4、甘い毒と聖者の微笑
休暇の四日目。キルトセラスの街には、刺すような冬の陽光が降りていた。石畳の上の雪が舞いあがり銀色にキラキラ輝く。
マクシミリアンは、近衛騎士団時代の友人で、今は宰相府に勤めるエーリッヒと、広場を見下ろすカフェのテラス席にいた。
「――間違いない。今度の帝国軍の攻撃はコイヌール公爵が指揮を執る」
エーリッヒが、広げた地図の端を指先で強く叩いた。
「あいつの頭にあるのは効率だけだ。降伏勧告なんて時間の浪費だと言い切っている。地峡を抜ければ、捕虜の食い扶持を惜しんで、そのまま踏み潰して進むだろうな」
エーリッヒは話し終えると、カップを掴んだ。中身のコーヒーはとっくに冷めている。
「いいか、マクシミリアン。今度の相手にこれまでの理屈は通らない。あいつは……大公国軍の旗を奪っては、わざと泥に放り投げて馬に踏ませているらしい。騎士が必死に守ってきたものを土足で汚して、立ち上がる気力を削ぐのが狙いだ。前線からは、そんな吐き気のするような話ばかり届く」
エーリッヒが飲み干したカップを置くと、テーブルの上でガチリと硬い音がした。
その夜、酒場「紅の風車」は、昨日よりもさらに熱気に包まれていた。マリーネの歌う激しめの歌に合わせて、若い連中がジョッキでテーブルを叩き、合唱していた。
「いらっしゃい、マクシミリアン。昨日も来てくれたんですってね。ごめんなさいね」
喧騒の端でルチエがマクシミリアンの隣に座って、グラスに酒を注いだ。彼女の指先がわずかに彼の手に触れる。
「いや。若い子に相手してもらったよ。退屈はしなかった」
マクシミリアンは、酒と一緒に口に入り込んだコショウの粒を奥歯で噛み潰した。苦い刺激が走る。ルチエの横顔を見つめながら、この穏やかな表情も、コイヌール公爵の進撃で奪われるのではないかと、とりとめもない考えが浮かんだ。
「マリーネと何を話していたのよ」
「……別に。他愛のない話だ」
マクシミリアンの頭には、昼間にエーリッヒから聞いた言葉が残っていた。隣に座るルチエの体温を感じるたびに、それが明日にも消えてしまう陽炎のように思えてならない。
マリーネが歌い終わり、ルチエが舞台へ向かった。入れ替わりでマリーネが、スカートを揺らしながらさっきまでルチアが座っていた席に滑り込んできた。
「ねえ、私の歌、どう思う?」
マリーネは昨日と同じ質問をした。
「国のエライ人は、これで若者の士気が上がるって喜んでるわ。私が微笑めば、あの人たちは喜んで、明日には雪の中で死ぬ。滑稽よね。私の歌の言葉の一つ一つが若者を死地へ追いやるための甘い毒だって、私にはわかってる」
マリーネは自嘲気味に笑い、自分の細い指先を見つめた。
「……でもね、あの震える手で私と握手したあの人たちが、泥の中で死ぬ間際に思い出すのが、国の独立とかじゃなくて私の歌声であってほしいの」
そう言ってマリーネは店の喧騒に背を向け、カウンターの奥を見つめた。
「嘘でもいい、死ぬ瞬間に、この国のどこかに自分を愛してくれた女の子がいたって信じさせてあげたい。綺麗な夢を見せてあげたいの。それが、大人たちに利用されているだけの私にできる唯一の弔いだから」
十七歳の少女が浮かべたのは、聖母のような慈愛と、全てを諦めた賢者のような諦観が混ざった、ひどく歪な微笑だった。
マクシミリアンはどう言葉をかけていいかわからなかった。二人の間に、舞台の騒がしさをよそに沈黙が流れた。だが、彼女は自分でカタをつけたようだった。再び口を開いた時には、いつもの明るさが戻っていた。
「ねえ。マクシミリアンはどうしてマダムに好きって言わないの?」
マリーネが悪戯っぽく囁く。いきなり現実に引き戻されたマクシミリアンは口に含んだウオッカを、危うく吹き出しそうになった。
「……何を、いきなり」
「マダムもまんざらじゃないと思うよ。最初にマクシミリアンが来た日には声のオクターブが上がっていたし、昨日は、マクシミリアンが来て、私とばかり話していたと聞いて、悔しがっていたわ。ほら、見て。歌ってる間も、わざとあなたと私を視界に入れないようにしている」
ステージのルチエは、確かに頑なに視線を逸らしていた。その不器用な振る舞いが、古い傷跡を触られるようないやがゆさをマクシミリアンに与えた。
今、この手を伸ばせば届く。だが、明後日の朝には自分は馬車に乗る。コイヌール公爵という、血の通わない怪物の待つ泥沼へ戻るのだ。昼間のエーリッヒの言葉が、耳の奥で呪いのように響く。彼は同情を込めた目でマクシミリアンを見ていた。
「中間線は和平交渉の時間を稼ぐための捨て石だ。お前はその……、最前線で、時間を稼ぐため支払われる賭け金のようなものだ」
ルチエの歌が終わった。マクシミリアンは背中で彼女がやってくるのを感じている。彼女はマリーネを手で追い払って、彼女はマクシミリアンの隣に腰を下ろした。
「相変わらず、いい声だな」
「嘘つき。聞いてなかったくせに。二人で何の話をしていたのよ。私が舞台に立っている間に、ずいぶん楽しそうに顔を寄せていたじゃない」
マクシミリアンは苦笑いした。
「君って、そんなに疑り深かったか?」
ルチエは答えず、顔をそらした。
「私も飲んでいいかしら?」
「どうぞ」
二人はしばらく、店の中を漂う埃が光に透けるのを眺めていた。
「キルトセラスには、いつまでいられるの?」
「明後日の朝だ」
「明日の夜は?」
「……またここに座ってる。たぶんな」
「……他に行くところないの?」
ルチエが俯いたまま、絞り出すように問うた。その声は、隣で騒ぐ男たちの笑い声に掻き消されそうだった。
「ああ。ここには、……俺たちの思い出があるからな」
「……そう。過去だけなのね、あなたは」
ルチエの声が、再び始まったマリーネの激しい歌声に飲み込まれた。




