37 前兆
「――すか?」
「ふえっ!?――」
何を話しているのかは分からないが、頭上で繰り広げられている会話の声がザックの頭を少しずつ覚醒させる。
声の主はアヤメとブレイだろう。ブレイの質問に対してアヤメが困惑しているように聞こえている。もしや女性に対して失礼なことを聞いているんじゃなかろうか。
もしそうならば同じ男としてブレイを止めなくては。
会話の内容を探るために腿にくっついていない右耳を澄ませる。
「でもでも!普通は付き合ってもいない男の人に膝枕なんてしないっすよ~本当のところはどうなんすか?」
「いや……それは……」
どうやらブレイは今のザックとアヤメの体勢を見て二人が恋仲なのではないかと思案したらしい。確かに膝枕という行為は家族や恋人のように親しい間柄でしかやらないものだ。
ザックとアヤメは同じ家に住み、同じ釜の飯を食べ、同じ夢のために行動を共にしている。その点に限れば、血で繋がっている家族よりも家族染みた生活をしているともいえよう。だから膝枕をすることもさしておかしくは無いはずだ。
でも今日初めて会ったブレイはそんなことを知る由もない。恋人同士だと勘違いしてしまうのも無理はない。思春期だと思われるブレイからすればこういう話題も気になって仕方ないのだろう。
「で、実際どうなんすか?」
「あ……ううぅ……」
付き合っていないのだからそう言ってしまえばいいのにとも思ってしまうが、初心なアヤメは言葉を詰まらせている。
全く、昨日の寝室での強引さはどこへ行ったのか……
とはいえ、このままでは彼女が羞恥に耐えかねて爆発してしまうかもしれない。
「ふわぁ~あ……おはようアヤメ。膝貸してくれてありがとな」
「ああっ!ザザ、ザックおはようございます!セームの涙はもう集め終わったそうなので早く帰りましょう!そうしましょう!」
顔を真っ赤にさせたアヤメが早口で捲し立てる。
「ザックさんおはようございます!セームの涙は集めておきました!」
清々しい笑顔のブレイは手持ち袋の口を開けて中身を見せつけてくる。袋の中には翡翠色のキラキラが所々に輝く鉱物がいっぱいに詰まっていた。
「ありがとな――ふぅん、これがセームの涙か」
袋の中から一つ出してみるが、ぱっと見はごつごつとした岩のような鉱石だ。宝石になりそうな部分は表面の一割にも満たないようにみえる。
「これはまだ原石ですけど、うちの街の職人の手にかかれば貴族御用達の一品になるんすから不思議っすよね~」
「セームの涙ってそんなにきれいなのか?」
「そりゃあもちろん!ザックさんも結婚指輪におひとつどうっすか?」
ブレイは突然、脈絡のない提案をしてきた。
「残念ながら今のところ結婚する予定は入ってないからな。その時になったら考えるよ」
「えっ?アヤメさんと結婚しないんすか?」
「アヤメは大切な仲間だけどそういう関係じゃないよ」
「でも同じ家に住んでるんでしょ?いくら冒険者でも男女で一緒に暮らしているのは恋人か夫婦くらいじゃないんすか?」
ザックが寝ている間にそんなことまで話してしまったのか。アヤメの方をちらりと見ると顔を赤くしたまま目を右往左往させている。
「ルームシェアをしているのは訳あってのことだ。確かにアヤメはパーティの相棒である以上に大事な存在だけど、男女だからといってなんでもそういう話に持っていこうとするんじゃない。なぁアヤメ?」
「えっ!?……あっ、はい!もうこの話は終わりです!早く帰りますよ!」
アヤメは一瞬ぽかんとした表情を浮かべたが、すぐさま怒涛の勢いで話を強引に終わらせた。あまりの剣幕にブレイはそれ以上追及することなく、アランとライオを呼び寄せて帰り支度を始めるしかなかった。
「お待たせしました!それじゃあ街に戻りましょ――」
「――ちょっと待て。何か聞こえないか?」
