元を緩ませ、右手を胸ポケットに近づけた。しかし、そこに目標のものがないことを確認すると寂しそうに手を宙に泳がせた。
「坊や、最近夢みたかい?」
男の子は少し考え込むように腕を組んだ。
「う~ん、確かママがお料理している夢を見た」
首を振って相槌を打つ十史。
「うんうん、じゃ、ママは何を作っていたか覚えている?」
また少し考えたあと男の子は言った。
「僕の大好物だから、カレーかな?」
「本当にカレーかな?」
「うん、ちょっとわかんない」
「それを夢の中に入っていって知ることができるのさ」
男の子は十史を指差し、訪ねた。
「そんなこと知ってどうするの?」
十史は少し笑った。
「さっきは例えが悪かったね。作っているものを当てるだけじゃなくて、なくしたものを探すことができるのさ。起きている状態で忘れることがあっても、夢の中に入ったらみんな覚えているのさ」
少し不可解な顔をする男の子
「う~ん」
男性が腕時計を見ながら、男の子をせっついている。
「ほら、もうすぐ時間だよ。おじさんにお礼を言ってから行こうか」
男の子の顔がパッと明るくなる。
「おじさんありがとう!」
ソファから勢いよく立ち上がり、手を振って入口へ歩いていく。その後ろを男性が見守るように歩き、扉のところで後ろを向いて一礼した。十史は二人がいなくなった扉をしめ、唯一ある窓辺から高層ビル群を眺めている。眼下には先ほどの二人が嬉しそうに右腕が胸ポケットをまさぐるが、からであることを確認すると寂しそうに宙を舞った。
コツコツとノックの音が聞こえる。十史はもう一度扉のところへ移動し、内側から来訪者を迎え入れた。
「お久しぶりです」
扉の向こうに立っていたのは小柄な男だった。よれよれのシャツにジーンズを着用したいかにも徹夜明けなのか赤く充血させた目をしょぼしょぼさせながら名刺を差し出す。十史は差し出された名刺をしばらく見つめてから招き入れた。
「へぇ、今度は雑誌の記者になったのか。まぁ、はいりな」
純は十史に進められるがままに、手前にあるソファに座った。ただでさえ小柄な純は猫背でさらに小さく見えた。壁際の本棚のキャビネットになっている部分から飲み物を取出し、二人分コップに注ぐ。純はレコーダーやメモ帳を取出し、鞄の中をまさぐっている。向かいのソファに腰掛ける際、数年来の友人の変わらないしぐさに苦笑した。
「記者ならペンぐらいさっと出せよ」
いつまでたっても鞄をまさぐることをやめない純にしびれを切らした十史は自分のペンを差し出した。
「あ、これはもうしわけありません。東堂さんは今何やってらっしゃるんですか?」
ペンを受け取る純。ノートを開き、しばらく眺めた後、話し出そうと口を開けたが、十史のほうが話し出すのが早かった。
「ユメオイビトのことについてだろ。なんでも質問してきな」
純はしばらくの間口をパクパク動かしていたが、深くお辞儀をすると、今度こそ話し出した。
「テープレコーダーで録音しても構わないですよね」
黙ってうなづく十史。純はテープレコーダーを起動させた。
「東堂さん、お世話になります。世間的にユメオイビトは、依頼者の夢に入り込んで夢の中の記憶を取り出すことで、依頼を完遂させるというものですよね」
「そうだ。詳しく言うと夢の中に入り込む装置、フリーダムシステムを使用して依頼者が思い出せない、深層心理に眠る記憶のカギを探し出して記憶を取り戻す」
「フリーダムシステムが開発されたときヒトの脳に直接干渉することにおいて反対意見がいくらかありましたが、」
「ユメオイビトの力は偉大だった。その反対の力を押しのけるほど輝かしい成果を上げることに成功した。ちなみに、夢の中に入り込み、記憶を探す作業をユメオイという。ユメオイを行うには、ユメオイビトと夢の中で物質を具現化する力を持つ具現家と呼ばれるパートナーがいた」
十史は身を乗り出し、目を輝かせてユメオイビトについて語る。
「しかし、君も知っているだろうが、10年前に起こった事故によってユメオイビトと具現家が消えた」
「虚無の夜ですね」
虚無の夜。その言葉を聞いた途端、十史は顔を曇らせた。
「何の前触れもなくフリーダムシステムが暴走を起こし、システムを利用していた依頼者、ユメオイビト、具現家の意識が戻らなくなった悪夢の夜だ。その日以来、システムは凍結。職業としてユメオイビトは消えてしまった」
むなしそうに語る十史の後ろで、色あせたポスターの端が揺られてパタパタなっていた。
「それ以来、俺は小さな事務所を持ってなんでも屋として活動しているよ。世界最高のユメオイビトと呼ばれていたあの時から考えもつかないことだがな」
