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豪運の男

作者: 灰島 司

「彼、豪運の男でさ――」

 社長は得意そうに彼を指し、カメラに語った。手にはゴッホの『星月夜』をイメージした青いカクテルを持っている。社長が紹介したのは隣でウィスキーをちびちび飲んでいる男だ。彼はちらっとカメラを見やり、「別にそんなんじゃないけど」と呟いた。

 ベンチャー企業に密着した三十分の深夜番組。この回はアーティストの活動をサポートする企業に密着した。放送されたのは半年前。福留優一は三カ月前、この会社に入社した。そのために長年勤めたホテルマンを辞めたのである。

 エンディングテーマがテレビから流れ出す。それっぽいナレーションと、会社のロビーに飾ってある『テオの肖像』のレプリカの映像が重なる。麦わら帽子を被った、ゴッホとよく似た男。テオはゴッホの弟で、生前評価されなかった兄を生涯信じた人物である。

 番組が終わった――と見せかけて、場面が転換した。バーの喧噪が流れ、カウンターに突っ伏す社長が映る。カクテルグラスは空だ。『豪運の男』はすでに帰ったらしい。「ゴッホの悲劇を繰り返さないために、起業したんです」と社長が酔った声でこぼす。そうして番組は終わる。

 福留はテレビを消し、床からシャツを拾って綺麗にアイロンをかけた。この録画は何度も見ていて、内容は完璧に覚えている。会社設立の経緯から、経営難をどのように脱したか。『豪運の男』のぼんやりした顔まで、きっちり頭に入っていた。

 身支度を整え、玄関の姿見の前に立つ。全て隙がなく、完璧だった。一点の曇りもない。福留は満足げに鏡の中の自分に向かって頷き、出勤した。

 福留は秘書課で働いている。今年で五十三歳。年齢がネックになるのは重々承知していたが、ホテルマンとしての経験や面接での熱意を社長に買われて採用された。他の幹部社員としては、もっと若い人材が欲しかっただろう。なんとか信頼を得なければ――そう思っていたのだが。

 福留は社長がいたところを眺めていた。フェンスが大きく破れている。頭には社長が自社の屋上から落ちる姿がスローモーションで流れていた。肩まで伸びた金髪とゴッホの『ひまわり』柄のシャツ。社長というよりバンドマンのような男は、フェンスにもたれた体勢のまま、きょとんとした顔で落ちた。

 遠くから重い音が聞こえ、我に返った。急いでフェンスへ駆け寄り、下を覗く。十階建てビルの真下には青々と茂った木々が並んでいる。その下の様子は分からなかった。

 福留は秘書課の先輩の毒島(ぶすじま)に電話した。

「社長はまだですか? 会議が一向に始められないのですが」

 凜とした声。第一印象では、ムスッとしているが、ブスではないと思った。福留の教育係で、二十は年上だろう福留にも容赦なく物を言う。今は彼女の生意気な声がありがたかった。

