小動物番外編① ネズミのココロ
これはまだ昔、私が実家暮らしだった頃の話です。
深夜、トイレに行きたくなって私は目を覚ました。
皆が寝静まって静寂に包まれた我が家。何処からともなく「チュゥ~、チュゥ~……」と、弱々しく助けを求めるような鳴き声が聞こえてきた。
何処から鳴き声が聞こえてくるのだろう……。 鳴き声の元を探してみた。
鳴き声はリビングのテレビの裏から聞こえてきていた。
テレビの裏を覗き込むと、そこには少し大きめのゴキブリホイホイのようなものが置かれていた。
ネズミホイホイと言うのだろうか。つまりはネズミを捕獲するためのトラップだ。
トラップの中を覗いてみると1匹のネズミが罠の床の部分の粘液にベッタリとへばりついて身動きが取れなくなっていた。
私は自分の力一つで強く逞しく生きる動物が大好きだ。このネズミを放って見殺しにすることはできないと思った。
「よし、助けよう!」
私は厚手の紙をヘラのようにしてネズミの身体の下に挟み込むと、ネズミを傷つけないように細心の注意を払ってゆっくりとゆっくりと掬い上げた。
しかしネズミは今度はこの厚手の紙にへばりついてしまった。その体勢のまま「チュゥ~……」と力無く鳴いている。
これは困ったぞ。ネズミの身体中にまとわりついた粘液を何とかしなければ……
すぐに良いアイデアが閃いた。私は家の外に砂のような細かな土の粉を取りに行った。
大さじ1杯ほどの細かな土の粉。その粉をネズミの身体中に振りかけた。土の粉は粘液に貼り付いた。
例えるならきなこ餅か。ネズミの身体は土の粉にコーティングされ、ベタつきから解放されて自由になった。
しかし、さて、どうしたものか。
ネズミは有害動物だ。一般的には退治の対象だ。
だが、私はコイツを助けてやりたいのだ。
とりあえず深めの紙コップに入れて私の部屋に連れ戻った。ネズミは逃げ出そうと紙コップの中でジャンプを繰り返すが、まだ思うように身体の自由が利かずジャンプがままならない。
しばらく私はネズミの様子を伺っていた。
このネズミのことは、ネズミ殿と呼ぶことにしよう。
ネズミ殿は私に救出されたことを分かっているのだろうか。囚われたという焦燥感はあまり感じられない。
現状では紙コップから脱出できないと悟ったネズミ殿は、後ろ足二本立ちになって歯で前肢にまとわりついた砂まみれの粘液を少しずつ齧り取っている。
実をいうと、私は以前にもネズミを捕らえたことがある。その時はたまたま家の中で見かけたネズミを遊び心で生け捕りにしたわけだが、その時のネズミはきっと捕まったということを強く自覚していたのだろう。困惑焦燥するかのように前肢で自身の頭を掻きむしるような仕草をよく見せた。
「捕まっちまったぁ。どうしよう……」
ってな感じだった。
その時のネズミと比較すると、今回のネズミ殿はとても落ち着いて見える。
様子を伺う私のことを逆に伺い返すように見つめてきたりしている。
身体の自由が戻れば解放してあげたいところだが、有害動物とされている以上は、また誰かに見つかることがあれば駆逐されてしまうだろう。
まだ深夜だ。とりあえず私は少し眠ることにした。
夜が明けた。目覚めた私はネズミ殿を連れて車でドライブに出かけた。ネズミ殿を解放する場所を探すためだ。
民家の近くに放しては、また何処かの家に忍び込んでその家に迷惑をかけることになるだろうから、それはできない。
気の毒だとは思うが、人里離れた場所で野生のネズミとして自力で生き抜いてもらうしかない、と思った。
しばらく車を走らせると、私はとある製材所の材木置き場を見つけた。広大な敷地に大量の丸太と、板状にスライスされた木材が敷き詰められるように置かれている。
ここなら大丈夫だろう。藪の中では蛇に命を狙われるかもしれないが、材木置き場ならば隠れる場所もあるだろうし眠る場所も確保できるだろう。
一期一会、ほんの数時間の出会いの縁ではあったがここでお別れだ。
私は天日干しされているスライス木材の上にネズミ殿を解放した。
この時、ネズミ殿は私の少々驚く行動を見せた。
ネズミ殿は家ネズミとはいえ、決して家畜などではない。純粋に野生のネズミだ。人間に捕獲されて解放されたなら一目散に逃げていくだろうと思っていた。
しかしネズミ殿は違った。
材木の上でネズミ殿は少し戸惑ったようにじっと固まった。
子供の頃、ネズミにはテレパシーがあって人の心が分かる、という話を聞いたことがある。その話をそのまま鵜呑みにするわけではないが、この時、私はネズミ殿と心で会話しているような気がした。
「ぼく、このまま行っていいの?」
「あぁ、いいんだ。好きな所で思うように自由に生きればいい」
ネズミ殿は一度振り返ると、とぼとぼゆっくりと遠ざかるように歩きだした。
5、6歩ほど歩くともう一度だけ振り返った。
「本当に行っちゃうよ……。ありがとう。さようなら」
そんな会話のやり取りをしたような気がした。
ネズミ殿は再びとぼとぼと歩きだすと、木材の陰へと消えていった。その姿には哀愁感があり、とても淋しそうに見えた。決して、人間から逃げる、という姿には見えなかった。
ネズミは人間にとって有害動物だ。百姓である我が家は有害な野生動物に対しての対応は特に厳しい。飼えるものなら飼ってやりたいところだが、それは私には不可能だ。
野外の暮らしは大変だろうが、せめて自由に逞しく生きてくれ。
そう願った。
田舎の百姓の家に生まれ育った私は今までに様々な野生動物を見てきた。
その経験上、野生動物が人間と出会った時は、威嚇をしてくるか、速攻猛ダッシュで逃げ去るか、そのどちらかだった。威嚇してきた場合も最終的には逃げ去ることになるわけだが。
そんな私にとって、今回のネズミ殿の一件は実に奇妙に感じた出来事だった。
実際、ネズミ殿の心中はどんなことを思っていたのだろう。
きっと全ては私の思い込みなのだろうが、私の好意がネズミ殿の心に届いていたというのであれば、それはとても嬉しいことだと思う私であった。