第15話 蟻のお仕事
私の車からすぐ近くの地べたに、何やらもそもそと蠢く小さな物体があった。
薄茶っぽい、魚の鱗よりも少し大きめな欠片のような物体。近付いてよくよく見たら、それはポテトチップの小さな切れ端だった。
5匹の蟻が巣に持ち帰ろうとして、力を合わせての運搬移動の真っ最中だった。
蟻は仕事熱心で真面目な虫だ。普段は大勢で長い行列を作って餌場との行き来をする。だが、しっかり蟻の行列を見てみると、不思議なことに食糧を持ち運んでいる蟻は意外と少ない。
何故、多くの蟻が手ぶらなのだろう。
『2:6:2の法則』
働き蟻について言われている法則だ。
それは、「よく働く」が2割、「普通に働く」が6割、「ずっとサボる」が2割、というもの。
蟻の集団からサボり蟻の全てを排除しても何故かそれまで真面目に働いていた蟻の2割がサボり出すというから、これは実に興味深い。
蟻の行列の中の食糧を持ち運ばない蟻も仕事をサボっているのだろうか?
私は幼い頃、蟻の仕事ぶりを観察検証したことがある。食糧を持ち運ばない蟻に疑問を持ったのだ。
観察対象には1匹の蟻をランダムに選んだ。巣穴から出て、また巣穴に戻るまで、その一部始終を追跡した。
結論から先に言おう。
私の追跡した蟻は、片道20mほどの距離を30分以上かけて移動し、目的地に着くと、その場をしばらく彷徨き回り、そして手ぶらのまま巣穴に戻った。
手ぶらの理由は単純だった。目的地に食糧が何も無かったのだ。蟻の行列の目的地は沢山の蟻たちが彷徨くただの集会場のようになっていた。
『道標フェロモン』
食糧を見つけた蟻が仲間をその場所に導くために道に残す匂い物質のことだ。
私の追跡した蟻が手ぶらで戻ったおそらくの理由は、
「道標フェロモンに従って行列には並んでみたが、食糧の全ては回収された後だった」ということだったのだと思う。
現実のサボり蟻の仕事ぶりというものについてもネット動画で検索してみた。
サボり蟻というのは、ヤル気の無さそうな蟻たちが巣穴の中で只々じっとして何もせずに群れている状態の集団のことだった。それまで真面目に働いていた蟻が突如としてその集団に加わることもあるらしい。
つまり、外回りの仕事をこなしている働き蟻は、その時点でサボり蟻ではないのだ。
最近になって、蟻には食糧を体内に収納するための「素嚢」と呼ばれる器官があることを知った。何も持ち運んでないように見える蟻も実は素嚢にしっかりと食糧を収納している、という場合もあるのだ。
サボり蟻について、ふと、思ったことがある。
人間の場合、サボるというのは「楽をしたい」という気持ちの現れなのだと思う。それは仕事に手を抜きたいというズル賢い悪智恵だ。
ズル賢い悪智恵……。
ということは、蟻のサボりが意図的なものであるなら、サボり蟻には智恵があるということになる。
私が思うに、こういった悪智恵は生物の進化に大きな貢献をする。
例えば、太古の人類の日々の生活は狩猟採集が基本だった。
危険の不可欠な狩猟。季節によってムラのある採集。そんな生活をずっと続けていくことは困難で大変だ。
食糧の安定した楽な生活を送るために人類は農業を身につけた。
大量生産でもっと楽するために、個々の役割を細分特化して専門化した。
その工程はあらゆる分野に普及し、現在の人類の文明に至る。
サボり蟻も同じように、生活を楽にするために仕事を合理的に効率化していくのだろうか?
現在は狩猟採集の生活だが、やがていずれは農業を手にするのだろうか?
いや、すでにもういるではないか。
『葉切蟻』
アメリカ大陸に暮らす、農業を営むと言われる蟻だ。
大量の葉っぱを集めて発酵させ、それを堆肥としてキノコを育て食糧とする。
個々の仕事の役割分担もしっかりしている葉切蟻は、遥か未来には農業以外の分野の仕事にも進出していくのかもしれない。
そんなことを考えていたら、私の身近に暮らす蟻たちもいつかは新たな仕事を身につけていくのだろうか、と思ってしまった。
農業を覚え、やがて道具を発明し、いずれは電化製品や自動車等をライン工程作業で大量生産する。
だが、もしそんな現実が訪れたとしても、その実現までにはまだまだ1億年以上の年月がかかりそうだ。
そんな遠い未来のことは私には見届けるのは不可能だ。
だから今はちょっとだけ、狩猟採集の日々を送る身近な蟻たちに手を貸そう。
話は最初に戻る。
私の車の傍らでポテチを運ぶ蟻たち。巣穴までの帰路は長く遠い。
私は蟻たちごとポテチの欠片を指先で摘まみ上げた。巣穴の近くまで丸ごと運んであげようと思ったのだ。
摘まみ上げた瞬間、蟻たちはパニックに陥ったように慌てて散々に逃げ出してしまった。
「しまった!」
不用意に蟻たちを驚かせてしまったことに私も慌てた。
「うわぁ! 大怪獣が現れた! 逃げろぉ!」
「食糧よりも命が大切だ! 命が第一優先だ!」
「待ってぇ! 私一人を置き去りにしないでぇ!」
蟻たちのそんな救いを求める叫び声が聞こえてくるような気がした。
逃げる蟻たちの行く先にポテチを戻したが、すでに時遅く、ポテチは蟻たちの眼中に再び入ることはなかった。
取り残されたポテチは、そんな事件が起きていたことなぞ梅雨も知らない、たまたま後からそこを通りかかっただけの働き蟻のお手柄へと化けてしまった。
蟻は「義の虫」。規律正しい共同生活を営む、真面目で律儀でチームワークを大切にする女系一族の虫。
そんな蟻たちの懸命な仕事の邪魔をしてしまった私。
本当に申し訳ないことをしてしまったと深く反省をした。
蟻から見たら、確かに人間はデッカな怪獣だ。
蟻のお仕事のお手伝いすらできなかった私。
現在は、食糧を持ち運ぶ働く蟻を目にした時には「今日もしっかり頑張れよ」と心で呟きながら、そっとその仕事ぶりを見守るだけの私である。
サボり蟻の仕事をしない理由については、それがはたしてズル賢い悪智恵なのか何なのか。
その真実は、きっと誰にも分からない。
◆◇◆
近年、働き蟻にも様々な役割分担があることが分かってきました。
新たな餌場を探す偵察蟻、力仕事を任される兵隊蟻、巣穴周辺の地理に詳しく方向音痴な仲間を導く誘導蟻、等々。
学者の中には「蟻は餌場までの歩数をカウントして距離を測る」というようなことを主張する人もいます。
蟻って意外と賢い生物なんだと思います。