第14話 ハエトリグモと家族愛
漫画の本を読んでいると、誌面上に極小の虫が現れた。ダニだろうか、と最初は思ったが、いや、この動きはダニではない。
なんだろう? ……と観察していると、ピョンッと前方に5cmほどの跳躍をした。
蚤か?
いや、違う。またちょこちょこと素早く歩き出した。私は実際に蚤を見たことはないが、きっと蚤は素早く歩き回りはしないだろう。
目を凝らしてよぉく観察してみた。
こ、これは!? 初めて見た!
ハエトリグモの赤ちゃんだ!
体長1mmのメガネザルのように見えるのは私の気のせいだろうか?
ゴマ粒より小さな身体なのに大きな目がキョロキョロとして、私的には超絶可愛ゆい。
暫しの間、このハエトリグモの赤ちゃんに魅かれるように見入ってしまった。
そして突然、ふと思った。
ハエトリグモの赤ちゃんがいるということは何処かに巣があるのではないか?
だが、ハエトリグモは徘徊性の蜘蛛で基本的に巣は作らない。
『ハエトリグモ 巣』とネット検索してみた。
分かったこと。
基本的に巣を作らないハエトリグモだが、産卵の時だけは袋状の巣を作り、その巣の中でさらに糸を袋状に小さく纏めて、卵をその中に包む、ということ。
そして、ここで私は一つの意外な事実を知ってしまった。
ハエトリグモは子育てをする蜘蛛だというのだ。
このことは中国科学院『Xishuangbanna熱帯植物園』のチェン・ツァンチー氏らによりScience誌に論文として発表された。
最初、学者たちはこの発見を困惑の事実として受けとめたという。かくいう私も驚いた。
ハエトリグモの母蜘蛛は母乳に相当する栄養素を含む体液を子蜘蛛に与えて育児をする。
20日ほどで一人立ちレベルになるが、子蜘蛛たちは自力で獲物を獲れるようになっても40日目くらいまでは巣に留まり、または巣に里帰りして、その間、母蜘蛛は子蜘蛛の世話面倒を見るという。巣の中ではハエトリグモの両親と複数の子供たちが棲むパターンもあるという。
では、私の部屋に出没したハエトリグモの住処は何処にあるのだろう。探してみようと思った。
だが、その前に。
まずはハエトリグモの赤ちゃんを安全な場所に移動させなければ。小さな身体だ。人間の住処は危険がいっぱいだ。
私はハエトリグモの赤ちゃんを踏まれる心配のない部屋の隅へと移動させた。そして、「立派に大きく元気に育てよ!」と声を掛けた。
それでは、ハエトリHomeの捜索開始だ。
今現在、私の部屋に巣を作る蜘蛛はいない。第1話で登場した律義な蜘蛛以来、網目の巣を作る一般的な蜘蛛は部屋に住み着かなくなった。
いちおう、あちらこちら探してみたが、やはり蜘蛛の巣は見当たらない。
現在の専らの蜘蛛たちの一等地はベランダだ。ベランダでは複数の種類の蜘蛛たちが好き勝手に暮らしている。
ベランダに出ると、足元に一匹の蜘蛛がいた。
何という種類の蜘蛛だろうか。一見、見た目はハエトリグモなのだが、体色は真っ黒で、しかもでっぷりと太っている。
のんびりと日向ぼっこでもしているのだろうか、私に動ずることもなく、足元で微動だにしない。
ここで私の心にちょっとばかりのいたずら心が湧いた。
そぉっと顔を近づけて、思いっきりプーッと息を吹き掛けてみた。身体の小さな蜘蛛にとっては突然の突風だ。
デブ蜘蛛はかなり驚いたのだろう。壁際まで猛ダッシュで避難移動して、慌てて壁を這い登ろうとして壁から転げ落ちた。すぐさま、また這い登ろうとして、再び転げ落ちた。僅か約2秒ほどの間に3回ほど転げ落ち、なんとか命からがらという感じで網戸の隙間に逃げ込んだ。
人が山でばったり熊に出会ったらきっとこんなふうになるんだろうな、というような慌てぶりだった。そんな姿がとても滑稽に見えて、私は思わず大笑いしてしまった。
私の個人的で勝手な結論。
『蜘蛛も驚けば慌てふためき腰を抜かす!』
いや、今はそんなことはどうでもいい。私は子蜘蛛を育てるハエトリグモの巣を探しているのだ。
だがとりあえず、先ほどの腰を抜かしたデブ蜘蛛がどんな顔をして隠れているのかと気になって、アルミサッシの網戸の隙間を覗いてみた。
その時だった。
あっ! あった!
ハエトリグモの巣だ!
網戸の隅に袋状のもやもやとした、分かりやすく例えるなら蚊帳のような、そんな立体的な巣があった。
巣の中には大豆の粒ほどの大きさに糸を纏めて作られた塊があった。きっとそれが卵なのだろう。
その糸の塊の隣には、母蜘蛛らしき一匹のハエトリグモの姿があった。
きっと、我が子が誕生する瞬間を心待ちにしているのだろう。何気に母蜘蛛の愛情を感じた気がした。
ハエトリグモの巣の発見ができて満足した私はそっと静かにその場を後にした。
一般的に虫たちの多くは様々なフェロモンを感じ取って行動をしている。
蜘蛛の場合はそのほとんどが視力が弱く、糸の巣の僅かな振動を感じ取って行動する。
だが、ハエトリグモは違う。私が思うに、ハエトリグモはちょっとだけ虫離れしている存在のように感じる。
人の住処に居候しているハエトリグモは人慣れしているためか、人を恐れない。
視力は人と同等と言われるほど良く、眼で見ることが行動の基準となっている。だから人ともよく目が合う。
妙に頭の良い蜘蛛だから、人と目が合うと何かを考えているような素振り見せたり、気になる物があると振り返ったりすることもある。
体毛に覆われている者が多く、家族単位で暮らしたり、母乳のようなもので子育てをしたり、まるで極小の哺乳動物のようだと感じる。
寿命が僅か一年と短いところがちょっと悲しい。
『虫に感情は無い』というのは一般の常識的な意見だし、学者たちの間でもその意見を持つ者が圧倒的多数派を占める。
だが、個人的に私は虫たちの振る舞いに様々な感情を感じてしまう。
特にハエトリグモは、観察するほどに多様な一面を見せてくれる。
きっと、そんなハエトリグモにはお互い相手を想い合うような家族愛があるのだろう。
そう私は勝手に思う。
私の部屋に唐突に現れたハエトリグモの赤ちゃん。
大きくなったらまたいつか、私の所に顔を見せにきてくれるのだろうか。
その時には、私はきっと、成長したハエトリ君を美味しい珈琲でもてなすことだろう。
◆◇◆
ハエトリグモの子蜘蛛の里帰り、雌の子蜘蛛は母蜘蛛に受け入れられるけど、雄の子蜘蛛は母蜘蛛のもとを訪れると追っ払われるそうです。
ハエトリグモ家族の間にも、きっと様々な事情があるのでしょう。
そう考えると、何だか面白く感じます。