5、夜明けの誓約
休暇の五日目、最後の日。夜が訪れるのが、これほど恐ろしいと思ったことはなかった。
今夜のルチエは、マクシミリアンが来る前から、彼のいつもの席の隣で待っていた。何も言わず、彼女は彼のグラスに透明な強い酒を注ぐ。
三人は幼馴染だった。
ルチエは昔から、目を引く娘だった。マクシミリアンは、自分が彼女の隣に立つのに相応しい男ではないと、勝手に決めつけていた。だからブルーノが彼女を好きだと言い出したとき、どこかほっとしたような、胃のあたりを冷たい手で掴まれたような感覚のまま、お似合いだと返した。
それを伝えたときに、ルチエが少し寂しそうな顔をしたことの意味を、彼はあえて深く考えないようにしてきた。一歩引いて、祝福の側に回ることが、二人を幸せにする方法だと信じ込んでいたのだ。
二人が結婚したあと、マクシミリアンは一人でゴニアタイト帝国へ騎士の修行に行くつもりだった。だが、それを聞きつけたブルーノが、新品の鞍を担いで追いかけてきた。
「一人で行かせるかよ。武者修行だろ」
止めても無駄だった。結局、ルチエの「ご武運とご加護をお祈りします」という言葉と悲し気な笑顔で、送り出された。
その結末が、ゴニアタイトの荒野に転がる無残な骸だった。
ふとした拍子に視線が合う。ルチエの瞳は、酒のせいか少し潤んでいた。かつてブルーノを送り出したときと同じ、すべてを諦めたような、それでいて心の底で何かが燻っているような色。
「……あいつ、結局俺の言うことなんて一度も聞きやしなかった」
マクシミリアンは、グラスの中の透明な液体を見つめた。ブルーノはルチエの愛よりも、騎士としての名声を、戦場での一瞬の輝きを選んだ。
ゴニアタイト皇帝の親征。戦力差は二対三。味方の馬たちが不安げに前足で土を蹴る音が聞こえる中、ブルーノが拍車を打って駆け出す。
「戻れ! ブルーノ!」
叫んだマクシミリアンの声は、数千の兵が上げる歓声と、金属がぶつかり合う音に掻き消される。ブルーノが先陣の騎士を討取る。その瞬間、戦場の空気が変わった。
「ブルーノ卿を討たせるな!」
皇帝の号令とともに全軍が雪崩れ込み、劣勢は覆った。ブルーノは、そのまま英雄という名前の、実体のない場所へ消えてしまった。
「勝手に一人で満足して、あいつ……。残された方がどんな顔して生きていけばいいか、考えもしなかったんだ」
ブルーノへの腹立たしさと、生き残ってしまった自分への嫌悪感。ルチエを愛することは、死者を裏切り、その思い出を汚すことのように思えていた。だが、ルチエの震える指先がマクシミリアンの手の甲に触れたとき、彼の氷のような思考が溶け出した。
「……ねえ、マクシミリアン。あなた、今もあの人を追いかけているのね」
ルチエの声が、少し掠れていた。
「あの絵の中の、一度も振り返らなかったブルーノを、まだ呼び止めてる。……でも、彼はもう、返事もしない場所にいるのよ。あの日、私を置いていった時と同じように」
マクシミリアンは、喉の奥が熱くなるのを感じた。自分を縛っていたのは友情などという綺麗な言葉ではなく、ただ、あいつを連れ戻せなかったという惨めな無力感だった。
「俺は……。俺だけが生きて、君の前に立っているのが、申し訳なかったんだ」
「馬鹿ね。そんなの、ブルーノに対して失礼よ」
ルチエが、真っ直ぐに彼を見た。
「あの人は勝手に自分の道を選んだ。なら、私は私の道を選ぶわ。……マクシミリアン、生きて、今ここにいるのは、あなたでしょう」
ルチエの温かい掌が、マクシミリアンの頬を包んだ。その熱を感じたとき、彼の胸の中で何かが音を立てて崩れた。彼女の視線が、彼の頬にある古い傷をなぞる。ブルーノを助けようとして受けた、あの時の傷だ。
「……ルチエ。君が、好きだ。……昔から、ずっと……」
「……ええ。知ってたわ。ずっと……待ってたんだから」
ルチエの温かい掌が、マクシミリアンの頬を包んだ。
「行かないでとは言わないわ。でも、死んでブルーノに会いに行くのだけは許さない。貴方の体も、その傷も、全部私のものなんだから」
彼女の瞳には、愛を越えた執念が、氷を溶かす炎のように揺らめいていた。
重い扉が、ようやく開いた。二人はただの男と女として、残された数時間を慈しむように身体を重ね合わせた。そこにはもう、過去を悔やむ騎士はいなかった。
翌朝、冷たい雪が降るの中。マクシミリアンは従士と合流し、東へと向かう軍の伝令用馬車に飛び乗った。その表情は、数日前とは別人のように、鋭く、そして静かな決意に満ちていた。




