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一〇〇〇日後に死ぬ母と、終末旅へ逝くギャル(あーし)03。

一〇〇〇日後に死ぬ母と、終末旅へ逝くギャル(あーし)03。


 あと、998日。旅立ち×再会


  神代。オノゴロ島湾内。

 張り詰めていた糸が、プツン、と切れたぁ?――いまのあーしはそんな気持ちだった。

(あ、あれ? はれ…? あーし…ど、どーなつたンだっけ…?)

 宮崎市上空に現れた金色の禍神は、天原とミコトの二人の会話など意にも介せず、ミコトの体を丸飲みにした…

 そこまでの出来事を思い出したあーしは、蘇った記憶に体が追いつくように、心臓が爆音を立てて早鐘を打った。今になって恐怖で全身から汗が噴き出した。

 あーしは恐る恐る自分の体へ視線を這わせ、「ァ…っ、はぁ~っ」と、体が無事だと分かって、ようやく安堵した。そして、周囲へゆっくりと顔を巡らせたその時――地面に座り込んだあーしの前で、空に輝いた眩しい太陽を背に、誰かがすっと屈んであーしの顔を覗き込んできた。

「なんだ、まだ寝ぼけてんのかぁ? がははっ。しっかりしろよなあ? みことっ♪」

 そう言って、地面に尻餅をつく「みこと」の腕を掴んで、太陽のように微笑むのは、神代のアマテラスだった…

「さっさと荷物を運び入れろ! 縄で固定をするのを忘れるな!」

「船内の掃除はまだ終わらないのか!?」

「ま、まって下さい! 客室に乗客の忘れ物がありましたー!」

 周囲は、デパートの初売りのような慌ただしさと、男たちの野太い声で大騒ぎだった。

「でも、でもでもても本当によかったですう! 島を出発する前に、またようせいさんに、でもまた会うことが出来て嬉しいいいい!! あはははははは♪」みことはあーしに会えた喜びを、そう言って爆発させた。

 前触れもなく、突然自分の体の内側から上がったあーしの声に驚いたみことは、その場で「うわあああああ!」と声を上げて派手に転んだ。そして、

 駆け寄るアマテラスに助け起こされたみことは、声の正体があーしと分かるや、みことはウサギみたいにぴょんぴょんとその場で飛び跳ねて、「嬉しい! 嬉しい! 嬉しっしいいぃ♪」と、歌を歌うようにみことは再会を喜んでくれた。

 オノゴロ島という場所は、島のどの場所に居ても、「波の音」が耳の底に微かに響いてくるような、海に寄り添った小島だった。そして、あーしとみことがいま立っている場所こそ、正にその「音」の真上――二本のマストが青空へ大きく突き出した、海岸に停泊した全長十八メートルの風帆船の上だった。

 船名は「空蝉丸」。オノゴロ島をはじめ、付近の島々の港へ現れては、人や、物や、情報や商いを各島に届けてくれる連絡船。

 船員たちは全員、お祭りで見かけるような七分丈の法被に、下は半ズボンのような丈の浅い着物を着、海上焼けした真っ黒い腕を腕まくりした逞しい船員が、甲板や船内を慌ただしく駆け回って、出港準備に追われている真っ最中だった。

 船長以下、船員の水夫が十名。風や波を操る専門の神様が二柱。それ以外の乗客約五十名は、オノゴロ島での滞在を終えた観光客がほとんどで、子供連れの家族や、次の島での売り物の値段の事で、しきりに情報交換している商人の姿も船内で見られた。

 船上でのそんな周囲の賑やかさも、これから広い世界へ旅立とうとするみことの好奇心を、ツンツンと指で触れるみたいに大いに刺激しまくった( ☆Д☆) キラーン!!

「あのね、あのね、あねのっ!――」と、また「あのね」攻撃をあーしに仕掛けてくるみことは、あーしが居ない間に起こったアレやコレやを、マシンガンのようにぶっ続けで嬉しそうに話し続けたし、

「すごいですのよな! あっ、今へんな言い方になっちゃいましたああ! あははっ♪ すごいのかな? 分かんなくなちゃいましたあああ! うへぇぇ~っ♪」と、頭で思っている事まで全部口に出して話してくれるみことの調子は、このままオノゴロ島の空へ浮き上がって、飛んで行ってしまうんじゃないかと思うほど、みことは終始浮かれた様子だった。

「みこと。荷物は私となんちゃんに任せて、みことは集まってくれたみんなに、挨拶をしてあげなよ」

 甲板に居るみことの元へやって来たアマテラスが、笑顔で話し掛けてくる。その後ろから陶芸家のタケミナカタもやって来て、二人は自分たちとみことの分の荷物を持って、また笑顔を浮かべて船内へ荷物を運んで行った。

(――ま、マジかコイツぅ…っ。神代のアマテラス、マジで別人説…ッッ!!)天原と同じ顔の、全く異なる態度を目の当たりにしたあーしは、驚きを通り越して鳥肌がった。

 みことは甲板を歩いて、手すりのある場所までやって来て眼下の浜を見下ろすと、海岸に広がる白い砂浜の上に、お祭りのような人だかりができている。みことの見送りに、島のほとんどの人や神様たちが集まって来ていた。

 砂浜には、天臨に通う、巫女服や着物を着たみことと同じ学生たちの姿がある。子供たちのその一団に混ざって、あーしにも見覚えのある顔を見つける――みことと初めて訪れた漁村で見た、神様の子供たちの姿だった。獣耳を生やした自分の頭の上で、子供たちが、船上で手を振るみことへ向かって笑顔で手を振っている。

 みことの見送りに浜に現れたのは、人や神様以外にも大勢あった。

 犬や猫、鹿や猪といった動物たちが、森から姿を現して浜に現れる。南国の眩しい光から生まれたような、赤や黄や蛍光色の派手な蝶々が、河のような群れとなって悠々と宙を泳ぐ。大きな翼の鳥たちが、船上から空を見上げるみことの頭上を、お城のダンスホールのように絢爛豪華に賑やかせる――オノゴロ島全体が、「みこと」という少女を送り出そうとしているかのような、錚々たる光景だった。

「……っ、ぅう…、み、みんなざァああああんンっ!!」

 周囲から送られる声援と、体が持ち上がるかのような愛情の嵐に、みことは感極まって、声を詰まらせた。口元へ手をやって、懸命に涙をこらえた。最後の最期まで笑顔でみんなとお別れをするために、舷側から滑り落ちるすれすれまで身を乗り出して、みことは全員へ向けて大きく手を振った――

 そんなみことの中で、様子をうかがうように、みことを注意深く観察していたあーしは、(このまま何もしなければ、この旅の先に待っているものは――みことの「死」だ…)

 現代で天原に聞かされた、この旅の果てに待つ恐るべきその結末(絶望)を回避するために、今の自分に何ができるのか? あーしは必死に考えを巡らせていた…

「みんなさあァあああんんんんんッッ、ありがとううう! ありがとおおおうううううう~~う~うううっ♪♪ わははははっ」

 浜に集まった全員へ手を振って、歌うように叫ぶみことのその嬉しそうな大声も、氷のように醒めたあーしの心へは、届いてこない――


(「運命の分かれ道」その真上に自分がいま立たされている事を自覚したことのある人は、どんな気持ちなンだろうか…?)

 その答えは――サウナの中に放り込まれたみたいに、喉はカラカラに乾き、体温はカッカと上昇し、そのクセ、頭の芯の部分だけ凍ったようにシンと静まり返っている…。

 運命の分かれ道に自分が立っている、と明確に自覚した途端、あーしの心と体は反対の方向へ別々に駆け出したみたいに、あーしは今にも頭がおかしくなりそうだった…!

 あーしは自分の気持ちを落ち着かせようと、これまでの出来事を整理する事にした…

 数千年、数万年という時を越えて、あーし「恵比寿ミコト」は、神代に生きる「みこと」という少女と出会った。そして、クラスメイトの「天原隠零」の、それまで知らなかった「アマテラス」という別の顔をあーしは知る事になった。

 この神代のみことの「死」を契機に、天原は永い間苦しみ、みことを死なせてしまった後悔を現代でも抱えている事を、あーしはみそぎ池で知った…

(やっぱし「今」しかないじゃン…! みことを死の運命から救って、そンで天原の未来の苦しみを消すためには――いま、今だぁぁッ、みことが旅に出る前の、今この瞬間しかないいい! あーしが今ここ(神代)に居る理由は、みことだけでなくてッ、天原の未来をも変える!――そのためなンだあああ!)

 そう自分を鼓舞するあーしは、「言え、言え!」と、心の中で自分を励まし続けた。「みことの旅を止めさせるしか、方法はないじゃん!」そう意を決したあーしは、

『ぁ、あのおおぅッ! み、みこ…みここここと! みこと…にィっ、大事な話が――!』


「やつぱり、来てくれませんでしたね――古那…」

『え……? へぇ…? こ、古那…? 古那ちゃんん…っ? ど、どどどうしてみことがその名前をっ――!?』胸の中の痞えが、ふと口から溢れたようなみことの呟きを耳にした瞬間、あーしは息が止まる思いだった。なぜなら――

 産霊日古那ちゃん。あーしが宮崎でお世話になっている家の、一人娘の小学生。あーしのよく知っているその名前をみことが口にした驚きで、声は喉に張り付き、「みこと、旅を辞めよう」と、一瞬前まで言おうとしていたその言葉は、あーしの舌の上で霧散した…

「古那は…古那は、今までわたしのことを育ててくれた、育ての親の神様なんのですん…」話を続けるみことの言葉へ、あーしはじっと耳を傾けた…

 古那。正しくは少名毘古那神。その神様が、みことの体を持ち上げてオノゴロ島へやって来たのは、みことが生まれて間もない赤ちゃんの頃。

 実は、オノゴロ島はみことの生みの親スセリ様の故郷だった。スセリ様は、みことと同じ天子の力を持った女性だった。生と死を行き来して復活を繰り返す別禍ツ神イザナミを、長い旅の果てに倒したスセリ様は、聖天子と呼ばれる一人だった。

(イザナミは復活を繰り返す…? 倒してもまた蘇るって事おおおッ!?)みことの話を聞いていたあーしは、その瞬間、頭を思い切り殴られたような強い衝撃を覚えた。

(だったら…それなら…ぁァ…っ、みことの旅に一体何の意味があるのおおっっ!?)ひたすらにみことの意図の理解できないあーしをよそに、みことの話は続く――

 スセリ様は、長い旅の果てにイザナミを倒した。中ツ国に一時の平和「聖の世」を届け、「聖天子」と呼ばれるようになった。スセリ様のその旅の仲間こそ、みことを育ててくれた古那という神様だった。

