恋する瞳
ヨハンの命令で休みだったはずのエリーゼは、翌日出勤した。
大丈夫なのか心配で尋ねると、わたしは何もしてなかったのでといつものように笑って、朝の仕事始めであるクロエの髪を結うのを手伝った。
それから二日程、ホテルから出ることはなかったが、マティウスは登庁前と退庁後に様子見がてらクロエの部屋に挨拶に来る。総支配人も日に一度は顔を見に来て他愛もない世間話をするようになった。
事件の翌日、公爵から大量のマドレーヌが届き、エリーゼに手伝ってもらっても食べきれないので、ホテルの従業員にお裾分けした。
二区区長からは花束が届いた。添えられたカードには先日の非礼を詫びる言葉があった。
詰問された時は怖かったが、大義的ではあっても、この国の人のことを守る気持ちがあるからなので恨んだりする気持ちはない。
お礼の手紙にそのように書いたら、次の日にはエグラン国の香りのいい紅茶が届いた。
今日は午前中から役所へ行く。
銃の持ち込みと所持携帯の申請をするためだ。
供にはエリーゼがつき、大手門までフロントの男性係員が送ってくれた。
朝、マティウスに指定された役所のある建物の入り口に行くと、玄関ホールで彼と明るい色の服を着た若い女性が話をしていた。
「クロエお嬢様」
マティウスはクロエが到着したことに気づくと早足で寄ってきた。
気のせいかもしれないが、少しほっとしたような顔だった。
「こんにちは、マティウス様。お待たせしてしまったでしょうか」
「いいえ、時間はまだ少しありますので」
こつこつと足音をさせて先程の女性がマティウスに並ぶ。
「話の途中で失礼します。ロートバルター様、こちらのご婦人は?」
よく通る声といえば聞こえはいいが、悪く言えば耳にキンキン響く声の若い女性はクロエに鋭角的な視線を送りながら尋ねた。
マティウスは先にこの若い女性がアルトキールの貿易商の息女のアルネ嬢だと紹介し、クロエのことは公爵の賓客とだけ言った。
「では、失礼します、アルネ嬢。仕事がありますので」
「そのご婦人とお仕事ですの?」
そうですと言っても、まだ話していたいのかアルネ嬢はなかなかマティウスと離れたがらない様子だった。
次のオペラの公演に一緒に行かないかと誘いをかけている。
彼女の瞳の中には恋する女性の輝きがある。
たとえ一方的であっても、恋をすると人はなりふり構わなくなることがある。
ジェロームと同じだ。
クロエは、元婚約者が自分を見ていた時には、あの輝きはなかったと思った。
そして、自分もそんな目でジェロームを見ていなかったことも。
子供の頃からお互い結婚するのが決まっていたから、恋をする必要がなかった。
嫌いではなかった。
子供の頃から知っているジェロームと一緒に長い道のりを歩いていくのは、それ程悪い人生ではないと思っていた。
それは彼も同じだと思っていた。
ジェロームが他の女性と恋に落ちるなんて、木が逆さに生えるくらいないと思っていた。
「……クロエお嬢様」
マティウスに呼ばれてはっとした。
「大丈夫ですか?」
差し障りのない程度に腕を擦り、顔を覗き込んでくる。ブルートパーズの瞳に目が奪われ、現実を思い出した。
アルネ嬢を見ると、向けられる視線は更に先鋭化している。
だが、その視線はクロエの中の固定概念を突き刺した。
クロエはアルネ嬢に歩み寄り、手を取った。アルネ嬢は何をされるのかわからず顔が引きつっている。
「あなたのお陰で気付きました」
ジェロームが他の女性と恋に落ちるなんて、木が逆さに生えるくらいないと思っていた。
だが、それが起こったのだ。
自分にだってあるかもしれない。
それまでは婚約者がいたから、他の男性に目を奪われるのはあってはならないことだと思っていた。
だが、もう婚約者はいない。
クロエは、自分が誰かと恋に落ちることがあるかもしれないという可能性に気付いたのだ。
「気づかせてくれたのはあなたです」
ありがとうございますと感謝を述べた。
が、アルネ嬢はさっぱりわけがわからないという顔をしている。無理もないことだと思う。
「ですが、まずはやるべきことを片してからでないと。さあ、マティウス様、参りましょう」
銃の申請と所持携帯の手続きを済まさない限りには、落ち着いて恋はできそうにない。
アルネ嬢を置き去りにして、クロエは建物の中へ進んでいった。
◇
銃の申請には数枚の書類にサインをして終わった。
外国人ということで保証人は二人、公爵と都長がなってくれた。
銃の所持携帯には分厚い本が渡され、数時間、警察で講習を受けることになる。
それも宮殿内に一区警察の派出所があるのでそこで受けることになった。
銃の引き渡しはその後行われると、外務部の部長が説明した。
帰りに公爵と都長に保証人のお礼を言って、クロエは役所を後にした。
マティウスは馬車を用意すると言ったが、ここ数日は外出していなかったので運動不足気味だから歩いて帰ると申し出た。
馬車道沿いで観光地もあり人目もあるので大丈夫だろうが、念のためにホテル従業員と共に帰るようにするので、呼びにいく遣いをお願いした。
マティウスは少し考えてから自分が送りますと言って、玄関先の衛兵に外出する旨を都長に伝言するように頼んだ。
「クロエお嬢様、『気づいたこと』て何ですか?」
アルネ嬢に言った言葉だ。あの時は自己完結していたので、自分の中では筋の通った発言だったが、周りの人は何を言っているのだろうと思ったことだろう。
「わたくしも恋をすることがあるかもしれないということに気づいたのです」
マティウスは立ち止まり、エリーゼはクロエ様と言って目を丸くして両手で口元を覆った。
「婚約者もいない、貴族でもない今では、比較的自由に恋愛ができるのではと思ったのです」
「そうですよ! クロエ様。まだお若くて綺麗なんですから、これからいくらだってできますよ」
「ふふっ、お世辞でも嬉しいわね」
「とんでもない、本当のことですよお。行きに送ってくれたフロントのペーターだってそうだし、クロエ様に見惚れているホテルの男性社員は結構いる……とか、いないとか……」
エリーゼの視線は途中で背後にいるマティウスに移り、その後、語尾は消えるように小さくなった。
クロエもマティウスを仰ぎ見たが、ぷいっと横を向いてしまったのでよくわからなかった。
それからの数分は無言だった。
エリーゼは顔色をなくして俯いて歩き、マティウスは歩調は合わせてくれるが前だけ向いており、クロエは変な話をしてしまったので、二人に気まずい思いをさせてしまったのではと勘ぐって、障りのない話題をしようかとも思ったが、結局思い浮かばず、ホテルに着くまで誰も口を開くことはなかった。