「社長がビルの屋上から落下しました」

「えっ?」

「副社長に伝えてください」

「なぜ落ちたんですか? 第一、屋上は立ち入り禁止ですよ」

 確かに、屋上のドアの前には立ち入り禁止の札とチェーンがあった。福留はとりあえず答えられる質問に答えた。

「フェンスが壊れたんです」

 福留と同時に通話を切る音がした。破れたフェンスのすぐ隣に、くすんだ緑色の作業服を着た男が立っている。やたら大きな目は黒々として、二つの穴のようだった。

「救急車、すぐ来るって」

 豪運の男――三好善司三好善司(みよしぜんじ)は、ゆっくりと福留に視線を移し、そう言った。


 社長は木々の下に停まっていたトラックの荷台に落ちた。

 福留と三好は警察から事情聴取を受け、終わった頃には日はとっぷり暮れていた。夏のぬるい夜空で三日月が霞んでいる。

 福留は警察署から会社に戻り、地下駐車場の車内で気合いを入れ直した。まだやることは残っている。

「副社長がお呼びです。お疲れでしょうが、よろしいですね?」

 後部座席の三好に声をかけた。彼は携帯をいじっていた。遅れて「ああ、はい」と頷いた。

 二人はこれから副社長に事情をまた一から説明しなくてはならない。警察署へ行く前、幹部社員には一通り話したが、その時副社長は病院にいたのだ。

 副社長室には毒島がいた。福留は社長の容態を尋ねた。

「一命は取り留めましたが……危ない状態です」

 副社長は疲れた様子で革張りの肘掛け椅子に座っていた。一目では社長と兄弟だとは分からない。十一歳差の兄とは対照的な、神経質そうな男。番組にもチラッと出ていた。副社長というテロップがなければ、やり手の弁護士に見えただろう。

 彼らが起業した経緯は滅茶苦茶で、ある日、新宿へ出かけたはずの社長がオランダから帰国し、ゴッホのために起業すると言い出したのがきっかけだった。会社員だった副社長は兄に誘われ――というより半ば強引に――会社を興したのだ。

「私は自分で確認しないと気が済まないたちでね。何があったのか全て話してくれ」

 二人は用意されていた椅子に腰を下ろし、副社長と向き合った。福留はこの三十半ばの上司があまり得意ではなかった。入社してから知ったが、彼は福留を採用することに最後まで難色を示していたという。

 眼光の鋭さに面接を思い出しながらも、落ち着いて説明をする。内容は幹部社員や警察の時と同じだ。しかし、三好は違った。

「副社長には、本当のことを話しますね」

 どうやら警察や幹部社員には伏せていたことがあるようだ。

 一体、何が起こったのか――福留と三好の説明を合わせると、次の通り。

 三好は社員でありながら所属の部署がなく、基本的に屋上や屋上近くの階段で過ごしていた。屋上では一年ほど前に落雷事故があり、死亡者も出たので立ち入り禁止になっていたが、彼は出入りを許されており、鍵も持っていたのである。

 今日も屋上で何をするでもなく、いつものようにぼんやりしていた。しばらくして社長が現れ――午後二時頃だった――、話をした。

 話の内容は世間話と聴取では答えたが、実際は落雷事故で亡くなった社員について話した。

 その社員の名は田中絵里。かつて秘書課に勤務していた。彼女は三好の恋人だったが、社長とも関係があると噂が流れていた。三好が確認しようとした折に、田中絵里は亡くなり、噂どころではなくなった。それからも心に引っ掛かってはいたが、聞くに聞けず時間だけが過ぎ、今日になった。彼女が死んだ屋上に社長が現れたことで、今しかないと社長に確かめたのだった。

 真実は黒だった。三好と社長は十年来の付き合いである。あまりのショックでビルから飛び降りようとしたが、社長に止められた。そして、揉めている最中に、福留が現れたのである。

 福留はずっと社長を探していた。会議が始まる午後二時になっても会議室に来ず、電話にも出ないため、社内を走り回り、目撃情報を社員に聞いて回り、『屋上に行くのを見た』と情報を得て、屋上へ向かったのだ。彼らの様子については何とも言えない。急いでいたし、距離もあった。社長が「とにかく元気出せよ」と言っていたのを微かに聞き取ったくらいだ。社長を急かすと、彼は「忘れてたわ」と言いながらフェンスにもたれた。その拍子にフェンスが壊れ、社長は落下した。

 警察の見解では、フェンスが破損した主な原因は落雷事故だという。落雷により雨水を通じてフェンスが感電し、脆くなっていたのではないかとのことだった。


 副社長は話が終わるとため息をつき、眼鏡を外して目頭を揉んだ。

「だから田中さんはやめといたほうがいいって言ったんだ」デスクを拳で叩き、三好を見据えた。「ここだけの話にしてくれて助かったよ」

「感謝してるなら、退職させてください」

「退職?」福留は三好を見た。「三好さん、退職するんですか?」

「今、この会社で僕をありがたがっているのは社長と決断力のない社員くらいですよ」

「君には感謝しているんだよ。嘘じゃない」副社長が宥める。「君がいなければ、会社は十年前に潰れていた」

 福留は番組で聞いた話を思い出す。十年前、会社は経営難に陥っていた。融資も断られ、このままでは倒産。にっちもさっちもいかなくなった社長は思い切った行動に出る。会社の資金を持ち出し、競馬場に向かったのだ――無論、副社長には内緒で――。そして大負けし、会社へ戻るに戻れず、競馬場の近くを彷徨っていると、青年が爺に絡まれているところに出くわした。社長は爺を追い払い、青年を助けた。その青年が当時十八歳のフリーター、三好善司だったのである。