 少名毘古那神は、非常に珍しい神様だった。その体の大きさは、手のひらから零れ落ちてしまうほどの身長十五センチの神様。さながら、人形。フィギュア。一寸法師(実際、その昔話のモデルとなった神様。古事記では、大国主を助ける神様として、植物の殻で編んだ舟に乗って登場するという小ささだった)。

 そんな小人のような神様に育てられたみことは、蟻の表情を見て感情を読み取るように、古那の小さな顔に浮かんだ微小な表情の変化を、機敏に察知した。相手の醸し出す雰囲気や、周囲の者たちの「空気」といったものを感じ取る感受性を、みことは小さい頃から自然と身につけていったのだ。

 その古那が、自分より数十倍も大きな赤ちゃんのみことを両手で持ち上げ、船から降りてオノゴロ島の砂浜を古那が初めて踏んだ時――スセリ様がイザナミを倒した、という急報が、オノゴロ島へ舞い込んだ…。

「古那は、わたしのお母さん、お姉ちゃん、時々、可愛い妹や恋人みたいんに、わたしに甘えたりしてえ、愛情をいぃぱいに注いででわたしを育ててくれました。でも、古那は、わたしの旅には、反対だったんです…」

『…どう、して…?』と、あーし。

「だって古那は、知っていたですから…。天子の旅がどんなに過酷で、どんなに苦しいもののなのかを。古那は、わたし以上にいちばん一番近くで、スセリ様の姿を、見えてきた神様ひとだから…」

『…………………』あーしは言葉が出なかった…。

(親に等しいそんな大切な神様ひとに反対されながら、みことは今、この場所に立っている…)子犬みたいに無邪気で、普段は愛嬌に溢れた女の子。そのくせ、胸に秘めた決意の深さ…覚悟の重さに、あーしはただただみことに圧倒されていた。

「わたしが朝に起きた時には、もう古那の姿はありませんでした。もしかしてんと思って、来てみたですけど…やっぱり、見送りは、来てくれなかったですなぁ、古那…。ちゃんと、お別れ…したかったどすけれども…」

 潮風に遊ばれる自分の黒い髪を、子供用の手袋のような小さな手で押さえつけながら、「エへへ」と、甲板の上で屈託なく笑うみことは、酷く悲しそうに見えた。波もないのに、みことの足元に置いた荷物が、ひとりでに揺れた…。

『みことの運命を変える。みことの未来を変える。そのためにあーしは神代ここに居る!!』なんて、物語の主人公になったような使命感に、あーしは心の中で得意になっていた。自分へ与えられた「特別な役割」に、あーしはみことの事を忘れて、他人事のように胸を躍らせていた。けれど――

『ほんの一瞬前まで息巻いていた自分の「使命感」の、なんと空っぽな事かッ!』みことの力強い生き方や、周囲の人間を一途に想いやった考え方は、現代人のあーしのココロには、痛いほど深く深く突き刺さった。


  現代。みそぎ池。

「ィ…ぃぃtッ…ヤダ…ぁァあ…っいや、だ…嫌だ嫌だ嫌だ嫌ダイヤダアアアアアァア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ッッ!! またァアアッ!――またお前はそうやって私たちを置いて行くのかあァああッ、みことおお! ミコ…っミこト…ォオオオおおおおうわあああァアアみ”ゴど”ア”ア”ア”ア”ア”!!!」

 「偽物」「別物」――神代のみことと現代のミコトは、「チガウ」とさえはっきりと言い切っていた天原隠零は、二人の名前を一緒くたにして、大声で泣き叫んだ。

 みそぎ池上空に現れた二体の禍神に、天原の目の前で、ミコトは食われた――食べ残しのように空から落ちてきたミコトの片腕を抱いて、天原は地面に額を押し付けて、子供のようにイヤイヤと泣き続けるだけだった。

 天原は、別の時代の、別の人間として、これまで数度も転生を繰り返してきた――神代のみことがたった一人でイザナミを倒し、「聖天子」と世の人々にみことが尊称されるようになった、後の話だ。

 みことが命を懸けて遺した平和の世「聖の世」を守るために、その後の永遠とも思える時間の中、天原は、復活する穢れや禍神と終わりのない戦いに明け暮れた。

 神代の自分アマテラスの振るっていたかつての「力」と「記憶」。そして、転生を繰り返す天原が、いつも決まって持っていたもう一つの持ち物は――みことを見殺しにしてしまった、という、身を焼くような烈しい「後悔」…

 天原が、禍神たちの屍を数千数万体と並べても、禍神や穢れを視る事の出来ない普通の人々に、天原は感謝されることはない。それどころか、戦いの果てに禍神に敗れれば、名も知らぬ山中や、泥にまみれた道端で、天原は物乞い同然に蹲り、誰に看取られることなく、屍を晒して死んだ――そして次の瞬間には、胸を杭で撃たれるような烈しい「後悔」に飛び起きて、天原は次の時代へ転生した。

 禍神との終わりのない戦いの中へ、進んで自分の身を投げ入れるような天原のその後の人生は――数百…数千…数万体と積み上げた自分の屍の上を登って行くような、途轍もない地獄だった…

 その一方、天原に倒された禍神の流した穢れは、その上へ建てられた「町」自体を呑み込み、新たな禍神と化して、「町」が人間を襲うようになった。

「あーちゃん! あーちゃんんんっ♪」と、歌うように名前を呼ぶみことの声や、思い出の中のみことから、遠く離れた所(現代)まで来てしまった天原にとって、何よりも大事なものは、「過去(神代)」に置いてきたままだった。

 イザナミという大元凶を倒すために命を落とした、神代のみこと…

 その後の数千年、数万年という時を、機械的に禍神を処理(殺)し続けた天原隠零…

 両者のどちらが不幸という事ではない。

 ――どちらともが、救われなかった…

 そんな中でも天原は、信じていた。永遠に転生を繰り返す自分たちや禍神と同様に、「彼女」もまた、別の時代の、別の人間として生まれ変わる事を――(どれだけの年月が流れようと、逢いに行く…必ず逢いに行く…! みことに必ず辿り着く!!!)爪に火を灯すように、その微かな希望に縋って天原は数万回死に、その同じ数だけ、転生と、後悔と、絶望を繰り返して、そして現代――

「みこ…ト…っ。ミコ…っぉォお!――みコとおおおおオオオオォォうわぁああああああアアアアアアアア!!!」みそぎ池のほとりで、禍神の食べ残したミコトの片腕を抱える天原は、心が砕けたような滂沱の涙を流し続ける。


(ようやく逢えた! ようやく「みこと」と現代で再会したああ!)そう思った天原たちの「みこと」は、現代でギャルになっていた!!??

 恵比寿ミコト――と、名前が変わっていた。髪を明るく染めていた。派手な化粧もしていた。けれど、優しそうな眼差しや、笑った所の愛嬌のある表情は、天原の記憶の中にあるみことと瓜二つだった。

 宮崎の学校に通う女子高生のミコトが、神代の事はおろか、天原たち仲間の記憶を失っていると分かった時、天原は不思議と、「悲しい」という感情は抱かなかった。むしろ、

(それでいい…それがいい…。ミコトが幸せで、笑って暮らせているのなら)ミコト自身の過去や、穢れの事を知ることで、ミコトが神代の記憶を取り戻す事を、天原は恐れた。ミコトが再びイザナミへ挑み、そして殺される未来を、天原はなによりも恐怖した。

「ミコトとイザナミを戦わせては、絶対にダメだ…ッ!! そのためには――」

 天原隠零は、教室では全く存在感の無い置物のようなクラスメイトとして、ミコトに関わる事はしなかった(とはいえ、天原の目は、本人も意識せずにミコトの一挙手一投足を追いかけていた。好きな異性のように、天原の視線はどこに居てもミコトの事を追いかけ、その視線に気づいたミコトの方が、逆に天原の事を意識する(不審がる)ようになった)。

「もう一度だけ会いたい…。会って、みことに謝らなければならない…っ」

 その願い(憤怒)、その希望(絶望)、その理由(やり残し)だけを支えに、天原は数万度死に、数万度転生を繰り返したその果てに――

 ミコトの千切れた片腕を抱いて、みそぎ池のほとりで滂沱の涙を流す天原の心の中は、空っぽだった。「ミコト」という大切な相手を現代でも失い、溢れる涙と一緒に、生きる意味さえも天原の心の中から溶け出していた。

 竜のように空を泳ぐ金色の禍神が、子供のように声を上げて泣き叫ぶ天原の姿を、冷たい眼差しでじっと見下ろしている。

 泣き叫ぶ天原の心に、刀を手に取り、禍神と戦う意志は残されていなかった。というより、天原の心は、神代でみことが死んだ時から――すでに壊レている…

 ミコトを丸飲みにした禍神の体に、突然、異変が起こったのはその時だった。回遊するように空を泳ぐ禍神の胴長の腹が、風船を膨らませたように突然大きく膨れ上がった!

 さながら、細長い風船を使ったバルーンアートよろしく、禍神の腹部だけがどんどん膨れ上がり、気球のように大きく膨れ上がった禍神の腹部が、異変に気付いて涙目で顔を上げる天原の頭上を、二つ目の満月のように、禍神が覆い尽くした。そして、

 腹の中で暴れ回る腹痛にもだえ苦しむように、金色の禍神は、自身の頭の後ろまで、大顎を90度以上割る。断末魔のような咆哮を轟かせる。ホースのように長い喉奥から、白濁した泡を、沸騰したように盛んに吐き出す。そして、ぐんぐんと膨張し続ける自身の肉体に、着ている洋服が耐えきれなくなったみたいに――

 ミチミチぃィイ…っ、ぶちぶちぶぢぢぃ”ぃ”ぃ”イ”イ”ぃッゴキボキボギィィい”い”い”ッ!!!――禍神の骨が砕け、肉が裂け、血管が千切れ、皮膚がガムのように長く長く長く長く長く伸び、耳を覆いたくなるような不快音が、空から豪雨のように降り注いだ、次の瞬間だった。

 気球のように丸々と膨らんだ禍神の腹が、花火が打ち上がったかのような大音響を空に轟かせて、弾け飛んだ!!

