第17話 私に冷たいハエトリ姫
啓蟄の日を過ぎて一週間が経った。
『啓蟄』とは、凍える季節を終えて暖かな春の陽気に虫たちが起き出す日のことをいう。
先日、ゴロゴロと寝そべって漫画を読んでいた私の目の前にハエトリグモが現れた。
実は、このハエトリグモには三週間ほど前に一度、出会っている。
少し前の、二月の凍える日の深夜、私の部屋の壁でモソモソと蠢く一匹の蜘蛛の姿があった。それがこのハエトリグモだった。
寒さのために身体が悴んで思うように動けないようだった。
身体の色は薄茶がかったグレー色。この身体の色は女の子だ。言うなればハエトリ姫だ。
性的二型といって、虫には雄と雌とで身体的特徴が異なるものがある。
ハエトリグモもそういった種で、民家でよく見かけるアダンソンハエトリの場合は、身体の色は雄が黒で雌がグレー色をしている。
私は以前、蜘蛛が珈琲に酔うということを知り、それ以来、ハエトリグモを見かけたら珈琲でおもてなしをする、ということが私の定番となっていた。
というわけで、早速、珈琲を用意した。さぁ、ほろ酔い気分を味わってくれ。
だが。ハエトリ姫は、逃げる。逃げる。
どうにもハエトリ姫は逃げることに必死で珈琲を飲むどころではないようだ。
最終的にはしつこい私に負けて珈琲を飲むことになるのだが、その後、ハエトリ姫はヨロヨロと千鳥足になりながらも、時々立ち止まっては前肢で顔を何度も拭っていた。
今までのハエトリグモのように意味不明な愉快な行動を取ったり、愛嬌たっぷりに私を見つめてくるような仕草は全くない。
「ねぇ、ちょっと! そこの人間さん! 飲みたくもない珈琲を無理やり私に飲ませないでちょうだい!」
そんなことを言われている気がした。
その後も何度も何度も、あまりにも嫌そうに顔を拭うので、私にも何だか罪悪感が湧いてきた。
いや、少なくとも楽しい思いはさせてはいないだろう。
申し訳なく思った私は「嫌な思いをさせてごめんなさい」と、ハエトリ姫を最初に居た壁にそっと戻した。
その後、パッタリと見かけなくなったハエトリ姫だったが、今回、三週間ぶりに私の目の前に再びヒョコリと顔を見せた。
この三週間を何処で過ごしていたのかは知らないが、私の部屋はハエトリグモは出入り自由なので、また訪れてくれたことは単純に少し嬉しい。
前回は嫌な思いをさせてしまった。
今回はちゃんとおもてなしをしよう。ふざけることなく。
本気でそう思った。
以前にネットでハエトリグモ愛好家の方がペットのハエトリグモを可愛がる様子を録った動画を観たことがある。
それによると、ハエトリグモは砂糖水が大好物らしい。
動画の中のハエトリグモは主人から逃げることもなく、砂糖水の染み込んだ綿棒にしがみついてチューチューといった感じで砂糖水を飲んでいた。
ソレ、私もやってみたい。
ハエトリ姫よ、今回は逃げることなく私のもてなす砂糖水を喜んで飲んでくれ。
早速、動画と同じように砂糖水の染み込んだ綿棒を用意した。
そして、ハエトリ姫の目の前に差し出した。
さぁ、美味しいぞ。心行くまで飲んでくれ。
だが。再び、逃げる。逃げる。
ハエトリ姫はひたすら逃げる。
きっとまだ、砂糖水を口にしたことがないんだな。一口飲めば気に入ってもらえるはずだ。
私はハエトリ姫の逃げる方向に先回りして、砂糖水付き綿棒をハエトリ姫の顔に押し当てようとした。
だが、前肢でガードされた。そしてまたそっぽを向いて逃げ出した。
せめて一口飲んでくれ。絶対に気に入るから。
何が何でも一口飲ませてやろうと私は少々、意地になった。
そして無理やり砂糖水付き綿棒をハエトリ姫の顔に押し付けた。
しかし。気に入ってはもらえなかった。
というか、必死になって逃げていった。
もういいよ、もう……。
せめて一口くらい飲んでくれたっていいじゃないか。
ただ、「美味しい~」って素振りを一目、見たかっただけなんだ。
私のおもてなしは叶うことはなかった。
ハエトリ姫は部屋の端へと逃げていった。
そしてそれから数日が経過した。
今現在、私がハエトリ姫の姿を見かけることは全くない。
『しつこい男は嫌われる』
昔からよく言われている言葉だ。
きっと私はしつこ過ぎて嫌われ、逃げられたのだろう。
というか、私はいつも虫に対して悪ふざけが過ぎるから、虫たちにとっては大迷惑な人間なのだろう。
いやね、私に悪気は無いんだよ。本当に。ただ、ちょっとだけ君たちと一緒に面白可笑しい時間を過ごしたいだけなんだ。
えっ? それが大迷惑だって?
あぁ、きっと、そうなんだろう。
だが、おもてなしにはいつも身体に悪い物は出してないだろう。
私の部屋はハエトリグモに関してはいつでも出入り自由なのだ。
これに懲りずにまた私の部屋を訪れて欲しいと思う。
私はいつでもハエトリグモの来訪を歓迎するつもりで待っているのだから。
◆◇◆
江戸時代、ハエトリグモは『座敷鷹』と呼ばれてハエトリグモの愛好家に飼われていた、という記録があります。
当時の愛好家たちはシャレた容器にハエトリグモを飼い、仲間同士で集まって、誰のハエトリグモが一番速く蝿を捕らえるかなどを競って楽しんだそうです。
いつの時代にも、ハエトリグモを可愛らしいと感じる愛好家はいるようです。