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第8話 隻腕のミヤマクワガタ

 八月もあと残り二日という夏の終わりのことだった。

 私はミヤマクワガタを拾った。

 ミヤマクワガタが落ちていた。

 いや、そうじゃない。

 傷を負ったミヤマクワガタが私の暮らすアパートの部屋の前の階段に(うずくま)っていた。

 深夜の仕事帰りのことだった。


 体長6cmの立派な(おす)のミヤマクワガタだった。


 ミヤマクワガタは漢字で「深山鍬形」と書く。文字の通り、ミヤマクワガタは標高の高い山間部に、つまりは深い山に生息する(しゅ)だ。

 アパートの階段で拾っていいようなポピュラーなクワガタムシではない。


 森の昆虫の王と名高いカブトムシと互角に闘えるほどの、戦闘力とカリスマ性を持ったクワガタムシなのだ。


 私は何故か昔からクワガタムシをよく拾う。だが、ミヤマクワガタを拾ったのは今回が初めてだ。

 そもそも民家の軒先のような場所に落ちている虫ではない。


 彼は体長6cmの野生種の(オス)で、右前脚を欠損していた。

 私が拾い上げようとすると、逃げようとする。

 だが、前脚が片方だけではうまく前に進むこともできない。


 それでも必死に逃げようとする姿は、何かに怯えているように思えた。


 闘いに敗れてこんな人里まで逃げてきたのだろうか。

 それとも、野生動物に捕食されそうになったのだろうか。


 まぁ、事情はいい。私の部屋で(しば)しの休息を取ってくれればいい、そう思った。

 彼のことは「親分」と呼ぶことにした。

 私は親分を部屋に連れ帰った。


 私はクワガタムシの心の状態を推測する時は、いつも大顎(ハサミ)と触角の動きを参考にしている。その判断方法が正しいかどうかは定かではないが。


 親分は大顎(ハサミ)を力無げに閉じて、触角を引っ込めていた。

 怯えているようにも見えるし、警戒する姿にも見える。


 とりあえず、コーヒー牛乳を湿らせたティッシュをスチロールトレーに入れて、その上に親分を乗せた。


 親分はコーヒー牛乳を舐めようとはしない。

 只只(ただただ)、ずっと同じポーズで固まっている。


「一口舐めてくれれば美味しさが分かるのに」と思い、コーヒー牛乳に親分の頭を押し付けた。


 その瞬間、親分が怒った!


 上体を反らして大顎(ハサミ)をクワッと大きく広げた。

 凄い迫力だ。さすが、昆虫界のカリスマなだけのことはある。


 しかし、この勝負は私の勝ちだ。

 数秒後、親分は恐る恐るながらもコーヒー牛乳を舐めていた。

 さすがの親分もコーヒー牛乳の美味しさには勝てなかったようだ。


 親分がコーヒー牛乳を気に入ってくれたようなので、私はしばらく親分のことを放っておくことにした。


 20分ほどして親分を見ると、親分はコーヒー牛乳の湿ったティッシュを抱き枕のように丸めて、それに抱きつきながらコーヒー牛乳を舐めていた。


 ゴツくて(いか)つい顔をしているのに、その仕草は可愛らしい。

 触角も大きく広がって、だいぶリラックスできているようだ。


 私はこういった状態になったクワガタムシにちょっかいを出すのが大好きだ。


 触角を指でツンと(つつ)く。親分は困惑したような表情で触角を引っ込める。

 しかし、すぐにまた触角を広げるので、私は再びしつこく触角をツンと(つつ)く。 

 親分は触角を引っ込めたり広げたりを繰り返す。顔は迷惑そうに困惑しているが怒りはしない。

 どうやら私が好意を持って接していることを分かってもらえたようだ。


 しかし、交友の(とき)はほんの一時(いっとき)だ。お別れの(とき)はもう間近に迫っている。


 ミヤマクワガタの一生は短い。元々、短命の種で、成虫の命はその年の夏で終わってしまう。

 三日後はもう九月だ。夏が終わる。

 だから私は親分を部屋に引き留めようとは思わない。

 親分に残された時間は少ないのだ。


 「クワガタムシは夜行性で月の明かりを目印に夜空を飛ぶ」と何かで読んだことがある。

 ならば夜が明ける前に山に帰そう。夜空に月が輝いているうちに。


 そこで私はふと思った。

 親分は私のもてなしに満足してくれただろうか?


 親分を見ると、相変わらず親分はコーヒー牛乳付き抱き枕に抱きついている。

 まだ腹一杯にはならないのだろうか。

 もう少しだけそっとしておいてあげようか。


 そんなことを思ったその時。


 親分がピュゥゥゥッと勢いよくおしっこをした。

 どうやらお腹は満腹になったようだ。


 お別れの(とき)は来た。


 親分を抱き枕から引き離すことが気の毒に思えた私は、スチロールトレーごと親分を抱えて車で山に向かった。


 親分を帰すのは山奥でなくてはならない。人目に付く場所では、きっとすぐに子供たちに捕まってしまう。

 何故なら親分は山のカリスマなのだから。


 ここなら人が入り込むことは滅多にないだろう、と思える場所まで私は車を走らせた。そして、その場所で私は親分を草むらの中に放った。

 親分は抱き枕を抱えたまま、草むらの茂みの中に消えていった。


 達者に暮らすんだぞ、と願った。



 野生の自然界で生き抜くことは厳しいことだ。

 ましてや親分は隻腕だ。不便なことも多かろう。

 だが、命ある者はどんなに短命であっても、自由に、誇り高く、満足して生きるべきだ。


 そんなことを思った、夏の終わりの出来事だった。


◆◇◆


 クワガタムシには寿命の比較的長い種と短命の種がいます。

 ドルクス属と呼ばれる者は寿命が長いと言われ、オオクワガタ、コクワガタ、ヒラタクワガタなどが、このドルクス属になります。

 ノコギリクワガタ、ミヤマクワガタなどは残念ながら成虫の寿命は数ヶ月です。


挿絵(By みてみん)


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