第3話 クワガタ姫養生記
夜勤明けの仕事帰りに立ち寄ったコンビニで、私は一匹のクワガタムシを拾った。
体長25㎜ほどの雌のコクワガタだった。私はこのコクワガタを「姫様」と命名した。
きっと、夜の闇を照らす24時間営業の店の明かりに惹き付けられたのだろう。姫様は店の入口のフロアマットの上に蹲っていた。
こんな所に居たら踏み潰されてしまう。私は姫様を摘まみ上げようとした。
姫様はクワッと鋏を広げて威嚇する。そしてその姿勢のまま、身動き一つすることなく固まってしまった。
衰弱してその姿勢のまま動けない、というのが実状らしい。
車通勤の私は車内に飲みかけのメロンソーダがあったことを思い出した。メロンソーダをティッシュに湿らせて姫様の口元に置く。姫様はゆっくりとメロンソーダを舐め始めた。
私はコンビニで軽食とプリンを購入し、姫様を保護して自宅に連れ帰った。
私の家に昆虫の飼育用具等は一切ない。自宅に招いた虫たちはいつも、すぐにまた山の自然の中に帰しているからだ。
しかし今回は姫様の体力を回復させなければならない。
即席ではあるが、カップ麺の空き容器を再利用して姫様の部屋を作ることにした。
私はカップ麺容器の中に少し湿らせたティッシュを幾重にも敷き、そこに姫様を入れた。姫様の隣にはペットボトルの蓋の中に盛った小匙一杯分のプリンを置く。
姫様は無心にプリンを舐め始めた。空腹の限界だったのだろう。無我夢中といった感じだ。
素直に美味しそうに食事する姫様は見ていて実に気持ちがよい。疲れていた私は、そのままうたた寝をしてしまった。
小一時間ほどして目覚めた私。
「姫様はどうしてるかな」と、姫様の部屋を覗いた。その瞬間、私は焦った。
姫様はプリンの中に頭の全部を突っ込んで身動き一つしていない。人間で例えるなら、浴槽に上半身を突っ込んで逆さまになっている状態だ。
まさか! プリンで溺れたか!
私は慌てて姫様をプリンから引っこ抜いた。姫様と目が合った。
私に摘ままれたままの姫様は私の顔をじっと見つめながら、舌をニョキニョキ、触角をニョキニョキ、と動かしている。
これはご立腹の顔か。いや、おそらく抗議の顔だ。多分。きっと。
「コラッ! 食事の邪魔してんじゃないわよ! もっと食べさせなさいよ!」
そんなことを言っている顔だ。
元気が少しでも戻ったならそれでいい。私は姫様の頭を再びプリンに突っ込んだ。
これで文句は無いだろう。そして私は眠りについた。
翌日、私はメイプルシロップを購入した。クワガタムシは甘い汁が大好きだ。しかし実は、スイカや砂糖水などの水分の多い食品はクワガタムシのお腹を壊す原因になる。元気を取り戻すためには少しでも樹液に近い物のほうがいいだろうと考えたからだ。
もう一つ、滋養強壮ドリンクも買った。
「弱ったクワガタ」とネット検索してみたところ、
「マジな話、ユン○ルが効く。元気になる」というような書き込みを見つけたからだ。
私は姫様の食事をプリンからメイプルシロップへと変更し、その中に、半信半疑ながらも滋養強壮ドリンクを2滴ほど垂らした。姫様はプリンの時と同様に美味しそうに食事をしてくれた。
保護して三日目の朝、姫様は脱走した。
姫様の部屋は、容器丸ごと流し台用の水切りネットで包んであったのだが、そのネットに5㎜大の穴が開けられていた。
部屋中を探したがどこに潜んでいるのかさっぱり分からない。
捕獲作戦を考えた。餌で釣り上げることにした。
その夜、私は部屋の数ヶ所に、スライスしたバナナとメイプルシロップを置いて眠りについた。
夜中、眠る私の足の指先に、チクチクと得体の知れない感覚が走った。驚いた私は反射的にブンと足を振った。カラカラッと何かが振り落とされて転がる音がした。
姫様だった。床の上に仰向けに転がって足をバタつかせていた。元気満々だった。
どうやら、寝ていた私の足の指先にしがみついてきたらしい。
私が姫様を摘まみ上げると、姫様は背中を丸めておとなしくなった。
姫様をカップ麺容器の部屋に戻すと、姫様はティッシュの寝床に頭を突っ込んだ。
せっかく広い場所に脱走できたのに連れ戻されていじけているように見えた。
しかし元気を取り戻せたことは充分に分かった。
明日、山に帰そう。
お別れの刻がやって来たのだ。
最後にご馳走を振る舞って、そしてお別れだ。
私は姫様がまた脱走しないように、カップ麺容器の上に向かい合わせにもう一つカップ麺容器を被せ、その上に重石代わりに国語辞典を乗せ、丸ごとネットで包んだ。
そして蜂蜜を買いに出掛けた。
買い物から帰宅した私は唖然とした。
姫様は脱走していた。私はクワガタムシのパワーをナメていたようだ。
重いカップ麺容器の蓋を5㎜ほどズラし、その隙間から脱出していた。当然、ネットにも5㎜ほどの穴が開けられていた。そして、私の部屋の窓が全開になっていた。
いや、この窓は姫様の仕業ではない。買い物に出掛ける前にベランダに洗濯物を干した、この部屋の間抜けな主の成せる業だ。私が閉め忘れた。
どうやら、姫様は一人で勝手に山に帰ってしまったようだ。
しかし、元気になったのなら私も文句はない。自由にすればいい。格好いい彼氏を見つけて、また来年、顔を出しに遊びに来てくれればいい。まぁ、そんなこともないだろうが。
姫様のための蜂蜜は私の一人占めとなった。
心中は少し淋しい気分だったが、味わった蜂蜜はとろけるようでとても甘かった。
こういう経験も「甘く切ない思い出」というのだろうか。
◆◇◆
虫の呼吸の話。昆虫たちのほとんどは腹部に「気門」と呼ばれる孔を持ち、そこで呼吸をしています。脊椎動物のような口と鼻からの呼吸はしていません。プリンに頭ごと突っ込んでも呼吸はできるのです。