準備を終えたブレイ達が戻ってきた瞬間、滝の上の方からガサガサと木々をかき分けるような音が聞こえてきた。風はほとんど吹いていないことからすると、大型の魔獣である可能性が高い。
先程まで和やかな雰囲気だった五人の間に緊張が走る。
「ブレイ。この辺りにはどんな魔獣が生息しているんだ?」
「滝の周りにはほとんど魔獣はいないはずです。いたとしてもE級の小さな魔獣くらいのはずなんすけど……」
「じゃあこの音に心当たりは?」
「もしかしたらヌシが来たんじゃ……」
口を開いたアランが顔を青くさせている。
「待ってください!ヌシの生息域はもっと上流のはずです。この辺に来るはずありません!」
「ライオ君。そのヌシというのはどんな魔獣なのですか?」
「ヌシは巨大な鋏を持った大型の魔獣です。表皮も硬くてA級のパーティでも手こずる危険な存在なので、このダンジョンのヌシだとみんな言っています」
「巨大な鋏に硬い表皮……確か魔獣図鑑で見たことがあるような……」
ザックが記憶の中から該当する魔獣を探し当てようとしていると、滝壺に巨大な影が落ち、水しぶきが跳ね上がる。
しぶきの中から現れたのは巨大な甲殻を背負った蟹のような生物だ。目は黒一色なので分かりにくいが、触角のようなものを揺らしながら辺りの様子を窺っているようだ。
そして何よりも目を引くのは右手の巨大な鋏。カチカチと音を鳴らす様は獲物を探しているように見える。
「思い出した……ヘッドシザースだ!」
硬い甲殻に覆われた全身と右手の鋏だけ異常に発達した左右非対称のシルエット。アーネスト近辺のダンジョンでは中々お目にかかれない魔獣なので思い出すのに時間がかかってしまったが、間違いないだろう。
とある危険な習性を持っていることから、その討伐クエストはA級に相当する難敵だ。
「ザック、今のうちに逃げますか?」
「そうだな。みんな、木の陰に隠れながらあいつから距離をとるぞ。絶対に顔を出すなよ」
幸いにもヘッドシザースはまだザック達の存在に気付いていない。ザックとアヤメの力なら倒すことも不可能ではないが、魔獣の討伐は今回の目的ではないので無理をする必要もないだろう。
ここはアヤメの提案通り、交戦を避けて退くのが最適解だ。
五人は慎重な足取りで少しずつヘッドシザースから距離をとり始める。
木々に身を隠しながらの撤退なので時間こそかかってしまっているが、今のところ気付かれた様子はない。
「ザックさん。どうして走って逃げないんすか」
「ヘッドシザースは人型の生物の生き物を見つけたら、本能的にその頭部を狙ってくる魔獣だからな。慎重に逃げるのが正攻法だ」
生半可な攻撃では傷一つつかない強固な甲羅と、数人まとめて真っ二つにすることのできる巨大な鋏。そして人の頭部を執拗に狙うという厄介な習性。この三つの要素を兼ね備えているが故にヘッドシザースはA級に分類される。
魔獣図鑑では、逃げるときには常に体を隠し続けることが推奨されていた。
「物知りっすね~そんなこと初めて知りましたよ」
「剣や魔法は修業しなきゃ使いこなせないけど、知識は知っているだけで簡単に使いこなせるからな。一人前の冒険者になりたいならしっかり頭も使えよ」
「参考になります!」
ザックが様々な魔獣について知識を得ようとし始めたきっかけは露払いであった。最初は魔獣を一撃で倒せる急所を調べていたが、次第に魔獣の生息域や習性など戦闘そのものを回避できる情報も調べるようになった。
方舟時代はザックの意見が採用されることはほとんど無かったためにその努力が生かされることは無かったが、今はこうして身を助けるのに役立っている。
その後、来た道の倍ほどの時間をかけて、五人は恵みの大地からの脱出に成功した。
「時間はかかりましたけど、なんとか撒けたようですね」
「こればかりは仕方ない。下手に戦えばこちらも無事ではなかったかもしれないからな」