 恩を感じた三好は社長を宝くじ売り場へ連れていった。競馬場の活気に追いやられたような寂れた売り場だったが、三好はここで宝くじを買えと言った。社長はヤケクソでそれに賭け、見事一等を当て、その金を元手に会社は経営難を脱したのだった。そして社長は三好を雇い、重大な事柄を決める際、彼に頼るようになった。

「君が選べば絶対に上手くいった」

「直感で答えていただけですよ」

「それでも君のおかげなのは事実だ」

 豪運の男、福男、招き男――社内での三好善司の呼び名はめでたいものばかりだが、彼を不気味がる者や敬遠する者も少なくなかった。ぼんやりした無表情や雰囲気。普段経営からは最もかけ離れたところにいるのに、重要な局面になると必ず現れる。いくら社長に信頼され、成功をもたらすといっても、良く思わない社員がいるのは当然だった。

「僕みたいな人間は、副社長みたいな人ほど嫌でしょ?」

「……君には感謝しているよ」

「そうですか。でも、僕はうんざりしてるんです。豪運なんて言われても僕にはよく分からない」

「分かった。ただ、兄が目を覚ますまではここにいてくれないか。兄は君を御守りだと思っているんだ」

 このとおり、と副社長はデスクに手をついて頭を下げた。

「分かりました」三好は立ち上がった。「帰ります。あ、その前にコーヒーメーカーの掃除しないと」

 彼は選択以外の仕事を与えられてなかった。暇を持て余した結果、社内の雑用をするようになった。彼はペン一本切れそうなのを見逃さず、部署を渡り歩いて備品の補充をしていた。福男でなければ世界一の雑用係だと揶揄されるほど、彼は雑用係を極めていた。

 三好が去り、入れ替わるようにして秘書の佐藤が入室する。彼は福留と一緒に中途採用された。美大卒で営業職に五年ほど務めていたが、やはり美術関連の企業で働きたいとこの会社を受けたのである。面接で目立った印象はないが、副社長が推しただけあって優秀な秘書だった。

 今後について話し合う。取引先へのフォロー、進めているプロジェクトをどうするか。社長が表に出てPRする企画は全て中止が決まった。

「三好君にも頼りすぎたが、社のPRは兄に頼りすぎたな」副社長が呟く。「でも大丈夫。方々に頭下げて、できることを一つ一つ堅実にやっていきましょう。頭ならいくらでも下げればいいんだ。兄にはできないが、俺にはできる」

「車を待たせていますので、今のうちにお休みになってください。その他の調整はこちらでしておきますから」

 毒島が労るように言った。佐藤も続く。

「できる根回しはしておきました。アーティストにも簡潔にですが事情を説明しています。決して自殺をはかったのではないと強調しておきましたから、いくら繊細な彼らでもすぐに混乱は起こさないと思います」

