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マティウス

 ありがとうございます、マティウス様。

 おやすみなさい、マティウス様。


 二人きりの時に初めて名前を呼ばれた。

 これまでも名前で呼ばれたことはあるが、兄と区別するためであり、それ以外ではロートバルター様と呼ばれていた。


どういう心境の変化なのだろう。それとも距離が縮まった?


 マティウスは兄の仕事部屋のソファに座り、クッションを抱き締めながらかれこれもう十分以上も言われた言葉を反芻している。


 風呂上がりなのは見てとれた。いつもはきっちりと結い上げている髪はおろしてまだ生乾きだった。そして、いい匂いがした。


 ドアが開いた時、あまり顔色が良くないように思えて心配したが、話していたら少し色が戻ったのでほっとした。


 今日は疲れただろう。それにお父様の形見がないのだから心細いはずだ。


 銃はさすがに持ってないが、ナイフならあったので寮に着替えなど取りに行ったついでに持ってきた。


 二区警察署に彼女を迎えに行った時、椅子から立ち上がる際に触れた指先が冷えていたから、途中で酒屋に寄って薬用酒を買った。血行不良と胃腸虚弱にいいと店主が言っていたものをそのまま。


 初めての贈り物がナイフと酒って……。


 両手で髪をぐしゃぐしゃにして己のセンスの低さを悔いた。


 役所に入ってからは仕事のことしか興味がなく、女性からの贈り物なら毎日のようにあるが、自分からしたことなどほぼなかった。

 女性が贈られて嬉しい物などさっぱりわからない。


 溜息が出た。

 うまくやってみせると最初は思ったのだが、想定外のことばっかりでマティウスはさすがに自信をなくした。


 公爵の旧友の令嬢が来るので、滞在中の便宜を図るいわゆる『お世話係』をフィッシャーから任命された時には、面倒を丸投げしやがってと上司に舌打ちしそうになった。

 それをしなかったのは上司に睨まれては出世に響くからだ。


 選ばれた理由は、お嬢様が無理難題を言ってきてもお前は顔がいいから何とか懐柔できる、歳も同じだからというだけ。

「いいか、ロートバルター。お嬢様の滞在中にもしものことがないように、しっかりとお世話するように。もし何かあれば私はクビだし、お前は左遷だ」


 冗談じゃない。

 この領地で暮らす領民の恙ない生活の維持と、次官(宮殿役所のトップ)になることだけを心に日々邁進しているのに、たかが元貴族の令嬢一人に振り回されて遠回りさせられてたまるかと思った。


 クロエお嬢様が到着したと城門の警察から連絡があり、気合を入れて出迎えた。


 茶色の髪と目の平凡な印象の顔。

 初め見た時にあまり貴族らしくなかったので拍子抜けした。


 でもさすが元貴族だけあって仕草は綺麗だった。


 ヨハンの手を借りて馬車から降りた時や、飲食店で食事していた時も、いかにも貴族というのではなく、品の良さだけが感じられた。

 うっかり見惚れていたことも、実はある。


 本物のご令嬢なんだ。


 そりゃそうだ。

 生まれてから数年前まで伯爵令嬢だったんだから。


 そのお嬢様に一人で旅をさせるなんて、なんて人でなしの叔父なんだ。

 本来なら馬車や護衛をつけて旅程だって万全に調べてやるべきなのに。

 父親の形見の銃だけを持たせて送り出すなんて。


 見たこともない叔父の現リヴィエル伯爵にぷりぷり怒っていたが、ふと気づいた。


 今、彼女が本当に欲しいのはお父様の銃のはずだ。

 彼女の孤独な旅を守って支えてきた。大聖堂のペンダントと共にもう一つの心の拠り所だったはずだ。


 外務部と連携してこの案件は二区警察から早々に引き取ってやる。


 でも、銃なんか持たせたくない。

 護身用だとしても、そんなの持ち歩かないで済むようにしたい。


 もう一人旅は終わっているのだから。


 二区警察署の一室で、背筋を伸ばして伏せ目がちで座っていた彼女の姿が浮かんだ。

 取り残されて心細かったのか、胸元で片手を握りしめていた。

 おそらく、加護があると信じている大聖堂のペンダントだ。頼れるものがそれしかなく、不安に押しつぶされないように必死に耐えているような顔だった。


 まるで警察に保護された迷子が親の迎えを待っている時のようだった。


 彼女はまだ迷子なのだ。


 親もなく、知り合いもほとんどいない異国で一人で生きていかなくてはならないのだ。

 明日の道すらも定かではない。


 胸の奥がズキンと痛む。

 

 過酷な旅を終えてもまだ闇路が続く。


 ソファに仰向けになって横たわり、ネクタイを緩めてシャツのボタンを外した。


 先の見通せない暗い道であっても、一人でなければ怖くないはずだ。


 飲食店の帰り道にエスコートしてホテルに送り届けた時のことを思い出した。

 あの時のように差し出せば、彼女は腕に手を添えてくれるだろうか。

 あの時、延々と説教したから嫌な記憶しかないかもしれないけど。


 飲食店でソニーを撫でていた時の優しい笑顔が浮かんだ。

 いつかはあの顔を自分にも向けてくれるかなと、望み薄い想像を脳裏に浮かべる。


 元貴族の彼女に相応しい男は他にいくらでもいる。

 平民でただの役人でしかない自分が彼女の隣に並ぶのは相応しくないのはわかっている。


 それでも思わずにはいられない。

「ああ、勘違いでも何でもいいから、俺のこと見てくんねえかなあ」

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