十史は胸ポケットにさりげなく手をやり、おろした。
「禁煙ですか?」
純が遠慮がちに聞いてきた。
「あ、ああ、まぁな」
お茶を濁す十史。
「十史さんがユメオイビトだった頃の事は誰しも知っています。しかし、十史さんは誰をパートナーにしていたのですか?一切記録にないんですが」
純がこともなげに聞いている。十史はしばらく考えたのち。こういった。
「それが、俺の記憶にないんだよ」
「具現家として夢の中での物質の具現ができるのは想像力が豊かな10代の男女と聞いています。10年前の十史さんは32歳でした。確かに例外はいると聞いたことがありますが、いくら想像力が豊かであっても具現化に消費されるエネルギーに耐えることができないといわれています」
鞄から別の資料を取り出し、確認を取る純。十史は懸命に頭の中を覗き込むように考えていたが、しばらくたってからこういった。
「確かに自分自身で具現化を行っていたかもしれない。俺は具現家を雇っていなかったように思えるし、雇っていたようにも思える。記憶があいまいなんだ。そこのところ、それを明らかにしようにも、システムは凍結して、誰も俺の頭を覗き込むなんてこと出来やしないし」
カリカリとメモをとる純に話を続ける十史。純の取材は彼の胸に一つの疑問を芽生えさせることになった。
この場所は心地いい。この体は心地いい。だから僕はここが好きだった。
実彩子は自宅に帰ってきた。
その日はいつもどおり優しい言葉遣いで上司である修司に怒られ、署に戻って書類整理を行っていた。彼女は外見からするととてもしっかりとしたキャリアウーマンに見えるのだが、外見だけで判断するには厳しすぎるギャップを持っている。
「はぁ、疲れた」
玄関に腰を下ろし、靴を脱ぐ。一人暮らしで1LDKの住まいはまるで学生のひとり暮らしを想像させる。実年齢よりも大人びて見える外見からすこし想像できない住まいだ。しかし、彼女はそこしか住めないわけではないが、掃除ができない性格上、散らかしても自分の手に終える範囲内で完結させるために少々窮屈でもここを選んだ。
「きょうもまた怒られちったよ。ピロー、おいで」
飼い猫のピローが玄関まで歩いてきた。ピローは遠慮がちに実彩子の右手を舐める。灰色の体に青い眼、ロシアンブルーと言われる種類だ。なぜこの飼い猫が、ピローという名前なのか、それは彼女が道端で拾ってきた時に鳴いていた鳴き声に由来する。暮れゆく夕日に向かって親を求めているようなその鳴き声を聴いて彼女は自分の家にこの猫をすませている。
「お~よしよし、きょうもいいこにしてたかぁ」
実彩子はピローの頭を撫でている。そのうち、ピローは舐めるのをやめ、部屋の奥の方に移動してしまった。
「まってくだちゃいよ」
玄関から、部屋の中に入る。新品同様のキッチンを横切り、ピローが食べる餌を置くタライにつまづきながら、白を基本としたシンプルな色合いの部屋の中央にうつ伏せでへたりこんだ。
モノがほとんどない。部屋の中で、ピローが甘えた声を出しながら実彩子の脇腹に体を擦り付けてくる。
「はいはい、ちょっと待って」
スーツのブレザーのボタンを外し、袖を抜く。床に落ちていたハンガーを手繰り寄せ、ハンガーにかけた。窓際にある椅子の肘掛のところに精一杯手を伸ばして引っ掛けた。
「ほーら、こっちにおいで」
ピローの顎の下を掻きながら、実彩子は眠気が襲ってくるのを感じていた。ピローの満足そうな顔に癒され、そのまま眠ってしまいそうになる。
「いけない、今日の報告を書かないと」
立ち上がって椅子に座るが、そこが彼女にとっての限界だった。目の前の机に筆記用具と白紙の調査報告書を出すことはかなわず、彼女は浅い眠りへと落ちていった。ピローはそんな実彩子の前の机に飛び乗り、身を縮ませて目を瞑る。
その空間で目覚めた時、彼女は奇妙な感覚を覚えた。なぜなら、無数に扉がある空間に突如放り出されたかのようなそんな形だったのである。
「え?ここは?」
大平実彩子は、半球形のドームのような空間で目が覚めた。自分のあまり大きくない胸の上には飼い猫のピローが伏せをしている。とりあえず実彩子はピローをどかし、立ち上がってみた。ピローはあまり動かなかったのが、この空間の様子があまりにも奇妙だったからであろう。
足元には白い床があった。どこまで行っても平坦な床で、端の方を見ると、天井とくっついていた。例えて言うなれば、プラネタリウムに酷似している。半球形の天井がかぶさったドームであった。プラネタリウムであれば、その天井には、数え切れないほどの星が個性的に光っているのが見えるはずだが、彼女が見ているのは、プラネタリウムではない。