「ありがとう、助かるよ」

「あのう」福留は意を決して切り出した。「三好さんはどうしますか? 社長は違いますが、彼は自殺しようとしました。またやらかさないとも言い切れません」

「立ち直ってくれたらいいんだが……福留さんは、何か良い案でも?」

 福留は深く頷いて答えた。

「ええ。要は彼に希望を持たせればいいんです。ホテルマン時代、様々な人を見てきましたが、彼には人との触れ合いが足りていません」

「触れ合い? 彼は毎日出社していますよ」

 毒島が怪訝な顔で言った。

「彼の扱いを見るに、彼がいる環境は健全とは言えません」

「会社が嫌ならさっさと退職すればよかったのでは?」

 佐藤が首を傾げる。副社長が「いや」と口を開いた。

「社長が引き留めていたんだ。彼が特殊な環境にいたことは認めよう。――それで?」

「この状況を打破するには、思いきって他の環境に飛び込んでみればいいのではないかと」

「なるほど……それなら、三好善司は福留さんに任せます」

 秘書課に戻り、福留は毒島に尋ねた。

「田中絵里さんはどんな人だったんですか?」

「言われたことはやる人でした」

 毒島はパソコンを凝視したまま、眼鏡をサッと押さえて答えた。高速でキーボードを叩き始める。

「言われたことしかできないって意味ですか?」

 佐藤がタブレットを見ながら聞いたが、毒島は答えなかった。

「正直、秘書より人前に出る仕事のほうが向いていたと思います。女優みたいに綺麗だったから」

「田中絵里さんは本当に社長と浮気を?」

「社長って愛妻家じゃなかったですっけ」

 毒島は苦い顔で沈黙した。福留は質問を変えた。

「社長と三好さん、最初に付き合っていたのは三好さんで間違いないんですか?」

「ええ、それは間違いありません。彼女がアプローチしているのをよく見ましたから。注意したんですが、聞く耳を持ちませんでした」

「その人、いくつだったんです?」

 佐藤の質問。毒島が無視する前に福留が答えた。

「二十三ですよ。新聞で見ました。会社について調べていたら記事がヒットして」

「気の毒ですね。まさか自分に落ちてくるなんて思いもよらないでしょう」

「美人なのに」

 福留も頷いた。毒島は低く言った。

「その事故の時も、一緒にいたんですよ。彼――三好善司が」


 翌日、福留は三好の自宅へ迎えに行った。彼が住んでいるのは普通のマンションだった。

「あなたなら豪邸でも建てられるのでは?」

「興味ありません」

 彼は昨日と同じように後部座席に座っている。話しかけても最低限の返事しかしない。

「三好さん、ぜひ私と一緒に作家に会いに行きましょう。多様な人に会えば、きっと視野が広がります」

 三好善司は自分というものが希薄だ。対して、作家は自己主張の塊である。彼らに触発されれば、三好にも希望が芽生えるはず。福留は熱弁した。訪問先の作家には、会社のブログを書くための取材だと伝えた。

 きっとうまくいく。そんな楽観視は三日で崩れた。作家たちは気分のむらがあり、途中で追い出されることもあった。ある女性作家への取材では、福留だけいつの間にか表に出され、三好は知らないうちに帰宅していた。福留は根を上げそうになったが、ホテルマン時代の理不尽な客を思い出し、なんとか辛抱した。

 それでも、収穫はあった。二人組の覆面作家のアトリエを訪れた時のこと。彼らは男女で同じ年頃だった。福留は夫婦だと思ったが、三好は一目で「姉弟ですか」と言い当てた。彼らは驚き、観察眼が並外れていると指摘した。そして絵を描いて見せろと言い出した。三好が描いた絵は、模写のみ素晴らしかった。

「でも、絵は描けない人なんだね」

 姉がつまらなそうに言った。手には白い画用紙。よく見ると、迷ったような鉛筆の点がある。福留も試しにと画用紙を渡されたが、点すら描かず、途中でとまったハエを叩き潰したので修正液で白く塗り潰して満足した。

 三好に関して、福留は二つの噂を知っていた。一つは、三好が運を得ると、誰かが不運を被る。もう一つは、三好の家族は不幸な事故で亡くなり、彼だけが生き残った。

「社長はまだ目を覚まさないそうです」

「ふうん」

「どうですか、心境に何か変化は?」

「特に」

 このやり方は失敗かと思われたが、最後に訪れたアトリエで、彼は運命の出会いをする。

 それは一枚の銅版画だった。黒い空に走る金の雷、弾けるように崩れる白い塔。バベルの塔の崩壊が緻密な線と色彩で描かれている。

 人間の傲慢さとそれに対する罰。三好は作品の前からしばらく動かなかった。

 アトリエも作家によって様々だ。森という老年の銅版画家は、木造家屋の一部をアトリエに改築し、制作に取りかかりやすい環境を作っていた。

 アトリエは冷房と換気扇が稼働し、どちらもそれほど効果がなかった。鉄のえぐみと強い酸性が混ざった臭いが室内で渦巻いている。閉じられた大きな窓の先には庭があり、すぐそばは花壇だった。ひまわりの群れが窓に背を向け、太陽を見上げている。植える向きを間違えたのか、二本のひまわりが並んでアトリエを覗き込んでいた。