相手は頭部を執拗に狙う危険な魔獣。頭と首が離れてしまえばアヤメの回復魔法があると言えど、蘇生は困難だったはずだ。
クエストの目的は達成した上で、無傷で生還できたということであればこれ以上のことは無い。
ほっと一息ついていると、フィーチャーの三人が真剣な表情でザックとアヤメの前に整列して頭を下げた。
「改めて謝罪をさせてください!」
「今朝は生意気なこと言ってすみませんでした!」
「これからはお二人のような冒険者を目指して頑張ります!」
三人はいたく反省している様だ。もう少しで死んでいたかもしれない目に遭えば、流石に馬鹿や無鉄砲も治るだろう。
目標にされるほど懐かれてしまったのは予想外だったが、もう彼らのことは心配していない。きっと今日学んだ教訓を生かして、より逞しく成長することだろう。
「もう怒っていませんから顔を上げてください」
数時間前は黒い笑顔を浮かべていたアヤメは、聖母のように優しく微笑んでいる。ザックも彼らに対する怒りはほとんど無くなっているのでそこまで気にしていない。
そんなことよりも、今のザックには気になっていることがある。
「聞きたい事がある。さっきのヘッドシザースがこのダンジョンのヌシでいいのか?」
「俺たちも本物を見るのは初めてですけど、たぶん間違いないと思います」
「ザックは何が気になるんですか?」
「いや……ヘッドシザースはかなり危険な魔獣だから、このクエストはA級クエストになってもおかしくないはずなんだが……」
好戦的なヘッドシザースに見つかってしまえば戦闘は避けられない。だとすればヘッドシザースに遭遇する可能性のあるクエストはA級クエストになってしかるべきなのだ。
「ヌシの生息域はもっと上流の方です。滝の近くに現れたっていう話は一度も聞いたことがありません」
「ということはさっきのヘッドシザースは完全にイレギュラーだったってことか……」
ライオが嘘をつくとは思えないし、彼に情報を与えたであろうギルドの職員や先輩の冒険者にも嘘をつく理由が無い。
だとすれば、滝にヘッドシザースが現れたのは、誰もが予期することのできなかったことなのだろう。
「そういえば……前はフレイムハウンドもあんなとこにいなかったよな……」
「言われてみればあの辺にはもっと低級の魔獣がいたはず……ザックさん、今日のダンジョンは何かおかしかったっす!」
三人の意見を総合すると、今日の恵みの大地では魔獣の生息域がいつもと違っていたようだ。魔獣の生息域が大幅に変わるのは、ダンジョン内の生態系やヒエラルキーが崩れる場合が大半だ。
ダンジョンのヌシと呼ばれているヘッドシザースがテリトリーを変えたということは、ヘッドシザースよりも強い魔獣が接近、あるいは既にダンジョン内に入り込んでいる可能性が高い。
フレイムハウンドがいつもとは違う場所にいたのもおそらくそのせいだ。ヒエラルキーの頂点にいるヘッドシザースが居場所を変えたことで、他の魔獣たちも玉突きのように生息域を変更したのだろう。
今日一日、ほとんど魔獣に遭わなかったことが奇跡のようにさえ思えてくる。
「これってかなり危険なんじゃ……」
「ああ。バーナードさんに頼んですぐにダンジョンを封鎖してもらおう」
セームの冒険者たちは、先人たちの経験を基にして恵みの大地のクエストをこなしているはずだ。でも今はその経験が通用しない。それどころか予想外の事態に見舞われる可能性が高い。
しかも今セームに残っているのはD級に昇格したばかりのフィーチャーを除けば全員がE級以下。対応力に劣る冒険者たちが入るのは危険極まりない。
通常ならばベテランのA級パーティやS級冒険者にダンジョンの調査依頼を任せる所だが、緊急クエストのせいで手も足りていない。
どうやら今回の依頼は、留守番を預かるだけでは済まなくならないらしい。
確証は無いが、確信めいた予感がザックの頭の中をよぎった。