8. アシュラムとは、そして、ヨガとは、
まず、アシュラムとは、ヒンズー教のお寺、修行道場という意味であり、スワミは、そのアシュラムの僧侶であり、修行をしながら、そこでヨガを教えています。そして、ここ、シバナンダアシュラムには、創始者のスワミ・シバナンダの弟子である、スワミ・チダナンタ、スワミ・クリシュナナンダがいます。授業の他に、週に一度、2人のスワミによるサットサンガが行われます。
サットサンガとは、スワミと私たち生徒のいわゆる質疑応答で、宇宙の真理や自然の摂理などをヨガ哲学の観点から紐解き、答えていきます。お寺でいう、禅問答のようなものです。
ある時、スワミ・クリシュナナンダから、
「どんなものにも心がある。」
と講義の中で、説かれました。
すると、ある生徒が、それに対して、
「それでは、道に転がっている石にも、心があるのですか。それは、どうしたらわかるのですか。」
という質問をしました。
すると、スワミ曰く、
「それは、自ら、パドマアーサナ(瞑想をする時の座り方)で座り、瞑想状態に入り、石の心の声を聞きなさい。」
という答えでした。
ここでは、終始、こんなやりとりが続いていて、こちらから質問をする内容にたどり着くこと自体も、かなり難しく、理解するだけでも大変でした。まさに、禅問答のようでした。
そもそも、ヨガという言葉は、サンスクリット語のyujという言葉からきており、結びつける、という意味があり、この宇宙である大宇宙と、私たちの中にある小宇宙を一つにするという意味を表しており、本来ヨガとは、すべてがここからきていて、これがヨガ本来の最終的な目的であります。
この最終的な目的は、仏教などで言う、悟りを開くということと同じようなものであるか、もしくは、その先にあるものなのかは、はっきりとした答えを得ることはできませんでしたが、どちらも、その延長線上に存在している、全く別のものでないことだけは、確信しました。それに、少なくとも、日本や世界中で、知られているヨガは、ただ単に、身体を動かすヨガだけを切り取って広まっていったものであり、その多くの指導については本来の目的から外れていることは、間違いありません。
しかしながら、ハタヨガを初めとする、その他の、瞑想のヨガであったり、クンダリニヨガや、カルマヨガなど、多くのヨガが、その小宇宙と大宇宙を一体化するための様々な方向からの自己実現のための方法であり、どれもがヨガを学ぶ上で大切ではありますが、たとえ、単独で、ハタヨガだけを切り取っても、その根底に流れるものを突き詰めるならば、その一体化に向けての道であることにも、間違いはないとも思います。それにしても、その五千年の歴史が物語る奥深さは、なかなか受け継がれてはいないと、かなり後になって気づきました。