68. 無謀な治療
そんな頃、インドで出会ったご夫婦に海外から頂いた手紙から、奥さんのお姉さんを紹介して頂き、後日、初めてお会いしました。
インドや高野山のこと、などなど、色々と話している中で、高野山を経て、治療ができるようになったことも話しました。すると、近所にある知り合いの方の長男が病気になってしまい入院しているが、状態がとても悪く病院の治療が全く効かないので、治してほしいというのです。
私は、そこまで悪い状態の人は、家族以外では治したことがないので、お断りしようと思ったのですが、とりあえずみるだけでもいいからと懇願されて、病院に行きました。投薬治療の副作用でパンパンに膨れあがった顔をしたその若者は、無精髭をはやし、生気のない顔をしていました。
それをみて、私は可哀想になってしまい、治るかわかりませんが、とりあえず、やってみましょうと、今考えると、とても無責任な発言かと思えるのですが、つい治療を引き受けてしまいました。この長男の父親は、何の効果も得られない病院の治療に半ばあきらめていたので、ありがたいことに、私が治るかわからないけれども一応試したいという申し出を受け入れてくれて、それでもかまわないと言ってくれたのです。
ところが、いざ治療を始めてみて、手のひらを当ててみると、エネルギーが入っていきません。そして、母の時のことを思い出したのですが、その熱くなった手のひらに、若者は何の反応もしないので、再び不安な気持ちになり、恐る恐る、手のひらは、熱いですか、聞いてみたのです。
すると、手のひらは、冷たいです、という返事が返ってきました。
この時、自分は、しまった、と思いました。まさか、今回も、あのひどい病気だった母と同じ反応だとは。まさか、この青年が、そこまで悪いとは思わなかった。そこで、自分の浅はかさに思いやられました。
母は、胃癌という大病ではありましたが、これはあくまでも家族という、そこまで心配のいらない関係でしたが、今回は、他人であり、それも知り合ったばかりの関係であり、信頼関係があるどころではありません。こんな関係で、他人に対して初めての治療を簡単に引き受けて、おまけに、とんでもなく重病の人を相手に、引き受ける判断が甘すぎたと、とっくに後悔していたのです。
そこで
その瞬間、自分は、気のエネルギーが信じる気持ちによって、そのコントロールが左右されるものであるにもかかわらず、その時に感じてしまった後悔の念によって、絶対治せない、という自信をはっきりと生み出してしまったのです。これは、やはり、治療がどれほどできるかという力のあり方ではなくて、精神的なものであったのでした。
そうです。それは、その時には、まだわからなかったのですが、他人の治療をするには、重い病気の人を選んでしまったということから、治したいと思えば、思うほど、もう1つの心は、こんなひどい病気、治せるわけがない、と自信を持つ自分が、なぜか、あっという間に生まれてしまい、治療の妨げになっていました。
何回も、治療を重ねて、手のひらを当てて、熱いかと尋ねると、冷たい、の一点張り。しかし、自分でも、冷たいに違いない、という、確定してしまった気持ちから離れられなくなっていました。とにかく、この治療をするには、もちろん不安の感情は当たり前ですが、以前にも感じた、なんとか治してやろうという感情もダメで、焦ってしまったり、ましては、慢心してはダメ、とにかく、平常心でなければいけないのです。
そして、それからは、これまでよりも、瞑想に時間をさいて、座るようにして気持ちを立て直していきました。この間の、1番困難だったことは、瞑想をしていて、意識を集中していき、それ以上の状態になってくると、治せないとか、治せるとかを超えた意識になってくるのですが、その時に、ここまで意識が変われば大丈夫だと思った瞬間に、自分の中に、これで治せるという感覚が生まれた時には、もうその時点で、元の意識にあっという間に戻ってしまう。
それは、母の癌の治療の時に、絶対に治すんだと意気込みすぎて、平常心を失った時と、とてもよく似ていました。
しかし、その後、さらに、瞑想の時間を増やして、とにかく、焦ることなく、治療に通っても、手のひらが熱いかどうかは、気にせず、エネルギーを送り続けました。治せないという気持ちもいけないし、治せると思ってもいけない。そして、これではいけないという気持ちは、もっといけなかったのです。それらの、どの気持ちがあってもいけないのです。心のあり方が、気のエネルギーのコントロールを左右されてしまう。
そして、やっと、心をからっぽにできた瞬間があり、何回か試していたある日、私のエネルギーも以前とは比較にならないほど吸収されるようになり、薬の効き目も発揮されている手応えがありました。
そして、続けて、週に一度、病院に治療に通うようになり、少しずつ回復の兆しが見えてきました。
それに、この力について、色々なことがわかってきました。この力は、意識によって、そのコントロールができるということと、自分も相手も信じていることがその力の程度であったり、放出と吸収、そして、治療の効果などに、とても影響があるということです。信じることがどれほどできるかが、治療効果の大きなポイントにもなるのです。
それにしても、治す意気込みも邪魔になる時があり、かといって今回のように治せないと思ってしまっても、いけない。それに、家族だと、たとえ治せなくても、仕方ないという、少しは気軽な気持ちでできるのですが、姉の時のように、家族に対する情が治す妨げになる、こともある。なかなか、単純ではないし、矛盾したような気持ちになる。
結局は、結論として、やはり、感情が邪魔になる、ということなのです。無心になって、治すのでありますが、邪魔になる感情のもって行き方というのもあって、治すというスイッチは、しっかりと入れておかないと治せないので、治そうというスイッチを入れなければならない。そして、スイッチを入れたら、あとは、入れっぱなしにするということ、あとはほっておくということなのだと思いますが、感情をなくすというのは、なかなか、これが難しくて、治っても治らなくても、どちらでもいいということではないのです。かといって、治ってほしいけれど、あとは任せる、というのが、ギリギリ近いのかもしれません。しかし、そこの治ってほしい、という気持ちは、やはり、ちょっぴりだけ、邪魔になっているような気もするのです。




