第1話 律儀な蜘蛛
私の暮らすアパートの入口ドアのすぐ横には小窓があり、この小窓は小さな蜘蛛たちにとっての一等地となっている。
知らぬ間に蜘蛛は住み着き、張られた蜘蛛の巣を取り払って巣の主を外に追い出しても、またすぐに別の蜘蛛がそこに巣を作る。何度も同じことを繰り返している。
大概はお尻の丸っこい、体長1センチくらいの蜘蛛が住み着くのだが、ある時、お尻の丸くないスマートで一般的な姿の、背中に白い縦スジ模様を持った蜘蛛が住み着いた。
ちなみに私は虫の類いは嫌いではないし、蜘蛛はどちらかというと好きだ。益虫の類いでもあるし。
私はこの蜘蛛の新しい居候をしばらく見守ることにした。
ある時、仕事から帰宅した私は驚いた。
ドアを開けた瞬間に目に入ったのは、自ら巣を解いている蜘蛛の姿だった。
不思議に思い、ネットで調べてみた。
蜘蛛は、自分の巣が破れたり汚れが酷くなった時、新しい巣を張り直すために古い巣を解いて解体するらしい。
貴重な瞬間を見ることができたと、ちょっとだけ感動した。
翌日、小窓には新たな巣が立派に完成し、蜘蛛は誇らしげに網の巣の中央を陣取っていた。
実をいうと、私は虫にちょっかいを出すのが大好きだ。この時、ふと、「蚊取り線香って蜘蛛に効果あるの? 」と、思ってしまった。
思いついたら即実行。
蜘蛛を下から蚊取り線香の煙で燻してみた。
蜘蛛は驚いたのか、巣から飛び降りた。足元をちょろつく蜘蛛に、蚊取り線香を煙が当たるように近づけた。
慌てて全力疾走で逃げ出す蜘蛛。蚊取り線香を手に持って追いかける私。
ちなみに私に蜘蛛を退治する気持ちはない。あくまでもいたずら心だ。
しかし蜘蛛にとっては死に物狂いの出来事だっただろう。
必要以上にしつこく追っかけ回した。
蜘蛛は必死だっだ。しかし最後は壁の隅に、あきらめたように小さく丸まった。
蚊取り線香の煙にヤラレたのではない。本当に困り果てて小さく丸まったという感じだった。
「お願い、もうやめてぇ~」
という声が聞こえたような気がした。
私は、悪いことをしたな、と思い、蚊取り線香の追っかけごっこをそこで終了にした。
翌日、私が仕事に出勤しようとした時には、蜘蛛は小窓の巣の中央に戻っていた。
私は蜘蛛に声を掛けた。
「昨日は悪かったな。おまえにこの小窓の永住権を認めるから、末長く暮らしてくれ」
他人が聞いていたら「この人、頭おかしいの?」と思うだろうが、本当にそう声を掛けた。
理解しているのか、いないのか、蜘蛛は巣の中央で身動き一つせずにいた。
会社に出勤し、そして仕事を終えて帰宅。そこで私は更に驚いた。
新しい同居人は居なくなっていた。
しかし、驚いたのはそこではない。
蜘蛛の立ち退いた小窓は、綺麗に巣が解体されて片付けられていた。ちなみに私は一人暮らしなので他に蜘蛛の巣を掃除する者はいない。
立ち退き際にちゃんと住まいの片付けをしていくとは、なんて律儀な蜘蛛なんだと思った。
実際には、蚊取り線香の煙で追っかけ回されて「こんな所で暮らせるか!」と思ったのだろうが。
不思議なことに、この蜘蛛以来、小窓に蜘蛛が寄り付かなくなった。
「あの小窓はダメだ。場所は一等地だが、部屋の主が最悪だ。近づかないほうがいい」
そんなことを言い振らされている気がした。
近頃はドアのすぐ外に、たくさんの蜘蛛が巣を張り巡らせている。しかし室内に忍び込んで巣を張ろうという、粋な心意気の蜘蛛はいない。何か、寂しい気分だ。
◆◇◆
ちなみに蚊取り線香の成分は昆虫全般に効果があるそうです。室内でカブトムシなどを飼っている場合は、蚊取り線香を焚くのは要注意です。金魚にも害があるようなので、金魚を飼っている方は蚊取り線香の煙が水槽に入らないように注意してくだいね。