 禍神の腹の中から、四方八方へ飛び散る大量の血と肉と、数億匹という蛆虫が、みそぎ池の水面へ、滝のように激しく降り注ぐ。

 白色や桃色、池の水面を涼しげな色で賑わせていた蓮の花たちは、禍神の臓物を頭からペンキのように被って、赤黒く汚染された。その泥のように濁った池の水面から、「ぷはぁああァっ!」と、水中から勢いよく天原が顔を突き出す。


 禍神の腹が、風船のように弾け飛んだその時。滝のように降り注ぐ黒い血肉と一緒に、禍神の腹から飛び出した小さな光が、水柱を上げて池の水面へ叩きつけられた。

 その刹那、池のほとりから姿を消した天原の代わりに、みそぎ池の水面に、新しい大きな波紋が広がった――

「ぷはぁああァっ!」と、天原が池の中から頭を突き出すと、水面に浮かぶ天原の頭上を、人影が鳥のように横切った。

 傘のように大きく広がった制服のスガート。そのスカートの内側で、薄紫のショーツのレースまで丸見えの、むっちりとした肉感的なお尻。鍛えられて引き締まった白い足の付け根――さながら幅跳び選手のように、それらの衝撃的な光景が、水面に浮かぶ天原の頭上を、緩やかな曲線を描いて跨ぎ越した。そして、金色の禍神の頬が、剃刀で斬られたようにパックリと切り裂かれた。獣のような禍神の咆哮が、市内に轟いた。

「なっ、なぁァッ、なんちゃん!?」天原は池の水面に浮かんだまま大声で叫んだ。

「あーちゃんッ! ミコトを連れて早く逃げてええ!!」池のほとりに着地し、水面に浮かぶ天原へ振り返る事なく叫んだのは、身の丈を越える大太刀を握る一人の少女。学校の図書室でミコトの前へ現れた――南方刀技だった。


 風船のように破裂した禍神の腹から飛び出してきたのは、ミコトだった。

 それを見た瞬間、天原は考えるより先に池へ飛び込んでいた。池の水面に叩きつけられ、汚泥のように濁った水中を沈んで行くミコトへ、天原は必死に腕を伸ばした。

 水面へ上がって来た天原の腕の中で、ミコトはぐったりと天を仰いだまま、人形のように瞼を閉じて動かなかった。

 そんな天原とミコトの二人の前へ現れた南方は、空へ飛び上がって禍神を斬りつけ、天原へ鞭を振り下ろすように「逃げろ!」と大声で叫ぶも、腕の中に抱えたミコトを青ざめた表情で見つめる天原の耳には、南方の声は届いていなかった。

 水面で岩のように固まる天原へ、怒ったように振り返った南方が、再び声を上げようと口を大きく開いたその瞬間――「あーちゃん」と叫ぼうとした「あ」の形で一時停止した南方の口から零れ落ちたのは、「ンあ”…ッ」という、息を飲む驚愕の音声だった。

 池の水面に浮かぶ天原の腕の中で、閉じていたミコトの瞼が、突然跳ね上がった!

 天を向くミコトの左目が、蒼白く輝き出す。その左目から噴き出した白い光が、空を覆う曇天を切り裂いて、宮崎市上空へ矢のように突き刺さる! すると、

 みそぎ池全体は鏡のように輝き出し、ミコトから発する光が、周囲に充満する穢れを消し去り、水面や水中に沈んだ禍神の血肉を、涼風が吹いたように光が洗い流したその時――天原と南方の二人は、目の前の見慣れた光景に驚愕した。

「じょ…ォぉお…っ、浄化の光…ぃぃィィッッ!!??」

 神代で共に旅をしていた時、天子みことが幾度となく見せた「浄化」の再現に――闇夜がはぎ取られるように、頭上に現れた鮮やかな青空を見上げて――天原と南方は、驚愕のあまり言葉を失った。そして、二人の心を揺さぶる衝撃は、続きがあった。

 まるで静止画のように、空を仰いだまま硬直する天原と南方を、青空に浮かぶ(現れた)小さな人影が、オノゴロ島の海のように蒼い双眸で、二人を言葉なく見つめて…


  神代。空蝉丸船上。

 海岸に集まった見送りの人々へ、船縁から身を乗り出して、元気に手を振るみことの様子を、あーしは当人の中で、身じろぎせずにじっと見つめていた…。

『未来の天原の為にも、みことに旅を諦めさせるしかない! けど――』イザナミは、倒されても復活を繰り返す。それを承知の上で旅立つ事を決意したみことへ、あーしはどんな言葉を掛けて旅を辞めさせればいいのか、あーしには分からなくなっていた。

 思い悩むあーしを置き去りにするように、出港準備は着実に進められた。マストをするすると登って行く水夫の手によって、畳まれていた船の帆が、乗客たちの頭上でパラシュートのように開かれる。オノゴロ島の真っ蒼な空を、洗い立てのシーツのように白い帆が、風を含んで雄大に泳ぐ様は、感動と同じくらいの焦りを、あーしの心の中へ影のように落としていた。そんな時だった。

「みぃぃィィいい~~ちゅわああああああああァアアあああ~~~んんンンン☆☆☆」

 すり鉢状に窪んだ湾内に、大砲をぶっ放したみたいな大声が轟き渡った。

『えッ? えぇっ!? な、なに? なにぃぃィィっ!?』

 声の主を探して、周囲を見回すあーしとみことの背後で、船内へ続く扉が大音を響かせて開かれた。アマテラスとタケミナカタの二人が、甲板へ転がるように飛び出してきた。二人は顔を空へ跳ね上げて、悲鳴のような大声で叫んだ。

「ウカぁあああ! お前かァアアアっ!」

「みこと、上だぁァ! 逃げろおおお!」

 燦燦と陽光が降り注ぐ中。太陽の光芒を翼のように背中に背負い、満面の笑みを顔中から溢れさせた人物が、空を見上げるあーしとみことの頭上へ降ってくるううう!――

「みーちゃんみーちゃんみぃぃいい~~ちゃんんンンっ☆☆」飛行機から飛び降りたように、空から落ちてきたその人物は、体全体でみことへ抱きつくなり、みことの首に両腕を回して豊満な胸を押し付け、猫みたいにペロリと舌を出して、みことの顔を洗うみたいに舌でぺろぺろと舐め始める。

「あわははっ、あははははっ♪ くすぐったぃい、くすぐったいですよぉお~♪」ザラザラとした相手の舌の感触に、みことは声を出してくすぐったそうに笑う。

 みことのその笑い声に気をよくした相手は、みことへ押し付けていたおっぱいをマシュマロのように弾ませて、小柄なみことの体を力いっぱい抱きしめた。

「み~ちゃんンン~~っ、大スキ大スッキいいぃぃ~~っ♪ 会いたかったよおおぉォ~っ☆」獣のようなその仕草。興奮してみことを押し倒さんばかりの勢い。そして、甘えるようにみことにしがみ付いたその人物のお尻の上で、竜巻そこのけにブンブン振り回している――金色の尻尾∪・ω・∪!!

『し、ししし尻尾ぽぽぽぉおおヲっっ!?』あーしは大声を出して驚いた。

 突如、空から降ってきてみことに抱きついた人物は、お尻の上にふわふわの綿毛のような尻尾を生やした新生物――いいや、神様だった!!


 よく見ると、その神様の頭の上には、はんぺんを二つ乗せたみたいな三角形の耳が生えている。二本の尻尾が二又に分かれている。左右の尻尾をプロペラみたいに振り回して、ともすると、このまま離陸して空へ飛んで行っちゃうンじゃないかとさえあーしは思えて――

『びぇええどぅぉオ”オ”オ”ーーッッ!!??』あーしはまた大声を出した。みことの両足が、甲板から本当に浮き上がっている事に驚いて ( ゜Д゜)!!??

 次の瞬間、みことの体は、釣り竿で釣り上げられたように一瞬で船のマストの上へ飛び上がった! みことを押さえようと飛び掛かったアマテラスとタケミナカタの二人が、甲板の上で折り重なって倒れる姿が、あーしとみことの眼下に広がっていた。

「クケケっ、イヒヒヒヒヒっ♪」と、魔女のような笑い方の若い女の声が、あーしとみことの背後から流れる。

 マ〇オのク〇パが、城のお姫様を連れ去るみたいに、みことの小柄な体を背後から抱きすくめ、そのまま二人でマストの上まで飛び上った狐耳の神様は、眼下の甲板で、人々が上を見上げて右往左往する光景を見下ろし、他人事のようにケタケタと笑っていた。

 みことを連れ去ったこの人騒がせな神様は――ウカ様。真名は豊宇気毘売神。

 三千世界にまで知れ渡った、「超」の付くほど有名な神様太陽神天照大御神。その御方に仕えて、御食事を用意していた神様が、このウカ様でした(その名は、天照大御神を祀る伊勢神宮の外宮に祀られる神様として、現代でも広く鳴り響いている)。そして、みことからは「ウカ様」という愛称で慕われている、みことの旅の仲間だった。

 みことを前にしたウカ様は、動物そのままだった∪・ω・∪

 捕まえた獲物を、安全な巣穴へ持ち帰ってゆっくりと一人で味わうみたく、空中へ飛び上ってマストの上に腰かけたウカ様は、大好物のみことを自分の膝の上にちょこんと座らせ、後ろから、ぎゅぅぅぅっ♪ とみことをぬいぐるみのように抱きしめた。

 ウカ様はみことの着物の隙間に顔や手を入れた。匂いを嗅いだ。舌を出して味わった。この神様――みことという獲物を、存分に味わい尽くす腹積もりのようだった。

 アマテラス。タケミナカタ。そしてウカ様と続く、みことの三人目の仲間の合流が出航ギリギリまで遅れたのには、理由があった。ウカ様は、オノゴロ島で特技を生かして始めた料理屋が美味しいと大繁盛し、今では旅館まで経営する女富商だった。

 そのウカ様が、みことの旅に付いて行くために店をたたむ、という事が伝わってからは、島の内外からその味を惜しんで沢山のお客さんが押し寄せた。

 ウカ様は、そんなお客さんの為に、一皿でも多く料理を作り、大人から子供から神様まで、大勢のお客さんの満面の笑顔が、店ののれんの下に提灯のように夜遅くまで灯っていたものだった。そして、ギリギリまで店を開けていたために合流が遅れた、という勤勉さも持ち合わせていたのだ。みことたちのウカ様は。

 とはいえ、店が超多忙で、みことと会えない間に角煮のように煮込みに煮込まれたみことへの恋慕が、ウカ様の心の鍋蓋を吹き飛ばした。本能丸出しの怪物のようにみことをさらい、ウカ様は、大衆が見上げる船のマストの上で、頬ずり、抱擁、キスの雨をみことへ降らせるに至ったのでした。

 秋風に揺れる金色の稲穂のような、山吹色の美しい髪。艶っぽい妖艶な表情。島で起こった面白い事を一つも聞き洩らさないとばかりに、頭の上でピンと立ち上がった大きな狐耳。本人(神)の気質を体現したみたいな、落ち着きなくお尻の上で絶えず揺れ動いている、ふわふわ綿毛のような尻尾が、なんとも可愛かった。