「夏はこれだから。すいませんね、ホント。気分が悪くなったら言ってください。ああ、薬品には触れないように」

 森が古い扇風機の首を回しながら張りの良い声で言った。使い捨てのゴム手袋と深緑のエプロンを身に着け、頭には赤いバンダナを巻いている。

「ホント、いつもお世話になってます。昔、報酬未払いで画廊とやり合ってから画廊はどうも苦手でね。若い頃は自分で売り込んでましたけど、体力も気力も有限でしょ? 制作に集中したくて、そちらと契約したんです。マッチングサイトのおかげで顧客もついたし、海外の客だと通訳を紹介してくれたり、展示会やイベントも色々あって助かってます。今度、個展をするんです。あっ、VR個展じゃなくて、オランダで。ゴッホの故郷ですよ……そういえば社長さん大丈夫なんですか?」

 福留は微笑んで濁した。

 広いアトリエには作業台が複数あり、銅版画を刷るためのプレス機も置かれている。

「そこは版を腐蝕させるためのスペース。防蝕剤を塗布した金属板に下絵を転写して、ニードルで描画した後の作業です。何度も言いますが、薬品には触れないように」

 作業台には大中小の容器が並んでいた。版を腐蝕させる腐蝕液がたっぷりと注がれているため、容器の底は見えないが、腐蝕液自体は透き通った茶色をしていた。

「作品の大きさによって容器は変えます。これはもともと衣装ケースでした。あっ、醤油の臭いがするでしょう。腐蝕させた版を洗う時、醤油を使うことがあるんです」

 台の端には、薬品のボトルが並んでいる。これも様々な大きさのものが揃っていた。

「気分悪くないですか? 頭が痛くなったり――」

「これを飲んだらどうなりますか?」

「は? 死にますよ」

 三好は下絵を描く作業台にいた。緻密な情景の数々。風で飛ばないように三日月型をしたペーパーウェイトが乗っている。描き損じも山ほどあった。

 三好の作業服を見て、森が尋ねる。

「あなたも作家なの?」

 三好は首を振り、姉弟作家のアトリエであったことを話した。森がああと笑う。彼女は彼らと面識があるらしい。

「あの子らはねえ、直感型だから。作りたいものを迷いなく作れる人たち」

「芸術家はみんなそうじゃないんですか?」

「それがそうでもないんだな。あたしは悩みに悩んで作るタイプ。直感型は選んでる意識が希薄なんだよね。でもあたしは選択というものを強く意識して作ってる。何を描くか、どう描くか、一つ一つ吟味する」

 直感、選択――この二つの言葉が福留の頭に引っ掛かった。

「あたしの師匠が、人が生きるのは選ぶ時だと言っていました。作品は選択の集合体……あたしが生きた証です。それを残すために、作家をやってるんです」

 帰りの車中、三好は窓を眺めていた。傾いた太陽と薄い雲が空を彩っている。柔らかなオレンジ色の光を浴びて、彼はどこか生まれ変わったような面持ちをしていた。

 翌日から彼は取材を放棄し、会社のロビーで目に映るものをひたすらスケッチするようになった。そして、最後のページまで埋めると、新しいスケッチブックを出して今度は頭のなかでイメージしたものを描こうとした。スケッチとは異なり、こちらは上手くいかない。定時を過ぎると、疲れた様子でスケッチブックから顔を上げた。