天井には数え切れなほどの多くのドアがあった。よく見ると、ドア一つ一つにそこに至るまでの階段があり、その階段は天井に張り付いている。端の方に行けば、大きな螺旋階段が天井をぐるりと回り、そこから毛細血管のように伸びる小さな階段が、一つ一つの扉へのアクセスを可能にしているようだった。
「ここは、どこなの?」
実彩子の声はに当然誰も答えることなく中に響いた。ドーム型の空間はそれなりに大きいらしく、実彩子には見当もつかないが、空間が断裂したかのようなところがあった。空間の裂け目がいくつか存在し、ひとつは先程までいた自分の部屋、殺人事件現場等、実彩子に見覚えのあるものばかり映し出されていた。
ピローが足元に近寄り、体を擦り付けてきた。ピローを抱いて小さく縮こまっていたが、不意に叫び声が聞こえてきた。
「なに?」
ピローをギュッと抱きしめ、声の発生原因を探ろうと、あたりを見渡すが、空間の裂け目に映し出されているもの以外、動くものはない。頭上の扉を見渡してみると、数多ある扉のうちの一つが明るく輝いているのがみえた。実彩子は一度は扉を見るが、視界から追い出して、必死にピローを抱きしめた。ピローが一声小さく鳴く。
しかし、しばらく経っても状況は何も変わらないので、彼女は恐る恐る扉を目指すことにした。光自体は暖かいものであり、ここで固まっていても何も起こらないと彼女自身が判断したためである。とは言っても、大きな螺旋階段まではかなり距離がある。
「こんなことだったら、最近サボっている走り込みもっとしっかりやっておけばよかった」
ピローは何も言わず、器用に実彩子の肩に乗った。目の前に、宙に浮く小さな床が現れた。唐突に現れた床に困った表情を見せる実彩子だが、ピローの無言の圧力に押され、床に乗った。
両足とも乗ったとたん、床は猛スピードで動き出した。しかし、不思議と乗っている実彩子には安定感があった。床は、光っている扉の前で停止、ふわふわと漂って実彩子の次の行動を待っている。
心に芽生えた不安を共有するかのようにピローの頭を撫で、意を決したようにドアノブに手をかける。ドアノブは発光している割には熱くも冷たくもなく、容易に回った。実彩子の背丈ほどの小さな扉は簡単に実彩子を中に招き入れた。
その日は雨だった。いつもは朝早くから活動している浮浪者も姿は見せず、曇り空はどんよりと灰色の雲を空に張り付かせていた。天から落ちてくる水の粒は非常に細かく、
いつものように十史はモニターでニュースをチェックしていた。と言っても、彼のチェックはラジオのようなモノが主で、モニター自体を見ることはない。ニュースの音声を片手間に聞いているのだ。日常的な事務作業を終え、事務所を出た。目的はビルの玄関にある缶コーヒーを購入するためである。階段室にコツコツと足音が響く。
「東堂十史はあなたか?」
コーヒーのプルタブを開けるのと、十史が呼びかけられるのは同じタイミングだった。十史は背後から声をかけられ、缶コーヒーを取り落としそうになりながらも答えた。
「あ、ええ、その通りです」
シーズンの先取りといっても無理がある麦わら帽子をかぶった体格のいい男がそこにはいた。平均よりもかなり背が高い十史と同じぐらいの背丈で、鍛えられた筋肉が、デニムのつなぎの下からでもうっすらとうかがい知ることができる。
「少し相談したいのだが」
男は佐藤潮音と名乗った。潮に音とかいてシオンと呼ぶ。その名前を聞いたとき、十史は変わった名前であると同時に、どこかで聞き覚えのある名前であると感じた。
「ともかく、お話は事務所でお聞きします」
十史は今すぐ止まっても不思議じゃないほどぼろぼろのエレベータを呼び、佐藤とともに上がった。佐藤は乗るときに少し躊躇したが、意を決して乗った。
「このエレベーター古いんでいつとまるかわからないんですよ」
冗談めかして十史はいうが、佐藤は何も語らず、目的の階に到着するのを待っていた。
妙に甲高いベルの音が、目的の階に到着したことを告げる。
大柄な佐藤がエレベーターを降りると、少しだけエレベーターは上下した。
「どういったご用件でしょう」
佐藤をソファに勧め、十史は事務机からメモを取り出し、向かい側に座った。佐藤はしばらくのうちは黙っていたが、内心迷っているかのように事務所の中をきょろきょろと見回していた。しばらくしたのち、ようやく決心がついたかのように話し始めた。
「私は動物園の園長をやっております」
そこで名刺を差し出す潮音。その名刺には山下動物園と書かれていた。
「実は、私にはずっと前から失踪している妻がいるのです。10年前からですが、つい先日、夢の中で妻が現れて言いました。私を夢の中からすくいだしてと」