「あはぁァ~ンっ♪ み~ちゃんの味おいしぃよぉ~。もっとみ~ちゃん食べたいよぉ~。み~ちゃんみ~ちゃんみ~ちゃんんンっ☆ …ちゅ、ちゅぅぅ~…ぢゅボぽぽぽ~ッ♪」ウカ様は、甘えた声で喘いだ。みことの腕や胸に、何度も頬擦りした。タピオカを啜るみたく、ウカ様は舌なめずりしてみことへ唇を押し当て、その華奢な指や肌を口で吸った(味わった)。

 そして、みことはというと、そのくすぐったさに「どわァっははははは!」とウカ様の腕の中で豪快な笑い声を響かせる。

 少女のように天真爛漫。天衣無縫。空に掛かる虹を捕まえたみたいな、七色に輝く天の羽衣をまとって宙に浮かぶウカ様は、「天女」だった。気分屋の性格で落ち着きがなく、文字通り地に足がついていない。突拍子もない事をしては、いつも事件を巻き起こす人騒がせな神様――それがウカ様だった。

「俺たちのみこと様を返せええーっ!」

「ウカ様、早く降りてきなさい~~っ!」

「阿呆! 馬鹿! 駄女神! 頭の中まで浮かれてんなああ~っ!」

 海風に乗って、あーしの耳に聞こえてくる男女の罵声。声の方へ振り返った浜辺では、みことの見送りに集まった人々が、みことを独占するウカ様へ大声で怒っていた。

(愛されてンなァ~、みこと)その光景を見て、あーしは自分の事のように嬉しくなった。

 しかし、当の本人は批判の嵐などどこ吹く風で…

「ね~、み~ちゃん。私とも神婚してぇ~、ねぇ~ン♪ 絶対、絶対にっ気持ちよくするからァ~。お願いっ、先っちょだけで良いからぁ、み~ちゃん私と神婚しょぉっ☆」

(ななななンなのコノ神様あああァッッ!? すっごくイヤらしい事言い始めたんですけどぉ!)ウカ様の言葉の底に流れる、艶やかで、匂いたつような妖艶な口ぶりに、あーしは初めて生のHを見たみたく顔を真っ赤にした。

「ウカ様ぁ、よしよし~あははは♪」ウカ様の喉や、頭の上の大きな耳を掻いて撫でていたみことは、「ほらっ、取っておいでぇぇっ!」と、急に元気よく叫んだと思ったら、天子にとって大事な鉾を、なんとみことは――海へ放り投げる! そして、

 「神様」をペット扱いしたみことの行動に怒る事もせず、ウカ様は直ぐに飛び上がって空中でそれをキャッチすると、骨のように白い鉾を半ば口に咥えて、犬みたく猛スピードでマストの上に居るみことの前まで戻って来る。

「みこと、もっかい! もっかいやってぇぇえっ♪」ウカ様も、みことに遊んでもらえることが嬉しくて、二本の尻尾をぶんぶん振り回して、みことへ同じ事をリクエストした。

 やがて、みこととの遊びに大満足したウカ様は、自分からみことと一緒にマストの上から降りてきた。

 湾内の風を掴まえた白い帆が、あーしたちの頭上でマントのように大きく膨らんだ。穏やかな海の水面を蹴って、船は別れを惜しむようにゆっくりと桟橋を離れた。

 すると、船の後方。見送りに集まった集団の中から、一人が飛び出した。船を追いかけて砂浜を激走し、勢いよく海へ飛び込んだ。ばしゃばしゃと膝まで海水に浸かって、その人物は船へ向かって大声で叫んだ。

「みことおおおおおぉぉォオオオオオおおおおおおおおおおおおッッッッ!!!」

 みことは船上で弾かれたように振り返った。船の欄干へ飛びついた。身を乗り出すような勢いで、みことは浜へ向かって大声で叫んだ。

「宇受売様あああああああァァアアアアアあ”あ”あ”あ”あ”ッッッ!!!」


 全身全霊で叫んだ。その勢いで、みことは船の欄干から落ちそうになった。

 アマテラス、タケミナカタ、ウカ様が、三方から風のように飛んでくる。みことを支える三人の視界の中で、海へ飛び込んで大声で叫ぶのは、天宇受売様だった。

 宇受売様は波をかき分けて、胸の上まで海水に浸かった。船上の人となるみことへ、押し寄せる波を蹴飛ばすような大声で、宇受売様は怒鳴った。

「みことおおおおおオオォォ~~ッッ! 天子の旅なんてええッ、辞めたくなったら、いつでも辞めていいんだからなあああああアアアアアアアアアあああッッッ!!!」

 うわっぷ! という声を残して、高波に飲まれた宇受売様が海面から姿を消す。

「宇受売様あああッッ!」身を乗り出して叫ぶみことの視界の中を、金や藍色、紅色の鮮やかな着物と帯が、海面を昆布のように漂う。

 やがて、海面から顔を突き出して現れた宇受売様の姿は、いつもの姿――生まれたままの素っ裸。頭まで海水を被り、興奮して桜色に染まった白い肌に、濡れた長い黒髪を張り付けた宇受売様の姿は、天へも昇るような美しさった…!

「みことおおお!! 天子の役目だけが、みことの生きる道じゃないいいい!!」

 天子は、イザナミを倒す為に存在する――そう考えられていた風潮の中では、宇受売様のその言葉は、異端だった。

 人生についても、知識や神楽についても、自分の持つ全てをみことに分け与えたその師は、押し寄せる大波に大きな乳房を揉まれながら、みことへ向かって最後の教えを説いた。

「みことが絶対にイザナミを倒さなくちゃいけないなんて事は、ないんだああッ! 辞めたくなったら、旅も、天子も辞めて――誰か好きな奴を見つけてえええぇ! 自分の好きなように自由に生きなああッ! 先生わたしのようになあああァアアア!!!」

 ザブザブと海へ入る。宇受売先生のその両目が、涙で濡れているように見える。海水のせいかもしれない。けれど、先生の白い胸の上へ、顔から滝のような水滴が流れ続ける。

「みことおおおお! 必ず、必ず島へ帰ってこい! いつか必ず帰ってこいいい!! 私はッ、この島はあああッ、お前たち全員が帰ってくるのを、待っているんだから! ずぅぅぅぅぅぅうううううううううううううううう~~~ッッと待っているんだからぬわァあああああああアアアアア!!! どわァアア~~ッはっはっはっは♪♪」

「おやめ下さい! おやめ下さい! どうか後生ですからああっ! 宇受売様ぁ!」

 全裸の宇受売様を追って、後から後から海へ飛び込む宇受売隊の少女たち。

 少女らに羽交い絞めにされながら、天を震わせるような高笑いを発する宇受売様。

 何度も、何度も、船上で喉が枯れるほど師の名前を叫び続けるみこと。

 オノゴロ島の海岸が、砂粒ほどに小さくなる。順風に背を押された船が、ゆっくりと湾を出る。船が外海へ漕ぎだした後も、爽やかな島風に乗って聞こえてくる、泣き声とも、笑い声ともつかない宇受売様の大笑は、島の美しい景色と共に、みことの心にいつまでもいつまでも鳴り響き続けた――

「どわァアア~~ッはっはっはっは♪♪」


 少しずつ…少しずつ…景色の奥へ後退して小さくなってゆくオノゴロの島影を、みことは船後方の欄干にフジツボのように張り付いたまま、じいっと見つめていた…

「みーちゃん、みーちゃんん! 見て見てぇえっ、こっち見ちぇぇ~っ☆ ほらっ、エアウォーク。エア背尾泳ぎ。エアサぁぁ~~フィンっ♪」空中で手足を動かして、足踏み。空中で寝そべって、水車のように両腕を回す。立ち上がった体を横向きに変えて、空中で器用に波乗りの真似をするウカ様。

「あはははだっははははっ♪ ウカ様凄い凄い! お上手ううぅ~♪」みことはそれを見て、顔の前で両手を叩いて喜んだ。

 みことの関心を惹きたくて、みことの視界の中へ飛び込んできて明るい声を出すウカ様が、みことを励まそうとしているのは、誰の目にも明らかだった。

「ウカ様、そんなにお上手なのですから、みんなさんからお金を貰えるかもしれませんね!」

「エへへっ☆ やったー! お金だぁ~い好き。みーちゃんも笑ってくれたー♪ やっぱり、みーちゃんは笑っている時の方が一番可愛いんじゃァ~っ☆」

 同性でも思わず惹き込まれてしまうようなみことの笑顔に、ウカ様は自分が励まそうとしていたことも忘れて、みことに抱きつく。長いモフモフの尻尾をマフラーのようにみことの腕や首に巻き付けて、ウカ様は子狐のようにみことの腕の中で甘え始めた。

 普段であれば、アマテラスとタケミナカタの二人は、ウカ様を制止する側。アイドルの握手会の「剥がし」よろしく、暴走しがちなウカ様の首根っこを掴まえて、みことから引き剥がすのが二人の役目だった。けれど――この時ばかりは、アマテラスとタケミナカタは、心が癒される思いだった。子供のように甘えるウカ様の頭を撫でながら、ころころと笑うみことの無邪気な笑顔に、後ろで見ていた二人の心は少しだけ軽くなった。

「あははははっ。ウカ様、お返しですうぅ~っ! がぶがぶがぁァ~♪」

「キャァああ~っ☆ み~ちゃんに耳噛まれたァ~、もっと噛んでぇえ~っ♪」

 互いに悪戯を仕掛け合う二人の無邪気な笑い声に、船の他の乗客も笑顔になる。動物に触りに集まるみたく、乗客の子供たち数人が、みことに抱きついたウカ様の尻尾へ顔を埋めて、モフり始める。

(嘘みたいだし…。この旅で、みことが死ぬなんて…)船の甲板の上で、みことを中心に広がった沢山のひとの笑顔、笑顔、笑顔の噴水を見つめながら、あーしはそんなことを考えていた。その時だった――

 船上の音が突然消えた…

 風。波音。笑い声。世界中が、息を飲んだかのような静寂に包まれる。

 乗客や船員が息を飲む。みことは真っ青な顔で彼方の海へ振り返る。みことの視線を追って顔を向けた遠くの海に、インクが落ちたような黒いシミが、ぽつりと浮かんでいる…

 その日の正午。近隣の島で木こりをしていた男は、眼前の光景に戦慄した。

 それまで穏やかだった空が、突然真っ黒い雲に覆われた。海がひっくり返ったかのように荒れ狂った。大量の生物の死骸が海岸線を埋め尽くした。その同時刻――

 みことたちを乗せた船の上空を、突然、蓋を落としたような暗雲が覆った。

 金棒でかき混ぜるかのように、海が激しくうねり始めた。振り子のように、船は左右へ激しく海面を滑った。ぎぃぎぃ! ミシミシ! と船が引き裂かれるような音がそこらじゅうから降り注ぎ、船内の柱や壁にしがみ付く乗客たちは、恐怖に色を変えて悲鳴を上げた。

 船内へ続く大扉が、バーンッ! と、内側から爆破したような大音を響かせて開け放たれたのはその時だった。屈強な大男が、転がるように甲板へ飛び出してきて叫んだ。

「イザナミだあああああああああアアアアァア”ア”ア”ア”ッッッッ!!!」

 次の瞬間、船の数倍もある大波が壁のように立ち上がり、巨大な大波が、船の正面へコンクリートの塊のように圧し掛かる!!


