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1. 生まれた時から、もう大変

◎プロローグ

 令和の時代もだいぶすぎて、私もあっという間に、ここまできたけれど、こんな、どこにでもいるような平凡な人間なのに、気がつけば、信じられないような体験をして、不思議な人生を送ってきたものです。


 この場で、それらと、奇跡のような体験を振り返りながら、どうかこれを読んで、日常から、この不思議な世界を体験してほしい。すべてを真実として捉えられるか、どこまでを真実として捉えるか、とにかく、とても珍しい体験から、不思議な体験へと、その波瀾万丈な人生を是非味わっていただきたい。

私の名前は、最早木崎もはやきざき。生まれた時は、なんと1,600gという超未熟児。今でも、小さいと言われるのに、当時は、その病院始まって以来の小ささだという。


 ガラスの箱に入れられて約ひと月。病院の先生からは、育つかどうかわからないので、とりあえず名前はつけないで下さい、と言われていたという。両親は驚き、悲しんだ。


 そして、私は、ただ未熟児なだけで、病気ではないので、治療してよくなるわけでもない。どうしたらいいか、困惑する両親。そこで、両親は、とにかく1番大事なのは、栄養だ、ということになり、自宅で、母は、朝、母乳を絞って、それを父は、バイクで病院まで届ける毎日。おかげで、子供はすくすくと育ち、退院することができました。やはり、粉ミルクと母乳とは、その栄養の差はすごいらしい。それに、ただ、栄養の差だけではないのかも。おそらく、そうだろう。


 幼稚園には、4歳から通い始めて、とりあえず、やれやれという感じも、つかの間。


 ある日の夜、夕飯の時、家族でテレビをみていると、私は、時々テレビに駆け寄り、何かをしている。母は、それに1番に気づいたのです。

「あらっ。ぼく、何回もテレビの音、大きくしてる。」

すると、父は、

「そうか?言われても、おれには、よくわからんが。」

「いいえ。絶対に耳が悪いのよ、明日、病院に連れていってみるわ。」


 母は、こうと決めたら、すぐに行動する。そして、検査の結果、中耳炎でした。それも、両耳だったのです。病院の先生からは、

「お母さん、すごいです。よく気がつきましたね。」

 その時点では、普通だと、なかなか気がつかないらしい。その時の手術は、なんだか、だいぶ原始的なイメージでした。

 のみのようなものを、切開した耳の中の骨に当てて、ハンマーで叩いて削っていく。もちろん、麻酔はしていますが、頭に向けてハンマーでたたくのですから、その響きと痛みは想像を絶する。


 それを4歳の子供におこなうのですから、よくぞ我慢して乗り越えたな、私、という感じです。しかし、もう50年以上も前のことなのに、その時のことは鮮明に覚えているのです。ハンマーで叩かれるたびに子供は泣き、母は一生懸命に子供の名前を呼ぶ、という、壮絶な場面が記憶にあるのです。そして、それに続いて行われたのが、扁桃腺とその喉の奥にあるアデノイドという箇所。そこも肥大して熱をもっていて、このままでは、また他の病気を併発してしまうので、これまた切除手術に。その喉の手術は大量の出血を伴い、そして、その麻酔は全身麻酔ではないので、その出血を見ているのが子供心にもとてもショックだった覚えがあります。


 そんなことで、ほとんど幼稚園には行かれずに、小学校にあがり、人よりも小柄な私は、虚弱ながらも、とりあえずやっと穏やかな学校生活を送っていました。

 私は、身体が弱かったことと元々の性格のせいか、とても内向的で、友達も決まった数人しかおらず、友達と一緒に遊ぶ時も、この遊びをしようと言われると、いつも自分のやりたいことを言えずにいました。でも、人の気持ちに寄り添うことは、まったくいやではなくて、自分の主張をするよりも、人が満足していたり、喜んでいるのを見ている方がうれしかったのです。そんな変わった性格でした。

しかし、そんな穏やかな日々も長くは続きませんでした。安心したのも束の間、5年生になろうかという頃、またもや病気になってしまいました。

胃カタル、腸カタル、十二指腸潰瘍、という、3つの病気になり、手術しかないという。しかし、母は、まだ小学生の子供に手術なんてかわいそうだと、それを拒否します。そして、なんとか薬で治らないものかと先生に相談しますが、手術なしで治すとなると、家庭での大変な食事療法が必要になります。

母は、実は、大変な料理上手で、自宅での食事療法を決意、そのすごすぎる腕前による徹底したメニューによって、予想では2年の治療期間を、なんと半年も短縮して、病気は完治し、小学校卒業までに間に合ったのです。

しかし、この病気になってからは、体育の授業は見学だし、休み時間も1人で教室で静かにしている。帰宅しても、外出禁止で、さらに、内気な性格に拍車がかかる毎日でした。

父親は、とても厳格で乱暴な性格で、とてもがさつで荒々しい、私とは本当に親子なのかと思うくらい正反対の性格で、内気で弱々しい私に、いつも不満があって、非常に歯がゆい思いをしたと思います。父親とは、なかなか面と向かって話すことがなく、お互いにわかり合えなかったと思います。

一方で、母親は、若くして、父のもとに嫁ぎ、父のことも含めて苦労してきた人なのですが、見た目はその苦労など全く感じさせない明るい人で、正直、時には父にはもったいないと思うような人でした。

その後、私は中学生になり、体調は比較的良好で、続いて、高校にもなんら支障なく進級しました。しかし、大学生になった私は、あと数年で就職して社会人です。

私は、姉と2人の姉弟で長男なので、将来的に、父の経営する会社を継いでいかなければなりません。それには、やはりこれからの健康状態が気になりました。父も、そのことには心配があったようでした。

ちょうどその頃、母と姉が近くのカルチャースクールでヨガを始めていて、とても体調が良いと言って続けていたので、私もヨガのことは気になっていました。

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