 二人はロビーのソファーに座っていた。ガラス張りの玄関から西日が差し込み、テオの肖像画が輝いている。

「この会社に十年いて全然芸術に興味がわかなかったのに、不思議だなあ」

「あの銅版画のどこが良かったんですか?」

 三好は腕を組み、言葉を捻り出すようにして答えた。

「うーん、上手く言えないけど、今の僕の気分に刺さったというか……凄く惹かれたんです」

「描くことにも興味を持ったんですね」

「何を描きたいというのはまだ明確にないんですけど、森さんが――実際は森さんの師匠だけど――、人が生きるのは選ぶ時だと言ってたでしょ。僕、あまりそういうことを意識したことがなくて。だから、なんだろう……選びたくなったし、選ばないとなって」

 毒島曰く、社長はまだ目覚めない。副社長はこんな時だからこそ堅実にと社員を鼓舞した。番組でのカメラや注目を嫌がっていた彼とは別人のようだった。

 状況は変わりつつある。三好善司にも変化があった。

「うん、決めた」

 三好のスケッチブックに、雷のような歪な線が生まれた。

 そろそろいいだろう。福留は三好を誰もいないミーティングルームに呼んだ。白い大理石の床に背が高い丸型のテーブルが三つ、間隔をあけて並んでいる。壁には『ひまわり』のレプリカが掛かっており、そのそばにはコーヒーメーカーと紙コップが置かれた長机があった。

「三好さん、あなたの豪運の正体が分かりました。きっと今後のためになるでしょうから、私の話を聞いてくれますか?」

 福留は鞄を抱え、前のめりになって切り出した。

「豪運の正体は、あなたの凄まじい観察眼です。あなたは雑用係として社内を歩き回り、全ての部署の様子を把握している。そして、社長に判断を委ねられた時の周りの社員の顔色……そういったものから、最適解を導き出していたのです。あなたはそれを直感的に行っていた。森さんは直感型は選んでいる意識が希薄だと言っていましたね。あなたはあらゆるものを直感的に見抜くことができたために、選択も直感的にしていたのです。そして……あなたは自分すら希薄です。感情を表に出さないのは、きっと子供の頃の不幸な出来事のせいでしょう。運悪く家族を失い、運良くあなたは生き残った」

 三好が口を開こうとするのを制し、断言する。

「あなたは幸せになっていいんです。自信を、希望を持って生きてください」

 福留は拳を作って力強く言った。三好は面食らいつつも素直に頷いた。

「ありがとうございます。実は僕、絵を本気で習ってみようと思うんです」

 福留は鞄からウィスキーのボトルを覗かせ、ウィンクした。

「祝杯をあげたくて持ってきました。会社がこんな時ですから、こっそりやりましょう」

 くるりと三好に背を向け、長机で祝杯をあげる準備をした。紙コップを二つ並べ、茶色く透き通った液体を注ぐ。

「半年前の密着番組でウィスキーを飲んでいましたよね。お好きなんだろうと思いまして。奮発して良いものを用意しました。味に癖があるそうです」

 テーブルへ戻り、紙コップを渡す。さて乾杯と言いかけたところで、着信音が鳴った。福留は携帯を取り、通路に出た。電話の主は森だった。

「もしもし、福留さん?」森の声は焦っていた。「腐蝕液、間違えて持って帰ってませんか? 小さいボトルが一本紛失していて」

「いやあ、私は存じ上げませんが。すみません、取り込み中ですので」

 通話を切った直後、また着信があった。今度は毒島からだ。

「今、よろしいですか?」毒島は声を潜めていた。「ついさっき、社長が息を引き取りました」

 耳を澄ますと、病院らしきざわめきが聞こえてきた。

「三好さんには私から伝えます……残念です。ようやく彼も人生に希望を見いだしたのに」

 三好のもとへ戻ると、彼は携帯をいじっていた。

「三好さん、失礼しました。今度こそ」

 乾杯。互いに酒を呷る。福留にとって初めてのウィスキーだった。店員が言っていたとおり、味に癖がある。初心者向けではない。舌と喉が焼けるようだ。深く息をつき、紙コップを置いて口を開く。