「待って! 待って、待ってくれええ~~っっ!」と、女性の叫ぶ声。

 みことたちを乗せた船がオノゴロ島を出港する直前、ちょっとした出来事があった。浜辺に集まった見送りの人たちをかき分けて、大人の男女の旅行者が、桟橋を慌ただしく踏み鳴らして船へ飛び乗ってきた。

 踏み板を蹴って軽やかに船へ飛び乗る女性の後に続いて、丸太のように太い足を上げて、大風呂敷を背中に担いだ男性が、舷側を跨ぎ越そうとした次の瞬間、

「あっ!」と躓いてバランスを崩し、男性が背中に担いでいた風呂敷が宙を舞った。

 ――ガラガラドカァッッ! と、積み木をばら撒いたような大きな音を立てて、風呂敷の中にくるまれていた大量の物が、甲板の上へ雨のように降り注いだ。

「バカっ、何やってんだい!」と、相方の女性に尻を叩かれるように怒鳴られる倒れた男性は、甲板中に散らばった物を急いでかき集める。そんな二人の姿に、その場に居合わせた十人ほどの乗客乗員は、甲板にしゃがんで協力して物を拾い集めた。そんな中、

「――スセリ様…」みことは自分の足元をじっと見て呟いた。

『え? みこと?』ため息に似たみことの呟きに、あーしは様子を窺うように声を出した。

 甲板を四方八方に散らばって、みことの足先まで転がって来たソレは、オノゴロ島出身の聖天子(イザナミを倒した天子の事)みことの母でもある「スセリ様」をかたどった、島の土産の人形だった。足元から自分の娘を見上げるスセリ様人形を拾い上げたみことは、手の中の人形を見つめたまま、動かなくなった。

『にしても、ずいぶん買い込んだなぁ…』甲板上を落ち葉のように覆う大量のスセリ様人形を見渡して、あーしはそんな感想を口にした。

 木彫りや粘土、板金や毛糸で編んだぬいぐるみのような人形。果ては「スセリ様」という名前だけとってつけられた饅頭や食品類。「スセリ様」の名を冠するありとあらゆるお土産を、全コンプリートしたかのような量と数だった。

『もしかして、好きなのかな? その像の人?』

 スセリ様人形や、食品の包装等、「傷や凹んだ所はない!?」と、一つ一つ穴が開くほど凝視しながらお土産を拾い集める男女の二人の姿に、その時のあーしは、みことの中でぼんやりとそんなことを思っていた…。


 大砲を撃ち鳴らすような大声で「イザナミ」の名を叫んだのは、スセリ様のお土産を大量に買い込んでいた、旅行者の男性だった。

 穏やかな船旅が続くと思っていた。誰もがそう信じて疑わなかった。出港するみことらを祝福するように、色とりどりの魚たちが、船の横を飛び跳ねていた。しかし、宝石のように青く澄み渡った海は、出航から数分後――その表情を一変させた。

 ミキサーでかき混ぜられたかのように海は荒れ狂った。夜のような闇が天を厚く覆った。船はオモチャのように荒波に揉まれ、暴漢に襲われたように、船内の壁や天井に乗客は体を打ち付けた。血が流れた。乗客も乗員も手すりや柱に噛みつくようにしがみ付いて、船内は轟々たる悲鳴に包まれた。

 嵐を幾度も潜り抜けてきた玄人の船員が、船が大きく斜めに傾いた拍子に、海へ放り出される。他の船員が、助けようと荒海へ飛び込もうとする。それを、周りの仲間数人が懸命に押さえつける――

 卵のように丸い無数の目が、海面でぎょろりと動いた…!

 まるで汚泥のように濁った海面を見下ろして、船員たちは戦慄した。何百、何千という数の禍神に、船は完全に囲まれている…! トマトをすり潰したような血が、ぶしゃぁっと海面を真っ赤に染め上げる…

『みこと、前ッ! 前、前っ、前前前まえええエエエェェッッ!!』あーしはみことの中で大声で叫んだ。船の背を越える大波が、壁のように正面に立ち塞がった!

 アマテラス、タケミナカタ、ウカ様の三人が、咄嗟に同じ行動をとる――大波の衝撃に備えて、三人はみことを庇うように覆いかぶさる。

(もうぅぅううッッダメだァあ”あ”あ”あ”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ッッtっ!!!!)あーしはみことの中で頭を抱えて蹲った。その次の瞬間――


『……ぁ…、はれ…ぇぇェ…っ?』あーしは拍子抜けしたような声を出した。

 春の暖かな日差しが頬を撫でるように、柔らかな光と風が、船全体を優しく包み込んでいた。突然、船の揺れは嘘のように止んでいた…

 甲板にしゃがんでいたみことは、船の欄干を掴んでふらふらと立ち上がった。雲に開いた天窓のような、雲間から真っ直ぐに差し込む陽光を見上げたまま、あーしとみことの二人は、体の震えを止めることが出来なかった…。

「ぁ…ァあ…っ、あれは…」

『アレはっっ――!?』

 みこととあーしの二人は、指差すように空の同じものを見上げて声を出した。

 雲間から降り注ぐ一条の光の中。双肩から金色の翼を生やし、長い尾を泳ぐようにくねらせる一人の女性が、光の道を翔け上がるようにするすると天へ昇って行く…


「オラァあッ、怪我人はとっとと船内で寝ていろおお!」「まだ扉は開かないのかい!?」「こんな事態だ。動ける奴は客だろうと何だろうと手伝ってもらうよ!」「ほらッ、そこぉ! どいたどいたああァっ!」手下の尻を強かに蹴り上げる、女海賊のような威勢のいい声が、船の甲板に何度も響いた。

 今現在、空蝉丸は磨かれた鏡のように穏やかな海上を漂流していた。

 船のマストは、高波と強風に襲われて根元からボッキリと折れた。甲板上を横断するように倒れたマストが、船橋を押しつぶした。船長をはじめ数人の船員が、その中にいまも取り残され、未だ連絡が取れないといった惨憺たる状況だった。

 屈強な船員や、集められた乗客の男衆がマストの周りに群がり、血膨れた風船のように顔中を真っ赤にして、船橋からマストを持ち上げようと男たちは悪戦格闘していた。

 遂に持ち上がるマストが、「いっせいの、せッ!!」という合図で海へ投げ落とされる。ドーン! と、海に激しい水飛沫が上がる。全員が手を叩いて喜びを分かち合う中、甲板に雷のような罵声を落としていた女性の足が如才なく蹴り上がり、

「いつまでも喜んでんじゃねェっ! さっさとこの海域を抜けるんだ。ほらっ、働けえ!」女性の足に鞭のように尻を打たれた男衆は、蜘蛛の子散らすように散らばって行った。

『お、おい…みこと? 何する気だよ…?』

 段ボールのように拉げた船橋の扉を、こじ開けようとする者。怪我人に手を貸す者。再出発へ向けて、壊れた船の個所や備品を点検する者――三三五五まとまって、乗客も乗員も船上で忙しく動き回る中、あーしの声もよそに、みことは吸い寄せられるように甲板を歩いて行き、その人物の前で足を揃えて立ち止まった…。

「あ、あのぉォっ! お話…お話をささせていただいてもよろしいでせうかッ!?」

 緊張した様子でみことが声を掛けた人物は、船長不在の代理として、傷ついた空蝉丸を切り回し、乗客や船員へ的確に指示を飛ばしていた「女海賊」といった風格の女性。そしてその人物こそ、出航間際に船へ飛び込んできた、男女の旅行者の相方の女性だった。

 みことは相手の女性の顔を見上げたまま、真剣な表情で足を半歩踏み出した。

「あなたさんは――いいえ…あなたさまも、わたしと同じ「天子」なのんですね!」


 よく見ると、光の薄膜が、あーしたちの乗る船の周囲を柔らかく包み込んでいた。

 さながらシャボン玉の中に包まれているようなその空間内は、春のような暖かな光に溢れていた。まるで夢の空間に居るかのような安心感に船は包まれていた。ところが、薄さ数ミリの極薄の光の膜の外は、空を墨で塗り潰したかのような嵐のど真ん中…!

 風浪なお高く、血管のように赤い稲妻が天を翔け、稲光が轟音と共に海へ突き刺さる。海面を覆う禍神は、船を襲う機会を猛獣のように虎視眈々と待ち構えており、禍神がサーフィンのように高波に乗って船へ飛び移ろうとした次の瞬間、禍神たちはガラスの上の水滴のように、光の薄膜にぶつかって、その表面を滑り落ちた…。

 周囲の大気や、海中に満ちる悪意、敵意、無数の殺意から――(あーしたち全員は、この光の薄膜に守られている…っ)あーしは目の前の光景に息を飲んだ。

「わわたにも、どうかあなた様のお手伝いをさせてくださいませぇぇえっ!」


 甲板で忙しく動き回る女性の前に立って、みことは頭を下げて繰り返し懇願した。

 この日、みことが船上で出会ったのは、オノゴロ島とは別の島からやって来た「クラオカミ」という名前の女性の天子だった。

 天子――その人間が世に発生する時、花弁のように小さな手の平の内に、魚の小骨のような小さな刃を握りしめて、母の胎内から産まれてくる。

 この不思議な刃は、子供の成長に合わせて分身のように自身も背を伸ばし、形状を変え、見違えるほど刃を太くし、汚泥に穴を穿つ聖なる槍へと成長し、禍神や穢れを一突きに滅ぼした――それが「天の沼鉾」。イザナミを刺滅せしめる天の刃。

 クラオカミが背中に担いでいた天の沼鉾は、青龍刀のように刃幅が人の胴ほどもある、見るだけで相手に畏怖を抱かせる形状をしていた。クラオカミは、鋭く光る眼で、みことの背負う歪な形状の鉾を見て、「ふんっ」と関心のなさそうな鼻息を吐いた。

「あっ! 自己紹介がまだでじゅだああ! わたくしゃわッ――うぅ~、言えないぃ…っ、わわわしはッ、ホロゴロ島からやって来ましたみこととととと言いましゅうぅッッ!!」みことは、口から発した全単語で噛んだ。何を言っているのか分からない。ドタバタと落ち着かない様子のみことに、あーしは驚いた。

