第15話 ヒルダとグレゴール
「ハァ……」
グレゴール・フォン・ノルドベルク公爵は執務机の上に両肘を乗せ、組んだ両手に額を乗せて、重い溜息を吐いた。
「どうしました? グレゴール様」
そんなグレゴールに、ノルドベルク家の家宰を務めるヒルデガルド・フォン・ノイマン前男爵夫人が、書類の束を手に尋ねる。
「ああヒルダ、さっきナリシアから知らせが来てな……ヴィルマーが、クラウス達の離れに住むと言ってきたそうだ」
「あの離れですか……」
グレゴールの答えに、ヒルデガルドは眉間の皺を若干深めながら返した。
結婚前よりノルドベルク家に文官として仕え、ノルドベルク家の騎士団に所属していた夫が早逝するも、残された幼い子供達を育ててきたヒルデガルドと、親族を始めとする周囲からの大小様々な干渉から主家として母子を守ってきたグレゴール。二人の関係は、ヒルデガルドの長子が成人して爵位を継ぎ、ノルドベルク家の家臣の列に加わってからも続き、公の場以外では互いに『グレゴール様』『ヒルダ』と呼んでいる事からも関係の深さを伺い知る事が出来た。もっとも、愛人という噂だけは二人とも完全否定していたが。
「昨日、あの離れに火を付けて死のうとしたのをナリシア達が止めたそうだが、未だに死のうとしているようでな……ミナも一緒に住むそうだ」
「ミナですか……ずっと自分の趣味を抑圧されてきた死体愛好家と、ヴィルマー様の希死念慮が合わさった結果が、自殺未遂の連続に、精霊の加護、果てがアーヴマンの大神殿の破壊とは、誰が予想できたでしょうね?」
「仮に予想できたとしても、口にしたら正気を疑われるわ」
「確かに。あと、アーヴマンの大神殿の破壊が果たして『果て』であるかどうかも疑わしいですね」
「言うな。考えただけで気が重くなるし、第一考えてもどうしようもない」
グレゴールは顔を上げて天井を仰ぐ。
「でしたらミナをヴィルマー様の専属から外されてはいかがですか? ヴィルマー様の自殺をやめさせる事がすぐには無理でも、手伝う者がいなければ今のように頻繁に自殺を図る事はできませんし、まともな侍女が付けば、ヴィルマー様の自殺を事前に止める事も容易になるでしょう」
「儂がそれを考えなかったと思うか?」
ヒルデガルドの提案に、グレゴールは渋面で問い返す。
「問題は明らかにミナにあるのですから、ミナの実家から抗議が来ることは恐らく無いでしょう。仮に抗議が来たとしても、公爵家の名誉に傷が付く事態にはならないかと」
「そういう理由ではない」
右手を振りながら、グレゴールは話を続ける。
「ミナは今、公爵家の侍女ではなく、ヴィルマーの直接雇いという立場になっているのだ。だから儂でもミナをヴィルマーから離すことはできんのだ」
「ヴィルマー様がですか? どこからそんな金が──ああ、アーヴマンの大神殿で見付けた財宝ですか!?」
「そうだ。あそこで見付けた財宝は、『灰色の鴉』の者達とヴィルマー、ミナで分配したそうだが、ヴィルマーの奴、自分の取り分を全部ミナに渡したそうだ」
「全部ですか──」
ヒルデガルドは公爵領の事務方からの報告内容を思い出す。
アーヴマンの大神殿から持ち出された金銀財宝を始め、古代の魔術書、魔法が掛かった武具など、アーヴマン大神殿全壊事件の調査の一環として算定された総額は、ヴィルマー達で人数割りにしても、侍女一人を一生雇っても十分過ぎるくらいお釣りが出る程の額になるはずだった。
「それに加えて、ハインリヒがこのまま次期公爵の座を諦めるとは思えん。今度のヴィルマーの御披露目会で、何か仕掛けて来るに違いない。ハインリヒ本人に儂やヴィルマーを貶める策を考えられる頭は無いが、奴の仲間にはそれなりに頭の回る奴がいるし、何よりコンラート殿下が後ろ盾にいる」
グレゴールとヒルダは共に渋面を深くする。
「……やはり、あの者の手を借りるか」
二呼吸分程の沈黙の後、グレゴールが口を開く。
「……確かに、能力面では申し分ないでしょう」
重い口調で、ヒルデガルドは続ける。
「ですが、あれは諸刃の剣です。向こうとは数百年に渡る敵対関係が続いてきたのに加え、少なからざる借りまで出来ています。ここにまた借りを作るとなれば、どれ程の代価が必要になる事か? いや、それ以前にもし向こうと繋がっていると世間に知られたら、最悪の場合公爵家の存亡にも関わる事に……」
「それこそ今更だろうが。どの道ヴィルマーに死なれたら、公爵家は破滅だし、代価についても儂に一案ある。くれてやった所で今の公爵家にとってはたいして痛くはないが、向こうにとっては喉から手が出る程欲しいはずの物を、な──」
「──それはまた、思い切ったことを考えられましたね」
グレゴールの言う『代価』を察したヒルデガルドの声が、僅かに上擦る。
「例の賠償についての手紙は、まだ送ってないだろう? もう一通今から書くから、しばし待て」
そう言ってグレゴールは新しい紙を出し、ペンを走らせるのだった。




