ナイフと酒
ふと文机に置いた鞄が目に入り、ソニーがあの中でマドレーヌを食べていたことを思い出した。
食べかすが散らかってないか気になって覗いてみると、案の定だった。
中身を全部出してから鞄を逆さにしてカスを払い、詰め直す。
だが、一つ足りないのでいつものように収まらない。
すうっと背筋に冷たい風が通り抜けた。
父の銃はここにはない。
クロエは文机に置いてあるローズ大聖堂で買った鐘の形のペンダントを握り締めた。
先程まで湯上がりで温まっていた指先が汗をかいて冷えていく。浅くなった息を整えようと大きく息を吸う。
ここは治安のいいアルトキールで、一流ホテルのベルタホテルだ。
フロレンス国の街道の安宿とは違う。
ドアには椅子をかませているし、すべての窓の鍵をかければ大丈夫だ。
やることを確かめて少し自分を取り戻した時に、ノックがした。
肩が震えるくらい驚いて、手汗で握っていたペンダントを落としてしまった。
再度ノックがした。
「遅い時間にすみません。ロート……マティウス・ロートバルターです」
クロエはペンダントを拾い、ドアにある椅子をどかした。
ガウンの前を合わせて、ドアを少し開けた。
この時間まで仕事をしていたのだろうか、マティウスはまだ紺色の役所の制服のままだった。
「すみません、もうお休みでしたか?」
「いいえ、早くに着替えてしまっただけです。今までお仕事だったのですか?」
チェストの上の置き時計は午後八時近い。
「いえ、色々用意する物があったので、こちらに伺うのが遅くなってしまっただけで」
マティウスは廊下を左右に見遣り、背後から細長い物をクロエに差し出した。
ナイフだった。
革の鞘をマティウスが持ち、柄の部分をクロエに向ける。
「お父様の銃より心許ないかもしれませんが、何もないよりいいかと思いまして」
受け取っていいものか躊躇っていると、人が来るといけないから早くしまってと言われて、強制的に渡して寄越した。
鞘は片手でも外せる留め具で、少しだけ刀身を見たが片刃で刃渡りは包丁よりも長い。
これは外国人が持っていてもいいものなのだろうか。
「バレなければいいんです。もし見つかったら私の名前を出してください。対応はこちらでしますので」
マティウスは笑ったが、官憲の悪い顔をしていた。
それとと言ってもう一つ隠していた物を差し出した。
「セトロニア国の薬用酒です。昔は胃腸の薬として飲まれていたもので、ちょっと薬草のような匂いがしますが、甘口で飲みやすいと思います」
セトロニア国はギレンフェルド国の南東隣にある国だ。ラベルを見ると『フベレウスカ』とあった。
「これから夜毎に冷えますから、手足が冷えて眠れない時にどうぞ。ただ、酒精度は高いので、飲み過ぎには注意してください」
ラベルの下に書いてある度数は三十九度だった。クロエは目を瞠り、酒はあまり強くないので気をつけて飲もうと思った。
「それと、私は兄の仕事部屋にしばらく泊まることになりましたので、何かあったらいつでも声をかけてください」
クロエも二度ほど訪れたことのある同じ階床の端の部屋だ。
「もしかして、わたくしのせいで……」
「いいえ、兄に頼まれたのです。クロエお嬢様は婚約者の命の恩人なのでしっかりお守りするようにと」
「でも、それではあなたの負担が増えてしまいませんか?」
「大丈夫です。役所の寮よりここの方が職場に近いので、通勤は楽になるんです」
馬車で五分、徒歩では十分もかからない。
朝晩の食事付きで、掃除も洗濯も仕事から帰って来たら終わっている。
役所の独身寮に比べたら夢のような待遇なので、マティウスとしても利点が多いとのこと。
「あまり長話をしていると体を冷やしてしまいますね。今日はお疲れ様でした。ゆっくりお休みください」
彼の方がもっと疲れているはずなのに。
かけられた優しい言葉がじんわりと染みた。
「ありがとうございます、マティウス様」
お酒、大事にいただきますと言った後に変な間があった。
マティウスは静止していた。
どうしたのかとじっと見ていると、はっとして、すみませんと謝った。
「では、おやすみなさい、クロエお嬢様」
「おやすみなさい、マティウス様」
ドアを閉め、鍵を掛けて椅子をかませてからすべての部屋の窓の施錠を指差しで確認した。
棚からコップを出し、薬用酒を開けた。試しに少しだけ注ぐと、アルコールと共にハーブのような青くさい匂いが立ち上る。
一口啜ると、舌先では甘みがしたが、喉に通る時にはアルコールの刺激で咽せそうになった。
これは一気に煽ると前後不覚になる。寝る前にちびちび飲んだ方が良さそうだった。
クロエは寝室に移り、枕の下にナイフを入れ、サイドテーブルに本とフベレウスカの入ったコップを置いて、ベットに入った。そしてもう一口二口と酒を含む。
久しぶりに酒を飲んだせいか、落ち着くと体がとろりと重くなる。
ここは一流ホテルだし、マティウスも近くにいる。
何かあっても一人ではないという安心感が心を軽くした。
「なんだか、マティウス様の優しさを勘違いしてしまいそうね」
クロエは小さく笑って薬用酒をもう一口飲んだ。