『お、おい…っ、落ち着けって、みこと。どうしたんだし? 舌がバカ過ぎて何喋ってンのか全然分かンねェぞw』これほどポンコツなみことを、あーしは初めて見る。

 みことは、アイドルの握手会に来たファンみたいに、クラオカミと会話も出来ないほどガチガチに緊張しているらしかった。

 それもそのはず、みことの育った「オノゴロ島」という場所が特殊だった。島に居る天子は、みこと一人だけだった。それ以前に居た天子は、スセリ様だった。

 スセリ様が聖天子になったことで、島の辻や町のあちこちに、スセリ様の像が建てられた。幼い日のみことは、その像を見上げて、初めて母の顔を知った。

 そんな理由で、他の天子というだけでなく、旅の途中の天子――しかも、自分より遥かに多くの研鑚を積んだ先輩天子に出会えた事は、これが初めてだったみことは、憧れの先輩に会ったような緊張と喜びの入り混じった、高揚した気持ちに包まれていた。

「姉さん! こっちは終わったよ! 次はどうする――って、どうかした?」

 みこととクラオカミが話している横合いから、大声で駆け寄ってきたのは、船の出航前、お土産のスセリ様の像を甲板にばら撒いていた当人。「イザナミ」の名前を叫んで、船内へ続く扉から飛び出してきた大柄な男性だった。

 男の名前は「クラミツハ」。頑強そうな顎を持った四角い顔に、筋肉で隆起した丸太のように太い腕。尾根のように広い背中の、全体的に「岩」のような印象の屈強な男性だった。

 そして、目をキラキラと輝かせるみことが、憧れに似た熱い視線を注いで見上げていたクラオカミは、旅焼けした浅黒い肌に、南国の太陽を凝縮したようなキラキラと輝く大きな黒目をした、野性的な美しいプロポーションの大人の女性だった。

 二人は、天子と真守(天子の守護者)として、中ツ国を旅する姉弟だった。

 姉のクラオカミはみことの方を見て、

「私はクラオカミ。この図体のデカいのが、弟のクラミツハ。貴船の天子よ」話はこれで終わりと言う風に、クラオカミはそれっきり顔を横に向ける。しかし、理知的な光に濡れたクラオカミの黒玉の瞳だけは、みことの全身をスキャンするように、顔…胸…足…、とみことの体の上で視線が動き続ける。

(このBBA…なンかカンジ悪いし…っ)

(ようせいさんッ、ちがうですよ。だって、お忙しい時に声を掛けてしまったのは、だってわたしの方なのですん。わたしがいけないんだす――あっ、「です」です。わははっ♪)

 値踏みするような視線で、不躾に見つめてくるクラオカミの態度に不満を口にするあーしへ、みことは、「善意」が擬人化したかのような相変わらずの天使。

「お呼び止めしまって、ごめんなさいです。でもどうしても、でも感謝を言いたかったんのです。この船のみんなさんを助けていただいて、ありがとうございますでしたあ!」みことはそう言って、クラオカミへ深々と頭を垂れる。

 みことたちの乗る船が、為す術なく大波に飲み込まれるというその刹那――みこととあーしが見た、翼を生やした女性が天へ昇って行く光景は、幻などではなかった。

 目の前のこのクラオカミが、天子の力を使った。巨大津波や禍神から、船を守ってくれた。しかも、クラオカミのその守護の力は今なお続いている…!

 船全体を包む、クラオカミの光の薄膜を見つめながら、その事をあーしに話してくれたみことは――(推しのアイドルの事を話す学校の同級生みたいに、嬉しそうだった。可愛かった。みことがクラオカミへ憧れの目を向けるのも、あーしは頷けた)

「クラオカミ様。わたしにも、あなたのお手伝いをささせてほしいですっ!」再び頭を下げるみこと。「お願いますです!」と真剣な言葉を重ねる。

 華奢で手折れそうな、頭を垂れたみことの細いうなじを見下ろしながら、クラオカミはゆっくりと口を開いた…

「悪いけれど、あなたの助けは必要ないわ。自分自身さえ守れない天子に、他人を守れるとは思えないから…」クラオカミは言い切った。泥のような黒い穢れに覆われた、みことの左目、胸、右足を、卑しいものを見るような目で見つめながら。

「ふざけぇッ――ふざけンなァアアアア”ア”ア”!!」クラクションをけたたましく鳴らしたトラックが突っ込んできたかのように、甲板を踏み鳴らす激しい音と怒鳴り声が、みこととクラオカミの間へ飛び込んで来た。

「この傷は…みことのこの傷はなあァアアっ――チィィッ! 何も知らないクセにみことを悪く言うんじゃねェええええええッッ!!」そう叫ぶのはアマテラスだった…。

「あーちゃん、あーちゃんっ!」みことは、クラオカミへ飛び掛からんばかりのアマテラスの腕を掴んで、強引に二人を引き離す。

 そうこうして揉み合っている間に、クラオカミはアマテラスの叫びを無視して、みことへ背を向けて立ち去った。最後にみことを一瞥したクラオカミは、悔しみを込めたその言葉を置いて――

「やはりお前は、あの御方とは違う…。私の知っている最強のあの天子は――」


「あのクソBBAァアア…ッ! みことよりほんのちょっと先に旅しているからって、偉そうに先輩面しやがって…っ! 言い方が嫌らしいんだよッ、小姑かってのっっ!!」

「助けは必要ない」クラオカミにそう言い切られたみことは、船内へ降りて来ていた。

 甲板でクラオカミの言葉を聞いていたアマテラスは、興奮して今も怒りが治まらない様子だったし、怒りをぶつけるように船内の床をドカドカと踏み鳴らして、みことの周りを足音荒く歩き回っている。

「はあァ~ンっ、み~ちゃん可愛そう~。私がみ~ちゃんを慰めてあげるウカ~っ☆ よしよし、ばぶばぶぅ~♪ ママのおっぱい吸ってみちゃウカっ?」宙に浮いて、羽根のようにみことの周囲を漂うウカ様は、自身の豊満なおっぱいを、みことの口元へ持ち上げる。小柄なみことを、ウカ様は自分の体全部を使って慰める。

「み~ちゃんみ~ちゃんっ♪ もっと慰めたげるぅ~、でへへへへ~」人形のように艶やかなみことの髪へ、恍惚とした表情で頬ずりするウカ様の姿に、

『お前が甘えたいだけだろうっ!』と、みことの中からも、ミコトの鋭いツッコミの声が跳ね上がる。

 クラオカミに協力を拒まれたみことは、どこまで天使なのか――クラオカミに激怒するアマテラスを、みことは笑わせ、オーガズムに達しそうな、だらしのない恍惚の表情を浮かべるウカ様の尻尾を撫でて、みことは気持ち良くさせてあげた。そして、

「くっ、くふふぷっ♪ 今日もみんな仲良くていい事ね!」と、観覧席で一人眺めているみたく、みこととアマテラス、ウカ様の三人のやりとりを離れて見ていたタケミナカタは、船内の通路の壁にもたれ掛かって、喉を鳴らして愉快そうに笑っていた。

 船内は幾つかの部屋に分かれていた。どの部屋も怪我をした乗客や乗員で溢れていた。

 クラオカミには協力を拒まれた。けれど、みことは自分に出来ることまで諦めてはいなかった。怪我をして寝ている人や、羽根の折れた神様の脇へ膝を寄せて、みことは治療の手伝いに忙しく船内を走り回った。

「天子様…私たちはこれからどうなるのでしょうか?」

「イザナミは、イザナミはどうなったのです!?」

「天子様まで降りてきて、(船の)上は大丈夫なのですか?」

 動ける者は少しでも情報を得ようと、怪我を押してみことの回りへ集まって来るも、

「分からない」「わたし自身、不要と言われて船内へやって来ました」とは、事情を知るアマテラスたちやみこと自身、言葉にすることは出来なかった…。かわりにみことが口にしたのは、

「大丈夫ですんっ! みんなさん安心してください! 天子のクラオカミさんが、船とみんなさんを今も守って下さっていますです! でもイザナミから逃げるために、でも動ける方のお力をお借りするかもしれんますから、その時のまで、みんなさんは、どうか安心して休んでいてください」

 天子は人々の希望――それは、「イザナミを倒す者」という意味だけではなかった。

 天子様が居るから。天子様が旅をしているから――いつ、どこで、家族や親しい人が禍神に殺され、自分自身が禍神になるかも分からない不安の中でも、人々が挫ける事なく今日を生きてこられたのは――万人の心の中に、天子という「希望」が灯っているから。

 昨日の悲しみと、明日への絶望を、「天子」の存在が灯となって心の中から追い出し、人々はその温もりに手をかざして、今日を生きる希望を繋いでいた…

 クラオカミに指摘された、自分の実力不足。それを痛感して落ち込みそうになる表情に、みことは精一杯の笑顔を被った。こんな時だからこそ、周囲の人々へ、みことは安心と希望を精一杯振りまいた。たとえ、自分にはそれしか出来ないとしても。

「おうよっ、みこと様! その時はいくらでも力を貸すぜぇ!」

「おねえちゃん、ぼくもぼくもっ! ぼくもてつだううー♪」

「はい! 皆さんで力を合わせて一緒に乗り越えましょう! ねえっ、みこと様!」

 口々にそう言って励まし合う乗客みんなの声と、笑顔に、涙が溢れるほどの勇気と元気をもらったのは、みことの方だった…

「はい! はいはいはいいいいい♪ みんなさん一緒にお家へ帰りましょううう!!」

 乗客らに笑顔でそう応えるみことの姿を、近寄りがたい様子で遠くから見つめて、普段の姿からは想像出来ない程暗い表情を浮かべていたのは、アマテラスだった。

(クラオカミに言われた事は、腸が煮えくり返る程悔しい。けれど――)自分のせいでみことが手伝いを断られた事が、アマテラスには何よりも辛い事だった…。

「あ、あいつは!?」その時、ふいに持ち上げたアマテラスの視界の中で、みことへ近づいて話し掛ける男の姿があった。

 負傷者の腕を持って包帯を巻いていたアマテラスは、患者の腕を床へ落とした。患者は床から飛び上るほど痛がった。男に連れ出されるみことの姿を視線で追いかけるアマテラスは、仲間の二人へ目配せをして、その場から駆け出した。

 みことと相手の男を追って船内を走るアマテラスの中で、不安が急速に膨らんで行くのを、アマテラス自身感じていた。

「あいつは――弟のクラミツハ…。みことに一体何の用だ…っ!?」


 船内の人気のない廊下の端までみことを連れ出したクラミツハは、振り返った。

「余計な心配を掛けまいと、君一人へ声を掛けのだけれど…どうやら、失敗だったようだ。君たち全員へ、きちんと声を掛けるべきだったね」

 あーしとみことは、そこで気が付いた。振り返った背後に、アマテラス、タケミナカタ、ウカ様が息を切らせて殺到した。三人はみことを守るように、クラミツハの前に立ち塞がった。

 クラミツハは、岩にナイフで傷をつけたように目が細かった。クラミツハが笑うと、目が糸のように潰れてなくなる、愛嬌のある笑い方をした。

 息の合ったみことの仲間の様子を見て、クラミツハは目を細めて快活に笑った。

「みこと、お前さんは立派だよ。なにせ、俺がお前さんと同じ十三、四の頃なんて、何も考えずに飯を食って、遊んで、疲れたら寝ていたようなただの子供だった。お前くらいのその年で、天子として旅に出るなんて、俺には想像も出来なかった」クラミツハは秘密を打ち明けるみたいに、たっぷりと笑みを含んだ目で、みことたち全員を見回した。

「うちの天子様。クラオカミ大明神様だって、俺と同じようなものなんだぜ? 今でこそ、さっきみたいに周りに指示を飛ばして人を動かしていたけれど、昔は酷かった。弟の俺を自分の所有物みたいに使い走りにしてくれた、鬼ヵ島の鬼みたいな姉ちゃんだったんだ」

「想像できるかい?」と、笑いながらみことへ問いかけるクラミツハへ、あーしとみことは、ぷるぷると首を横に振る。

 その素直な反応を見て、クラミツハは「あはは」と声に出して人懐っこく笑った。

「けれどある日、俺たち姉弟の運命は変わった。みこと…お前が自分の左目を犠牲に、背負ったものと同じように、な…。その姉弟は――ある天子様に命を救われたんだ」

 ――誰だと思う?

