蜘蛛の美学
芥川龍之介『蜘蛛の糸』のオマージュです。
ショートショート作品です。
死後、閻魔の審査を受ける場所がある。そこは、地獄の沙汰を待つ者の緊張で、空気が張り詰め、静寂が支配していた。そんな場所に、蜘蛛の軽薄な声が木霊した。
「ないわー。ないわー。マジないわー」
たった今、死後の世界にある通達が公布された。死後の地獄の審査は、人間だけでなく、あらゆる生物に適用されるというのだ。
「お前は、生前、花粉を運ぶ蝶を巣に引っ掛け、食っただろ」
「食べたけど」
「その蝶が運んでいた花粉は、絶滅危惧植物だったということを知っていたのか」
「知らなかったけどさぁ」
「お前のせいで、地球上の植物が一つ、姿を消してしまったのだぞ」
「俺、食物連鎖に則ってただけだけど」
「嘘をつくな。お前は、キレイな生き物だけを狙っていたのではないのか」
「でもさぁ、俺だって、食べなきゃ、生きていけないじゃん?」
蜘蛛は、八本の脚のうち、一番前の右足で、タシタシと地面を叩いた。蜘蛛の言葉に、閻魔は、右手に持っていた笏を顎に当て、ふむと頷いた。
「お前の言うことにも一理ある」
閻魔は、懐から、手の平サイズの水晶を取り出した。その水晶には、針の山が写っていた。
「この水晶は、地獄の底に通じている。お前に一度だけチャンスをやろう。ここから、お前の糸を垂らし、お前が善人と思う者を一人だけ引き揚げよ。さすれば、お前は天国に行けよう」
蜘蛛は、閻魔の手の平の上の水晶に、ぴょーんと飛び乗った。そして、自慢の美しい銀色の糸を水晶にまっすぐ垂らした。するするとどれくらいの長さを垂らしただろう。その糸が、クンと引かれた。誰かが、糸に捕まったらしい。その者が、糸の中程まで登ってきた時、蜘蛛にその人物の顔が見えた。
「げぇ!」
蜘蛛は、心の底から悲鳴を上げた。蜘蛛の糸を登っていたのは、犍陀多という男だった。この男は、人を殺したり、家に火をつけたりと、悪事を働いた大泥棒だった。蜘蛛は、林の中で、巣を張っていた時、通りかかった犍陀多の頭が引っかかり、巣が壊れてしまったことを思い出した。せっかく、巣にかかったキレイな揚羽蝶を食らおうとしていたのに、逃げられてしまったのだった。
「ないわー。ないわー。マジないわー。こいつが、善人とか、マジないわー」
犍陀多は、最上の獲物を取り逃がすことになった元凶だ。
「あの蝶々さんにとっちゃぁ、命の恩人かもしれないけどさー」
そう口にした蜘蛛は、はたと気づいた。
命の恩人?こいつ、俺にとっては、最低の野郎だけど、あの蝶にとっては、善人になるのか?こいつを引き上げれば、俺は、天国へ行ける?
そう考えた蜘蛛だったが、何だかモヤモヤとした気持ちになった。蜘蛛は、随分長い間、うーんうーんと唸っていた。
「わっ!」
突然、蜘蛛の糸にかかる重さが増し、後ろに転げそうになった。グッと、八本の脚を踏ん張り、態勢を立て直した。足元を見てみると、犍陀多の他にも、蜘蛛の糸に登ってきた人間が大勢いるようだった。
おいおいおいおい。そんな人数が登ってきたら、俺の糸、切れちまうよ。
犍陀多に、早く上まで登ってきてくれよと思った時、彼が、下の人間たちに向かって叫んでいるのが聞こえてきた。
「こら、罪人ども!この蜘蛛の糸は、俺のもんだぞ。お前たちは、一体誰の許可をもらって、登ってきたんだ!降りろ! 降りろ!」
蜘蛛は、犍陀多に、激しい怒りを覚えた。腹を立てた蜘蛛は、犍陀多のぶら下がっているところから、糸を切ろうとした。その矢先、閻魔の言ったことが思い出された。
一度だけチャンスをやろう?ってことは、俺、この糸切っちゃったら、地獄行き決定?んー?でもさぁ、このまま、引き上げたとしたら、こいつ、善人ってことになるわけ? ないわー。それは、一番ないわー。マジないわー。
蜘蛛は、とうとう糸を切ってしまった。
閻魔は、蜘蛛に尋ねた。
「なぜ、糸を切ったのだ?」
「俺の美学に反するから」
「美学?」
「俺、キレイなもん好きなんだよね」
「ふむ。お前の美学とやら、さほど、腐っていないようだ」
閻魔は、蜘蛛の書類の行き先の欄に、天国行きの判子をついた。
「マジでー。閻魔、最高じゃん!」
蜘蛛は、閻魔に向かって、身を乗り出した。
「え? 閻魔って、女なの? めっちゃいい匂いするじゃん!」
鼻息を荒くした蜘蛛は、閻魔の首元に飛びついた。
「ぎゃー!」
閻魔は、悲鳴をあげながら、持っていた笏で、蜘蛛を薙ぎ払った。蜘蛛は、水晶に背を打ち付けた……
かと、思いきや、薙ぎ払われた勢いが強く、そのまま水晶に吸い込まれてしまった。あっという間に、風を切って、駒のようにクルクル回りながら、見る見るうちに地獄の底に真っ逆さまに落ちていった。そして、蜘蛛は、犍陀多たち、他の罪人と一緒に、地獄の底の血の池で、浮いたり沈んだりを繰り返すことになったのだった。