11:柔らかい歌声
湖の中で、僕はルティエに会いたいと強く強く祈り続けた。
ギュッと目を閉じて、会いたくてたまらない彼女を思い浮かべる。
けれど息を止める限界がそのうち来てしまい、水面から顔を出した。
すると目の前に現れたのは、あの白い睡蓮の浮かぶ池だった。
深い湖に落ちたはずなのに、いつの間にか浅い池に座り込んだ状態になっている。
「…………っ来れた?」
ここには夜にしか来た事が無かったから、太陽の日差しの中で見る池や森は別物に見えた。
けれど、柔らかいルティエの歌声が聞こえ続けている。
僕は急いで立ち上がると、彼女を求めて神殿へと向かった。
その時ふいに、ゆっくりとした甘い歌声が止まってしまう。
焦った僕は、足がもつれそうになりながらも必死に進んだ。
ルティエ……
ルティエ!
グッショリ濡れてしまった服がまとわりつくことも厭わずに、神殿に駆け込んだ。
「ルティエ!」
そこには、神殿の中にある池のそばに座り込み、近くに置いた大きなカゴの中を覗き込んでいる女性がいた。
彼女は僕の呼びかけに、ビクッとしながら顔を上げる。
その女性はルティエだった。
白い簡素なワンピースを身にまとい、裸足の足先だけを池につけている。
彼女の目が大きく見開きながらも、僕を確かに捉えた。
だけどその強張った表情のまま、僕に喋りかける。
「こんにちは……ここに誰か来るなんて珍しいですね」
ルティエが愛想笑いを浮かべた。
目を細めて笑う彼女の瞳は……以前とは違い金色をしていた。
「ルティエ? もしかして僕を……覚えてないのか!?」
僕がフラフラと近付き手を伸ばすと、彼女の近くから「ほにゃ……」と声がした。
ルティエは僕に向かって「しー」と、人差し指を口の前で立てた。
それからカゴの中の赤ちゃんに向かって微笑む。
慈しむようなその笑顔は、僕に浮かべた愛想笑いと随分違っていた。
ルティエが赤ちゃんの胸を優しくトントンと叩く。
先ほどまで口ずさんでいた曲を歌いながら。
彼女が柔らかく歌っていたのはーー
子守唄だった。
……その赤ちゃんは、もしかして……
起きそうになっていた赤ちゃんは、うつらうつらと目を閉じて再び眠りについたようだった。
ルティエは安堵の笑顔を浮かべると、僕に向き直り説明した。
「ごめんなさい。レイユが眠った所だったから」
「……レイユって、赤ちゃんのこと?」
〝僕の名前なんだけど?〟
そんなセリフを飲み込みながら、彼女の返事を待つ。
「……記憶があやふやなんです。貴方も知り合いみたいだけど覚えていなくて……ごめんなさい。けど〝レイユはとても大事な名前〟ということは覚えていたから……」
彼女はそこまで言うと、カゴで眠る赤ちゃんのレイユに目を向けた。
そして小さな彼に向かって話すかのように、ニッコリと笑い言葉を紡ぐ。
「そんな大切な名前を、大切なこの子にって」
ルティエは記憶喪失になっていた。
それでも覚えていたのは僕の名前。
胸が締め付けられる想いと、何で僕は思い出さないのかという想いが混ざり合う。
「……僕も赤ちゃんを見てもいい?」
「ええ。どうぞ」
ルティエが嬉しそうに顔を綻ばせた。
僕はそんな彼女の背後に座り込んだ。
ちょうどそこがカゴの真横で、中が見やすい位置だったから。
起こさないようにそっと覗き込むと、スヤスヤ眠る小さな赤ちゃんがいた。
僕に似ているようにも見えたけれど、何故だかウルッとしてしまい、視界がぼやけてよく分からなくなった。
静かに涙ぐんでいると、ルティエが池から足を引き上げて僕の方に振り向いた。
彼女は床に両手をついて体を傾けて、僕をじぃっと見てくる。
「……びしょ濡れですね。風邪ひきますよ?」
ルティエはヤンチャな子供に対して苦笑するかのように、クスリと笑った。
そして目を閉じて呪文を唱えた。
『Ηυψα ψοτύξυ κοξοκοσι』
すると暖かい風が僕を包むように、床から頭上へと吹き抜けていった。
その一瞬で全身が乾いた。
じんわり浮かんでいた涙も、一緒に飛んでいく。
「…………ありがとう。ルティエは……目が見えにくいの?」
ずっと顔を近付けて僕を見ている、ルティエの様子が気になって聞いた。
僕も思わず、彼女の金色の瞳を見つめ返す。
「……そうなんです」
ルティエが悲しげに笑って続けた。
「おそらく、私たちオルケリスの禁術とされる、太陽神に向けての舞いを捧げたのでしょうね」
彼女が目を逸らした。
それから何かに気付いて、また僕を見る。
「えっと、オルケリス族をご存知ですか?」
「うん。よく知ってるよ。ルティエから聞いてたから」
僕は優しく笑いかけた。
ルティエは間を開けてから笑い返す。
「じゃあ話が早いですね。私がここで目覚めた時には、罰として太陽に灼かれた後でした。その時に目が灼かれて……」
ルティエがまた目を逸らした。
浮かない表情をしている彼女は、禁術を使ったことに負い目を感じているのかもしれない。
「だから綺麗な太陽の色に変わったんだね。以前と同じぐらい素敵だよ」
元気になって欲しい気持ちも込めて優しく笑いかけると、ルティエはじっと僕を見た。
「……そう言ってもらえて嬉しいな。ここには鏡が無いし、目も悪いから自分の顔を確認出来なくて」
「それは不便だね。大丈夫、何も変わってないし、かわーー」
「私の前の瞳は何色でした?」
〝可愛いままだよ〟と言おうとしたら、ルティエの質問にかき消された。
少しだけその勢いに驚きながらも「青色だったよ」と答える。
「そう……ですか」
ルティエがジィッと僕を見つめるあまり、無意識に顔を近付けてきた。
「…………僕の顔に何かついてる?」
平然を装ってそう聞くと、顔が近すぎることに気付いたルティエが、赤面しながら慌てて少し離れる。
「いいえっ、何もっ…………め、目の話でしたね。そうそう、喉も灼かれたんです」
「喉も?」
「…………」
ルティエがこくりと頷いて続けた。
「歌えるまで回復したのは、ここ最近です」
彼女は傾けていた体をゆっくり起こして、自身の喉を軽く押さえた。
歌えることが嬉しいのか、俯きながらも穏やかに笑っている。
「…………」
僕はそんな彼女に、どう声をかけていいのか迷った。
ルティエは城から身を投げて池に落ちた後、この世界に逃げ込んだ。
けれどその時にはすでに太陽に灼かれていたんだ。
記憶を無くしたのも多分その時に。
そして喉を灼かれたルティエは、一時的に歌えなくなり……
今まで歌声が届く機会がなかったという訳か。
どんなに苦しくて痛かったことだろう。
僕を守る為に。
いじらしいルティエが可哀想で、痛々しくて、愛おしい。
溢れるいろいろな想いに突き動かされて、僕は思わずルティエに手を伸ばした。