 少年のような表情でそう問いかけるクラミツハへ、「分からない」と首を横に振ったみことは、思いがけず自分のルーツに出会うことになった。

「聖天子スセリ様――ミコト、お前の母ちゃんだ…」


「クラミツハ、いつまでサボっていやがる! さっさと来てこっちを手伝ええッ!」

 クラミツハの話す昔話が終わった頃。甲板に居るお姉さんの雷のような怒号が、船内に居るみこととクラミツハの耳まで轟いた。

「ハイ、ハイ、ハイよ、いま行きますよーっと! ったく、弟使いの荒い天子様だぜ」クラミツハはぼやきながら甲板に上がろうと、踵を返して階段へ足を掻けたところで、

「あ、あのうっ、クラミツハさんん!」

『み、みこと?』

 みことはクラミツハの大きな背中を呼び止めた。あーしは突然のその大声に驚いた。

 クラミツハは、階段に片足を掛けたまま振り返った。自分を真っ直ぐに見つめるみことの目に宿る「答え」を見て取って、クラミツハは例の細い目で笑った。

「返事は一回ぃいッ!! やっと出て来たなクラミツハ! いままで何をやって――」船内から現れる弟を振り返って見たクラオカミは、弟の背中から現れたみことの姿を認めて、「お前は――」と、声にならない声で唇を小さく動かし、

「ちぇ…っ、愚弟のくせに…。人手が足りていないんだ。クラミツハ、お前には千人分は働いてもらうよ!」

 弟の仕業に苛立ちつつも、「帰れ!」と、クラオカミがみことに言う事はなかった。

『確かに、口が悪いのは元々の性格ねw それに素直じゃないトコロも♪』

 あーしのぼやきがクラミツハの耳にも届いたみたいに、みこととクラミツハの二人は互いに見つめて、クラオカミの後ろで、訳知り顔でくすくすと笑い合った(>∀<) !!

 大股で先を行くクラオカミとクラミツハの先輩二人の背中を、みことは跳ねるように足を上げて追いかけた。


「な…ッッなァああああっ、なん…ダ…っ、なんだあれはァあああアアア!!??」残った副マストの上に登って、遠くの海へ目を光らせていた船員が突然悲鳴を上げた。

 次の瞬間、海全体が巨大な生き物のように蠢く嵐の彼方で、死神がタクトを振り上げたように、一本の光柱が海上に立ち上がった!

 死んだように止む嵐。どよめく船内。張り詰める空気。そして、歯の根が噛み合わないほどガチガチと歯を鳴らし、全身から滝のような冷や汗を噴き出す二人の天子。

 天上を貫くように海上から上がった光の柱は、花が咲くように先端が割れてゆっくりと横へ広がると、彼方の海上へ、差し渡し数十キロに及ぶ巨大な光の花を咲かせた。

 すると、暗雲に覆われていた空は、夜明けのような烈光に包まれた。海上に咲いた光の花の中心部から、種子が飛散するように光の粒子が舞い上がった。見上げた空を星々のような満天の輝きで満たした光の粒は、中ツ国全土へ、無数の流星となって降り注いだ。

 まるで真っ昼間の天体ショーを見ているかのように、青空の上を滑る無数の光のシャワーが、あーしたちの乗る船の左方へ流れる。甲板にいた人々が、一斉に船の左舷へ駆け寄る。海の彼方に望む島の頂へ、光が弧を描いて落ちt――次の瞬間だった。

 船が横転するかのような衝撃と爆風。目の前が真っ白に塗り潰されるほどの閃光と大爆発が、海上を嵐のように駆け抜けた。

 やがて激しい揺れがおさまると、倒れてぶつけた腰を押さえながら、よろよろと立ち上がる乗客が船上から目にしたものは――

「…ぃ、ぃ…や…ぁァっ、イヤァアアアあああああああッッ!!」

「終わり、だ…ぁァ…っ。この世の終わりだァアアア”ア”ア”ア”!!」

 真っ赤に燃える炎の海と、海の見せる蜃気楼のように、跡形なく消滅した島の残影が、口々に叫ぶ乗客たちの視界に飛び込んで来た…!

 この日、中ツ国全土へ降り注いだのは、死の流星だった。イザナミから放たれ、光の尾を引いて空を滑り降りる流星は、破壊の矢となって地上へ無数に降り注いだ。

 海が割れた。大地が砕けた。森が燃えた。瞬きをするその刹那の内に、数十万人もの人間と神様の命が、一瞬で消し飛んだ。

 あーしとみことの頭上を、死の流星雨が縦横無尽に天を切り裂く。そのたびに、水平線が、カッと燃え上がる。血を噴き出したように真っ赤に輝く海の彼方から、人々や神々の慟哭や悲鳴が、あーしたちの脳へ直接響いて来るかのような地獄絵図だった。

 船内は、人々のすすり泣く声や、阿鼻叫喚の悲鳴に包まれた。故郷の島や、恋人を置いてきた町や村のある方角を見つめて、泣き叫ぶ人々の声で船内は騒然となった。

 一方的な殺戮。未曾有の大災厄。船上からソレを凝然と見つめるみこととクラオカミは、怪物の腕に顎を掴まれたように、真っ赤に燃える海の彼方に浮かんだ――死を凝縮したような黒い塊から、二人は目を離すことが出来ない…


 ソノ者の黒い姿は、「生物」かどうかさえ判然としなかった…

 禍々しい黒霧を羽衣のようにその身にまとい、黄泉の水を浴びたように、肉がドロドロに溶けて腐敗した背を海から突出させる、恐るべき大神――

『あ…ァあ…っ、あぁア…ッぁァaがあ”ア”…ッ! アレ、が…ァぁ…っ――!』

「別禍ツ神イザナミぃいいいいいいいいいッッッッッ!!!!!」と、クラオカミ。

 あーしは呼吸の仕方を忘れたかのように、その名を口にする事自体、体が拒絶しているかのようだった。口の中が砂漠になったように乾き、細い管で息をしているかのような息苦しさが、あーしの喉にまとわりついてずっと離れなかった。

 その時、甲板に居た全員が、はっと天を仰いだ。太陽が落ちてきたかのような眩い光が、辺りを包み込んだ。世界中に死をばら撒く流星が、あーしたちの乗る空蝉丸の上へ舞い降りt――


「生きてええええええええええええぇェエエエエエエエエッッッ!!!」

 その強烈な叫び声が、とある姉弟の運命を一変させた。

 一年の半分以上、しとしとと雨が降り続け、歩く足元から、いつもぴちゃぴちゃと水溜りを叩く小気味よい雨音の聞こえてくるキフネという島を、突如イザナミが襲った。

 その日も、花弁のような光が全天を覆った。死の流星雨が、中ツ国へ降り注いだ。

 キフネの島の上空に、厚く垂れこめていた雨雲を切り裂いて降り注いだ流星は、島の山を砕いた。町を焼いた。雨水を貯蔵する人工湖を決壊させた。

 人工湖から溢れ出した大量の水は、濁流となって下流の村々や畑を怪物のように飲み込み、天から降り注ぐ光の矢から逃れようと、震える肩を寄せ合って家屋に隠れる人々を、不気味な地響きを轟かせる濁流が、もろとも建物を押し潰した…

 島のいたる所で、一瞬一瞬命が奪い去られた。人も、神も、逃れる術は無かった。押し寄せる巨大な死のエネルギーに握り潰されるように、島は音を立てて海へ沈み始めた。

 死と、絶望と、逃げ惑う人々の悲鳴が、キフネの地に豪雨のように降りしきる中、その姉弟は、絶望に取り憑かれたように破壊された町の中で立ち尽くし、死が自分たちを迎えに来るのを待つほかなかった。多くの島民を連れ去った死の流星が、姉弟の頭上を眩い光で包み込み――享年十八歳。クラオカミの人生は、そこで終わるはずだった…

「生きてええええええええええええェエエエエエエエエッッッ!!!」

 頬を張られたような強烈なその叫び声が、人生を畳むように目を閉じるクラオカミを覚醒させた。

 ハッと目を開けた姉弟の目に飛び込んできたのは、どう見てもクラオカミより年下の――弟と同い年程の小さな少女が、天から降り注ぐ流星へ両手を突き出し、全身でぶつかるように、イザナミのまき散らす絶対の「死」に抗おうとする衝撃の光景だった。

 姉弟の前に立ち塞いだ少女は、菊の花ように折れそうな細足で、地面に踏ん張った。前へ突き出した少女の腕の皮が、ビニールのように裂けた。見ていられない程の大量の出血で、全身を自分の血で真っ赤に染めるその少女は、小さな背を蕾のようにぐっと縮めて、最凶最悪の死のエネルギーを跳ね返そうと、決死の想いで抗い続けていた。それが――後に天才聖天子として世に語られるスセリ様を、姉弟が初めて見た瞬間だった…

 空蝉丸の船内へわざわざ降りてきて、その時の昔話を、みことや仲間たちの前で披露する弟のクラミツハは、当時の事を、辛そうに…苦しそうに…、でも、どこか夢見るような憧れの表情で語ってくれたのだった。

 スセリ様の姿を初めて見た瞬間、恐ろしい程残酷で、衝撃的で、極彩色の光に包まれた美しいその光景を、姉弟は産まれて初めて目を開いた赤子のように、生涯忘れる事はしなかった。「だからさっ」と、クラミツハは人懐っこい笑みを綻ばせてみことを見た。

「姉ちゃんの憧れの人で、命の恩人で、アイドルなんだ。スセリ様は」クラミツハは、自分もそうだという風に、誇らしげにみことへ語った…。

 イザナミの放った光が、空蝉丸の上空に太陽のように輝いた次の瞬間、クラオカミは矢のように空へ飛び上がった!