そこで両足に肘をつき、顔を覆う潮音。嗚咽混じりの言葉がその口から必死に紡ぎだされる。
「自分から言うのもなんですが、とても愛し合っていました。警察に捜索願を出して、戻ってくる日をどれほど待ち望んでいたか。正直、確かに諦めていたところもあります。しかし、妻が夢の中ではあるにしろ戻ってきて自分の居場所を伝えてくれたのです」
十史は相槌を打ちながら、目の前の大男を冷静に観察していた。性格は大柄でぶっきらぼう。季節はずれの麦わら帽を被っているということは、それ自体とても大切なものに思えた。園長という身分上力仕事が必要なのだろう。日々の仕事で鍛えられている体からは動物の香りと、かすかな薬品の香りが鼻にツンと付いた。
潮音は双肩を震わせ、顔を覆っていた両手のひらを下ろした。涙で濡れた顔が顕になった。普段は人に弱みを全く見せない種類の人間だと思っていたため、十史は心の中でとても驚いていた。
「かつて、ユメオイビトとして名を馳せた東堂さんにユメオイを頼みたい」
その一言は、十史を更に驚かせた。実際に驚いた声が出てしまった。
「ユメオイ、ですって」
次の瞬間、潮音は深々と頭を下げた。
「確かに危ないことをお願いしているのはこちらも承知しております。虚無の夜以降、ユメオイは禁じられた。しかし、10年、10年ですよ。心から愛した妻からメッセージが届いたのです」
十史は固まったままである事に気づいた潮音はソファからおり、床に座って頭を下げた。
「このとおりです」
「ちょっと待ってください」
十史は頭を下げた潮音を落ち着かせ、ソファに座らせる。
「佐藤さん。確かに何でも屋としてできる限りの力添えをしたいと私も思っています。しかし、できないのです」
潮音に言い聞かせるように十史は身振りを交えて伝えた。
「私ができないといったわけには大きく分けて2つ理由があります。ひとつはこの10年のあいだでユメオイをする者は政府によって厳しい罰が待っている。これを見てください」
そういった右腕をまくり、佐藤に見せる。そこにあったのは、皮膚の中にある僅かな膨らみ。
「僕たち元ユメオイビトには皆チップをつけられている。虚無の夜が原因不明で起こった以上、僕たちみんなは彼らにとって容疑者ということですね」
「そんな強引な」
「それほど大きな事故だったいうことでしょう。ご存知の通りなにせ国民の3分の1が一夜にして昏睡状態になり、それが今まで続いているんですから」
潮音は右腕の膨らみをじっと見つめた。その視線があまりにも鋭いため十史には、埋めたチップが壊れてしまうかと思ったぐらいだ。まくりあげた袖を元に戻し十史は話を続ける。
「それに、現在ではできないんです」
潮音は乗り出した。
「それはどうゆうことです?」
「これが2つめの理由ですが関係者しか知られていないことではありますが、フリーダムシステムが凍結した後、システムは解体されました。世間的には凍結と伝えられていますが、我々は夢にもぐる手段を失った。ユメオイビトはフリーダムシステムを介して依頼者の夢に潜り込むわけですから、システムがない以上、我々にはどうすることもできないんですよ」
潮音は黙って聞いていた。十史は背後にあるポスターをちらりと見ながら潮音に伝える。
「せっかく来ていただいたのに、申し訳ないですが、私はただの何でも屋です。あなたの依頼に答えることができません」
潮音は下を向いてしばらくのあいだ黙った。しかし、下を向いたまま、ぼそりとつぶやいた。
「では、夢に入り込む手段さえ整えたらやってくれますね」
十史は、慌てて止めた。
「佐藤さん、先ほど申し上げたとおり」
すべてを言い終わる前に、潮音は荒々しく事務所を出て行った。取り残された十史は深い溜息をついたと同時に、右腕をまくり、膨らみを引き剥がした。本来ならチップがついているはずだが、彼は埋め込まれたものを既に除去していた。
ポスターの前に立ち、腕組みをして思案にふける。人の夢に入り込んで依頼者の大事なものを持ち帰る毎日だった10年前の日々を思い起こしていた。あの頃はすべて順調だった。十史は当時を振り返り、そう評価した。虚無の夜。ユメオイビトとして全てを失ったあの夜のことは十史の頭の中からは不思議と抜け落ちていた。あの夜、どんな依頼者とどんな依頼を受けてユメオイを行っていたか。全く思い出すことができない。彼がユメオイから生還したときには全てが終わっていたのだ。
彼は思案をやめ、事務机の上にある書類を片っ端から片付けて効く作業を行うことにした。潮音が再び彼の前に現れたのは、最初の訪問から数週間経ってからの出来事だった。