9:ルティエの正体
ある時から、僕だけに女性の美しい声が聞こえるようになった。
懐かしいような胸が締め付けられるような、切ない彼女の歌声。
今日も前線基地にいる僕の耳に、その甘美な音色が届いた。
砦の中にまでハッキリと聴こえるその声に、誘われるまま、僕はフラフラと窓辺に立ち月を眺めた。
すぐさま呆れた友人の声が上がる。
「レイユ王子、行ってくるんですか?」
「うん。呼ばれてるから」
側近のクリストを見ずにほほ笑みだけ返すと、僕は目を閉じた。
すると、一瞬だけ肌が水の中に入った感覚を拾う。
けれど次の瞬間にはすぐになくなり、水がたおやかに流れる音と、フクロウのような鳥の声が聞こえた。
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ゆっくり目を開けると、少し遠くのベンチに背を向けて座る愛しい人が見えた。
近くを飛ぶ蛍が、気まぐれに光の線を描いていく。
僕は出来るだけ音を立てずに近づいた。
気持ちよさそうに歌う彼女の邪魔を、まだしたくなかった。
そばまで来た僕は、ベンチの背もたれに手をつきながら、彼女のこめかみにキスをした。
「レイユ!」
ルティエが振り返って相好を崩した。
その嬉しそうな輝く笑顔に、僕も釣られて笑みをこぼす。
ベンチの正面に回る間に、彼女が両手を広げて僕を待ってくれていた。
そんな可愛いルティエを抱きしめながら隣に座ると、今度は唇にキスをした。
ルティエも僕の首の後ろに手を回し、今まで離れていた寂しさを埋めるようにギュッとくっついてくる。
僕らはそうして抱きしめ合ったまま、お互いの体にピッタリ頬をくっつけて言葉を交わした。
ルティエが楽しそうにクスクス笑う様子が、なんとも愛らしい。
彼女は不思議なヒトだ。
優しくて、美しくて……消えてしまいそうな危うさを持っていた。
時折見せる優雅な所作から、ルティエがどこかの高貴な出だとは感じている。
だけど彼女がそれを隠したがっているから、強いて聞くことはしなかった。
いつか正体を明かしてくれたら、迎えに行きたいのに……
彼女への愛おしさが高まるにつれて、僕は現実でもルティエに会いたいと、思いを募らせていた。
ルティエは可憐なだけでなく聡明だった。
僕が何かに迷っていると、必ず寄り添った助言をくれる。
それでいて、包み込むような愛情を、惜しみなく僕に向けてくれた。
彼女の存在が僕の癒しだった。
仲間を失った悲しみや焦燥感を抱え……どんどん荒んでいく僕の心を、ルティエは受け入れて慰めてくれる。
ーー僕はもう、彼女無しでは生きていけなかった。
白い天蓋に包まれたベッドの上で、僕はルティエを抱きしめて、何度目か分からない想いを伝える。
「誰よりも愛してるよ……だから僕のーー」
続きを言おうとして、彼女にキスをされて口を塞がれる。
「私も…………だから必ず生きてね」
ルティエが囁くように告げた。
僕を見つめる彼女の青い瞳が、薄っすら膜を張っている。
綺麗さに惹き込まれていると、それが輝く雫になって頬を伝い落ちた。
この時僕は、心配性のルティエが、戦場に身を置く僕の安否を気にしているのだと思っていた。
けれど、もっと大きな意味があることに気付いたのは、彼女と現実で会った後だった……
ーーーーーー
僕の腕枕でピッタリと横にくっついているルティエ。
そんな彼女の髪を撫でながら、僕らは束の間の穏やかな時間を過ごしていた。
すると帰る時間になったのか、僕の意識が眠りに落ちていく。
彼女を撫でていた手も次第に動かなくなり、ぱたりと落ちた。
「……レイユ、帰るのね?」
珍しくしっかりと起きているルティエの声がした。
いつもなら2人で微睡みながら、お別れになるのに……
僕は眠くて返事が出来ず、どうにか小さく頷いた。
「気を付けて。朝日が昇ると貴方は敵に囲まれているわ」
ルティエの声がいつになく固いものになる。
僕は落ちようとしている意識を何とか浮上させた。
「でも大丈夫……私が貴方を守るから。どうかご武運を。レイユ王子」
初めてルティエから王子と呼ばれた。
賢い彼女は僕の事を知っており、全てお見通しだったのだ。
けれどそこで……
僕の意識は完全に落ちてしまったーー
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「…………」
気がつくと、真夜中の前線基地に立っていた。
帰ってきたんだと思うのと同時に、さっきルティエに言われたことを思い出す。
〝朝日が昇ると貴方は敵に囲まれているわ〟
ぼんやりしていた頭が徐々に覚醒する。
もうすぐ攻めて来る敵。
それを知っているルティエ。
高貴な身分……
自ずと導かれてしまう答え。
ルティエは……敵国の姫か令嬢。
けれど今はそれよりも、訪れる窮地をどうにかしなくては。
僕は気を引き締め直すと、自軍の兵士たちが眠るテントに向かった。
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「ふわぁぁ。本当に敵に囲まれているようですねぇ」
側近のクリストが眠い目を擦りながら続けた。
「女神様の言ったことは本当のようです。ただこちらも朝日が昇る前に準備出来ましたので、どうにか太刀打ち出来るでしょう」
そして彼は馬に跨り、手綱を握った。
僕も彼と同じように乗馬して、静かに配置につく。
空は明るみ始めていた。
綺麗な瑠璃色に染まりだす。
僕は不思議と落ち着いた気持ちで空を眺め終わると、今度は前をしっかり見据えた。
大丈夫。
あらかじめ斥候を出し、敵の様子を確認している。
不利な地形で囲まれているけれど、秘密裏に準備が出来たから万端だ。
けれどその時、ルティエの気になる言葉を思い出した。
〝私が貴方を守るから〟
…………
ルティエは自分の国で何かをするつもりなのか?
誰かの足止めとか?
危険なことをしなければいいけど……
「あ、朝日が昇り始めて……敵が予定通り攻めてきましたねっ」
隣でクリストが楽しそうに言った。
彼はほんのり戦闘好きだった。
最近なんか〝側近より参謀が良いんですけど〟と、肩書きに文句を言ったりもする。
戦争が始まるまで分からなかった、友人の意外な一面だ。
……分からなくても良かったけど。
そんなクリストが、意気揚々と部隊に指示を出していった。
攻め入ってくる敵の部隊に向けて、自軍の部隊も素早く進行する。
僕とクリスト率いる指示役は、戦局を見極めるためしばらくその場で待機していた。
すると、こちらの対応が早かったからか、敵の部隊が乱れ始めた。
そしてそのまま……
バタバタと倒れ始める。
「……??」
「どうなっているんでしょうか?」
僕とクリストは思わず顔を見合わせた。
そうしている間も、兵士たちが接触する前に敵兵が勝手に倒れていく。
僕の脳裏にルティエの姿がよぎった。
彼女が……何かをした?
そう思うのと同時に歌が聞こえ始めた。
懐かしいような胸が締め付けられるような、切ない切ない彼女の歌声……
「ルティエ!!」
気がつくと僕は馬を走らせていた。
「あ、レイユ王子! どこに行くんですかー!?」
後ろでクリストが騒いでいるけれど、気にしている場合ではなかった。
……ルティエが歌っている!
こっちの世界で!!