「飲んだな。人殺しめ」

 三好が首を傾げる。

「俺の娘をよくも殺したな。田中絵里だ。あの時、なぜお前たちは屋上にいたんだ? あの悪天候のなか、なぜ? 答えは一つ。お前は娘を殺すため、わざと屋上に呼びつけた。どこに落雷するか、お前は見抜いていた!」

「彼女の葬式にあなたはいなかったはずだけど」

「呼ばれなかったんだ! 新聞で娘の死を知った俺の気持ちが分かるか? あいつ、俺に何も知らせず全部済ませやがった」

 穏和な福留優一は見る影もなく、顔を悪鬼のように歪めていた。

「俺はあの女より娘を愛してる。死の原因になった奴を殺せば、それを証明できる。会社で起こった事故だ、責任は社長にある。だから社長を殺すつもりだったが、幸運にも『犯人』がいた。ただ殺すのは芸がない。だから、希望を与えてから殺すことにした。俺にはそれだけのことができる。あの女はメソメソ泣くだけ。こうなったのは全部、俺から逃げた罰だ!」福留は咳き込みながら三好を指差し、笑った。「そろそろ苦しくなってきただろう。お前が飲んだのは腐蝕液だ」

「ふうん、そんなの飲んだんだ」

 突然、胃を握り潰されたような激痛が走り、足もとが赤黒く染まった。それが自分の吐瀉物だと気付いた時にはもうその上に崩れ落ちていた。

「どっ、どうして……」

 愕然とした問い。同時に口からあふれ出す。血と、胃液と、腐蝕液が。

「まず、田中絵里の落雷事故と社長の落下事故は本当に偶然です」

「そんなわけあるかッ……だったらなぜ――」

「あの日は彼女に呼び出されたんです。綺麗な女性が雨に濡れていたら、男はクラッとくるし、別れ話でもすれば、焦って言うことも聞く――彼女はそう考えたみたいです。彼女、お金が欲しかったんですよ。僕はそういうのに興味がなかったから、関係はすぐに破綻しました。そうそう、彼女は父親のことをクズで養育費も支払わなかったと言っていましたが、性格は少し似てますね。劇場型なところが」

「クズだと? なんで俺が金を出さないといけないんだ……」

 福留は呻いた。血がこみ上げてくる。

「社長の件ですが、僕は自殺未遂なんてしていません。フェンスに寄っかかって社長と世間話をしていただけです。フェンスが感電していたのも知りませんでした。仮にも恋人が死んだ時ですからね、それどころじゃないですよ。そして、浮気の噂はありましたが、事実無根です。嘘をついたのは、あなたを出し抜くためですよ。田中絵里とあなたが親子であること、何か企んでいることには気付いてました。でも、何を企んでいるのかまでは分からなかった。なので、副社長と毒島さんに協力してもらって、一芝居うつことにしたんです」

 三好は自分の携帯の画面を福留に見せた。通話画面には副社長の名前が表示されている。

「……荷台の幌とイベントで使う大量のひまわりがクッションになってね、怪我の割にピンピンしてますよ」

 副社長の押し殺した声が響く。社長一家が談笑する声も微かに聞こえた。

「この若造が――」

 激痛が罵倒を押しとどめる。福留は自分の携帯を出した。救急車を呼ばなくては。しかし、突然画面が黒くなった。充電が切れたのだ。物が散乱した自宅がよぎる。充電器をなくしたばかりに。

「不測の事故だったけど、社長も懲りたんじゃないかな。もともと思い切りのいい人だから、大丈夫ですよ」三好は晴れやかに笑った。「雑用でも何でもよかったけど、本当に辞めることになりそうです」

「た、頼む、救急車を……」

 三好は素早く通話を切った。穴のような目で福留を見下ろす。

「豪運の正体や、やりたいことに気付かせてくれたことには感謝してますよ。それでも、あなたを助けるって選択は僕にはないなあ。腐蝕液、バレバレでしたよ」

 福留は床をのたうち回った。『ひまわり』が高いところにある。

「ひまわりって、目みたいだな」そう呟くと、三好は目を輝かせた。「本物を見に行こう。せっかくだし、家族みんなで!」


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