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紅と紺碧の、リソスフィア地峡遅滞戦  作者: 万里小路 信房


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6、銀白の魔槍を握る掌に残る熱

 馬車を降り、中間線の雪原に足を踏み入れた瞬間、マクシミリアンの鼻を突いたのは、生臭い臭いだった。  空からは絶え間なく、帝国軍の投石器が放つ破砕音が降り注いでいた。それはもはや戦いというより、硬い殻を石で叩き割るような一方的な破壊作業だった。飛来する礫が城壁に当たり、砕け散る石灰の粉が口の中をジャリジャリと汚す。


 投石器、バリスタなどの大型兵器の支援のもと、帝国軍の騎士団と歩兵隊が進んでくる。大公国軍にはそれに対抗する部隊を支える壁はもはやなかった。


 地峡に存在していた城塞の廃墟の一角で、マクシミリアンは足を止めた。板金鎧に身を固めて槍と盾を持ち、歩兵部隊を指揮している。


 前方、帝国軍に包囲された若き騎士たちが、無謀な突撃をかけた。すぐに帝国の騎士団に止められる。しかしその隙を突いて、大公国軍の弓兵が大型兵器の操作員を撃ち、それらを無力化する。


 しかしすべてを無力化させることはできなかった。戦場に重い金属音が響く。帝国軍のバリスタから放たれた巨大な鉄矢が、名乗る暇さえ与えられず、数人の騎士をまとめて串刺しにした。雪の上に、赤い絵の具が広がっていく。


 その鮮血の赤が、一瞬、酒場の入り口で揺れていた紅の風車の羽根と重なった。あそこには酒と歌があり、女の甘い香りがあった。だがここにあるのは、ひしゃげた鉄と、雪解け水に混じった汚物の臭いだけだ。


 マクシミリアンは、その死体の中に、あの日酒場で肩をぶつけてきた、マリーネと握手して別れた青年の顔を見た気がした。青年の開いた口からは、血の泡が混じった泥が溢れていた。


 帝国の歩兵が、壊滅した騎士団の旗や騎士のマントをはぎ取るとと、それを馬車の作るわだちの上に敷き詰めた。雪が踏み荒らされて汚れた黒い泥に変わっていく。


「おい、この上を通れ。旗の感触を馬にも教えてやれ」


 帝国兵が嘲笑いながら、大公国の誇りである紺碧の旗を泥の中に踏み沈める。かつてブルーノがそのために命を捨てた、輝かしい騎士の時代の死に際だった。


 マクシミリアンの喉の奥から、湿った呻きのような音が漏れた。迷いや罪悪感といった余計なものは、ひび割れた鎧の隙間から流れ出る汗と一緒に流れ去っていた。今の彼を突き動かしているのは、死んだ親友への義理立てではない。ルチエが守ろうとしているあの店や、そこで語られた思い出を、土足で踏みにじる男への、ただの、ひどく純粋な怒りだった。


「あの旗を見ろ! ゴニアタイトで見たマクシミリアンの紋章だ! 討ち取って名をあげろ!」


 功名心に焼けついた帝国の重装の騎士たちが、馬の腹を蹴って突撃してくる。彼らの目は、かつての自分たちと同じように、栄光という名の、たちの悪い熱に浮かされていた。


「……そんなものは、ここにはない」


 マクシミリアンは短く息を吐き、愛馬の脇腹に拍車を当てた。槍を突き出す。かつてブルーノを止められなかった右腕が、今は迷いなく敵の心臓を貫いた。引き抜く際の手応え。返り血が顔にかかり、鉄の味が唇を濡らす。彼が振るう槍はゴニアタイトの皇帝から拝領した魔槍、血を吸うたびに穂先が銀白に輝く。


 かつての彼は、敵を倒すたびにどこかで虚しさを感じていた。だが今は違う。一秒でも長く敵を食い止めることが、ワプティアの交渉の席で、大公国宰相が発する言葉の重みになる。そしてそれはキルトセラスでルチエが待つ店を守ることにつながる。


 帝国の圧倒的な暴力の前に、大公国は、もはや組織的な防御を行うことさえ困難になった。マクシミリアンは生き残った者をかき集め、後退しては反撃することを繰り返した。 彼らは、自国のために、これ以上引く場所がないことを知っていた。


 マクシミリアンが指揮する遅滞戦術は、もはや常人の想像を超えていた。城塞が落ち、仲間が倒れ、孤立無援となっても、彼は泥に塗れた旗を拾い上げ、ただ独りでも帝国軍の正面に立ちふさがった。


 打撃を受けて変形した鎧が脇腹の肉に食い込み、呼吸をするたびに焼けるような痛みが走る。雪の中を這いずるような退却戦。だが、その痛みの隙間に、ふと、ルチエの指先の感触が戻ってくる。あの傷跡をなぞった、熱い、吸い付くような肌の温もり。


「ブルーノを追いかけるのは、もう終わりよ」


 彼女の声が耳元で囁かれた気がした。自分を縛っていたのは亡霊の鎖だったが、今、彼を戦場に繋ぎ止めているのは、彼女が遺してくれた生身の体温だった。彼は泥にまみれた右手を強く握りしめ、自分に言い聞かせるように呟いた。


「ああ……分かっているさ、ルチエ」


 中間線は、数日間に及ぶ凄惨な抵抗の末に崩壊した。大公国軍はリソスフィアの中心都市プシロフィトンへの退却を余儀なくされる。軍事的には紛れもない敗北だった。


 しかし、コイヌール公爵の冷徹な計画は思うようには進まなかった。マクシミリアンたちが雪の溶けた泥濘の中を這いずりながら稼いだその数日間が、ワプティアで大公国宰相オパビニア侯爵が進める和平交渉を土壇場で繋ぎ止めた。彼らが数日間にわたって帝国軍の進撃を遅らせたことは、外交的な観点から見れば決定的な勝利であった。


 もし中間線がさらに早く崩壊していれば、帝国は交渉を拒否するか、大公国の独立を認めない、さらに過酷な条件を一方的に突き付ける可能性が高かった。


 崩れ落ちた城壁を背に、マクシミリアンはプシロフィトンの街へと入った。空からは、帝国軍の投石器による死の雨が降り注ぎ、街の尖塔を削り取っている。魔法障壁が軋む音とともに、焦げた家屋の臭いが街を包み始めていた。


「……ルチエ。約束を、果たせるかどうかは……わからないな」


 鎧の隙間から溢れる血を、汚れた袖で拭い、彼は燃える街の空を見上げた。これから始まるのは、美しき街を瓦礫に変えるだけの、泥沼の市街戦。マクシミリアンは、血と脂で重くなった槍を再び握り直した。掌にはまだ、昨夜ルチエが分かち合ってくれた、微かな、だが決して消えない熱が残っていた。

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