2、マダムルチエの守る城
その数日前、大公国の首都キルトセラス。ベテランの騎士マクシミリアンは、その街路を歩いていた。一週間の休暇といっても、前線からの往復に四日を食われる。この街の空気を吸っていられるのは、実質三日と到着した日の夜だけだった。
馴染みの酒場「紅の風車」の扉を押すと、アルコールの匂いと湿った熱気がマクシミリアンの顔を襲った。
戦場の灰色に慣れた目には、店内に飾られた深紅のカーテンや、色ガラスを透かしたランプの光が眩しい。
ここはもともとカフェだった場所だ。マクシミリアンとブルーノ、そしてルチエが、将来への展望もなく、テーブルを囲んでコーヒーを飲んで騒いでいた頃の面影は、天井を支える焦げ茶色の梁にわずかに残る程度だった。
「いらっしゃい、マクシミリアン」
カウンターの奥に立つルチエは、戦時下を感じさせない紫のロングドレスをまとっていた。酒場を切り盛りするマダムとしての凛とした立ち振る舞いを見せ、マクシミリアンに声をかけた。彼女が動くたびに、上質な香油の香りが、戦場の鉄錆の臭いを一時だけ忘れさせてくれる。
店の奥の壁に一枚の油絵が掛かっている。遍歴騎士時代のマクシミリアンとブルーノだ。若さゆえの向こう見ずさが、荒い筆致で封じ込められていた。ブルーノが戦死した際に支払われた報奨金、ルチエはそれをつぎ込んで、この店を買い取って、その絵を飾った。
舞台の上では、十六、七にしか見えない少女が、細い喉を震わせていた。以前ここで演じられていた滑稽な喜劇はもう行われていない。今は、勇ましい愛国歌が繰り返されている。
「マリーネフラッ(マリーネ万歳)!」
最前列を陣取った若い騎士たちが、グラスを掲げる。中身の濁った酒がこぼれる。彼らは歌い終えた少女に群がり、その少女と握手を交わし、「ご苦労様です。ご武運とご加護をお祈りします」との彼女の言葉を受け、そのまま夜の闇へと消えていく。
不意に、マクシミリアンの肩に硬い衝撃が走った。カウンターに座り直そうとしたところに、一人の青年がぶつかったのだ。
「あ……失礼」
青年は、マクシミリアンの腰の剣に一瞬だけ視線を落とし、すぐに顔を背けて扉の外へ消えた。彼の指先が、小刻みに震えていたのをマクシミリアンは見逃さなかった。
マクシミリアンは、底にコショウが沈んだウオッカのグラスを口に運んだ。喉を焼く熱い感覚だけが、今の彼にとっては唯一信じられるものだった。
「何なんだ、あれは」
独り言のような問いに、ルチエは視線を上げずに答えた。
「彼女のファンよ。明日の朝、早いんですって。みんな前線へ行くわ」
ルチエはマクシミリアンのグラスに黙って酒を注ぎ足した。
「この店も、変わったな」
マクシミリアンは、喉の奥に残るコショウの刺激を堪えながら苦々しく呟いた。こういう店が戦時下でも続けられるのは、当局に協力しているからだろうと察しは付く。
「そうよ。私たちの思い出を守るためなら、私はなんだってするわ」
彼女の言葉は、氷のように冷たく、それでいて剥き出しの刃のような鋭さを含んでいた。