「みことぉォオオッ、生きろおおおおおおおおおおおおおおおおォオオオオオオオオオオオオ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”!!!!」


 双肩から金色の翼を生やし、天の沼鉾を両手で携え、稲妻のように空へ翔け上がったクラオカミは、イザナミの恐るべき攻撃を、全身でぶつかるように受け止めた。そして、

「クラオカミさんッ、クラオカミさんッッ無茶ですうううううッッッッ!!!」

 夜明けのように白々と明けた空へ、もがくように両腕を突き出し、クラオカミの名前を連呼するみことにかまうことなく、弟クラミツハはみことの小さな体と荷物を軽々と肩に担ぎ上げると、甲板を疾風のように駆け抜けた。既にアマテラスたちを押し込んでいた救命艇の中へ、クラミツハはみことの体をボールのように投げ入れた――

 クラミツハの丸太のように太い腕を離れ――救命艇の中で、網のように腕を広げた仲間たちの元へ、みことが落ちて行く一、二秒の間に視界に飛び込んで来た光景が、まるで走馬灯のように、あーしとみことの頭の中を猛烈な速さで駆け抜けた…。

  ある者は、諦めて甲板に座り込み、

  ある者は、絶望と狂気に囚われて発狂し、

  ある者は、恋人と抱き合って最期の時をじっと待ち、

  またある者は、家族を守ろうと妻子を連れて船内へ逃げ込み…

「ぐはぁァッ!」とみことは肺が潰れたような息を吐いた。仲間の腕の中に背中から落ちた。みことは救命艇の中で体を跳ね起こした。

「クラミツハさんんんんんッッ!!」救命艇の縁を掴んで、懸命に伸ばしたみことの腕の先で、

 ――ブチンっ…! と、救命艇を船の舷側に固定していた縄が、クラミツハの振り下ろした刃物によって断ち切られた。

 ガラガラと音を立てて縄が滑車を滑り落ちる。みこととあーし、アマテラスとタケミナカタとウカ様の五人を乗せた救命艇は、勢いよく海の掌の中へ叩きつけられる。


「クラオカミさんが、スセリ様に…命を助けられた…」

 「スセリ様」みことは自分の母親の事を、いつもそう呼んだ。

 イザナミを倒した聖天子として、天臨の祭壇に祀られた石像でしか母の顔を知らないみことにとって、見上げたソレ(石像)を「母」と呼ぶことは、言葉がのどに詰まったみたいに、みことにはどうしても出来なかった。

 憧れで、目標で、命の恩人でもあるスセリ様の生まれ故郷の島を、どうしても自分たちの目で見ておきたいという二人の長年の夢のために、姉弟でオノゴロ島へやって来たのだと、クラミツハは船内の廊下でみことへ話してくれた。

「あの頃の子供のままなんだ、姉ちゃんはさっ♪」クラミツハは、姉の秘密をバラすみたいに愉快そうに笑う。

「大好きで…大大大好きで、スセリ様は憧れの人だから、その娘のお前にだけは、姉ちゃんは絶対に負けたくないんだ」

「え…? でも、どうして…?」みことには本当に分からない。

 実力も、経験も、全てにおいてクラオカミはみことを上回っている。(それなのにどうして――)「負けたくないだなんて…。わたしは、そんなこと…」

「どわァっはははは! 別に良いんだよ、別にぃ。姉ちゃんが勝手に思い込んでる事なんだから。それに――くくくっ、こんな恥ずかしい事を考えているだなんて、本人にはとても話せないだろうし♪ あの時…イザナミのまき散らす絶望に呑まれて、生きることを諦めていたあの時、命を助けられた姉弟は、「こんなに立派になったんだゾっ!」て、認めて欲しいんだ。俺も、姉ちゃんも…」

「「認めて欲しい」ってスセリ様はもう居ないのに…一体誰に――」と、言いかけたみことは、真っ直ぐに自分を見つめるクラミツハの真摯な目に気付いて、

「え…、わた、し…? 「わたし」ですん…?」みことは、驚きの表情で自分を指差す。

 その瞬間、この姉弟が今まで積み上げてきた想いや、人生、考え方が、弾けるような表情で破顔するクラミツハの目を通して、体の中へ流れ込んでくる感覚にみことは包まれた。

「グラミヅハざァあああアア”ア”ア”ア”ア”ン”ン”ン”ン”ッッッ!!!!」

 救命艇から懸命に腕を突き出し、喉が張り裂けんばかりに絶叫するみことの目の前で、船内で話した時と同じ笑みを向けるクラミツハの笑顔は、周囲を真っ白に染め上げる光の中で、溶けるように消滅しt…――


 目が覚めた…。救命艇の中でみことが体を起こした時、みこととあーしたちを乗せていた空蝉丸は、海上から消滅していた…

 空蝉丸から切り離され、救命艇が勢いよく海面に叩きつけられた衝撃で、みことは強かに頭をぶつけた。少しの間気を失っていた。あーちゃん、なんちゃん、ウカ様の心配する三つの顔が、目を覚ましたみことを囲むように見下ろしていた。

 再起動した体の各部位の動きを確かめるように、みことはゆっくりとした動きで周囲を見回した…。

 血だまりのように海に広がった、破けた船の帆や、折れたマスト。誰かの衣服や、船に積み込まれていた山のような貨物。動物のあばら骨のように海面から突き出し、波飛沫にさらされた、砕けた船の竜骨。コンコン…と時折、みことたちを乗せた救命艇の船腹をノックする音を響かせる、海面だけでなく海中にまで沈んだ無数の船の残骸…。

(…ひどい…ぃィ…っ)周囲を見回すあーしは、思わずその言葉を呑み込んだ。

 救命艇の舟縁を掴んで周囲を見回すみことの指に、ぐっと力がこもった。心配する仲間の声も耳に入らない程、みことは海へ身を乗り出して皿のように目を見開いた。

「…う、嘘…ぅぅッ嘘だあああ…ッ!!」海上のその一点に視線を掴まれたみことは、金縛りに掛けられたように動けなくなった。

 櫓のように海面に積み重なった瓦礫の下。人骨のような白い柄をのぞかせて波を浴びていたソレは――「クら…ォぉ…っラオカミぁァアアアアアアあああんんん!!!!」

 瓦礫に覆われ、救命艇に乗る五人以外の生命の気配の掻き消えた海上に、みことの慟哭が鳴り響いた。海面に浮かぶ「クラオカミの天の沼鉾」を見つめたまま、みことは矢で射られたように胸を強く強く押さえて、頬を伝う落涙で舟縁を濡らした。

 気が付くと、海面に浮かぶ瓦礫に埋もれるように、無数の死骸が海に浮いていた…。

 次の島での積荷の売値について、相方と真剣に話していた商人。怪我をした乗客を頼もしい言葉で励まして、治療してくれた船医の女性。船内で手伝いに奔走してみことへ、「ありがとう! みことさまがんばって!」と太陽のような弾ける笑顔で励ましてくれた子供たち。そして、庇うように抱き締めた両親の腕の中で、飛んできた木片に親子もろとも背中を串刺しに貫かれた――悲痛な表情のまま波に顔を洗われる一家の凄惨な死体を前に、みことは全身の血が足の裏から流れ出たかのような、凄まじい喪失感に襲われたのだった。

(あーしはまだ、信じられなかった…)数分前まで同じ船、同じ場所に居た。言葉を交わしていた――クラオカミたちが、自分たち五人を除いて、全員死んだ…。

 救命艇の舟底に両手をつき、背中を震わせて泣き崩れるみことの前で、クラオカミの天の沼鉾は、その役目を終えたように、ゆっくりと海中へ沈んで行った…

 双肩から翼を生やし、竜神の姿へ変身したクラオカミは、船の真上へ飛び上がってイザナミの攻撃を受け止めた。そして、極彩色の光の中で、クラオカミが溶けるように消えてゆく最後の光景が、片眼しかないみことの目に焼き付いたように、頭から離れなかった。

(わた…わたしが…ぁァっ、希望を壊してしまった…)舟底に穴が空いたかのように、流したみことの涙で、舟の中に水溜まりが広がって行く。


 みことの心は、嵐のような激しい後悔の中に居た。

 責任感の強さと、思いやりの深さの為に、どうにもならない後悔が壁のように目の前に立ち上がって、みことは指一本動かすことが出来なかった。

 実力と経験を兼ね備え、誰よりも「死」の重量の意味を知るクラオカミであれば、本当になれたかもしれなかったのだ――イザナミを倒す「聖天子」に。

 スセリ様の隣に並び立つ聖天子になれたかもしれない。イザナミを倒せたかもしれない。聖の世を世界に届けることが出来たかもしれなかったのだ――クラオカミなら!

(クラオカミさんを信じていたみんなさんの希望だけでなく、そんな世界の希望まで、わたしは、壊してしまった…)

 イザナミの上空に開いた死の大花は、みことが悲しみと後悔に嬲られている間にも、中ツ国全土へ、死の雨を降らせ続けている。

『そんなに辛くて…悲しいのなら、旅を止めたっていいんだよ…?』後悔に押し潰されて蹲るみことの姿を、本人の心の中で見つめていたあーしは、震えるみことの肩へ手を置いて、そう声を掛けることも出来た。

 そうすれば、みことの命は助かる。旅の果てに、みことはイザナミ殺されずにすむ。全てあーしの思惑通り。あーしも現代の天原も、それを望んでいる。

(――けど…ぉォ…っ!)肩を震わせるみことへ、「諦める」という一言を掛ける事が、あーしはどうしても――…っ!

「どうして…どうしてわたしに「生きろ」だなんて…っ。くぅう…っ生き残るなら、クラオカミさんの方だったのに…ぃィ…っ」自分で自分の胸を突き刺すような言葉を吐き捨てるミコトへ、

「ふざくんなァアアアッッ、みことォオオオオ!! だったらぁアアッ――だったらおいたちはどうなるッッ!? みことなら出来る。他ならぬ、おまんにだから自分たちの未来を託せると思った、おいたちのその想いはどうなるうううッッ!!!!」激怒するタケミナカタの手が、みことの肩を掴んで、強引にみことの顔を起き上がらせる。

「クラオカミや、親切にしてくれみんなの死の焼きついたお前の目には、いまッ、助けを求めている者たちの姿は映っていないのかッ!? オノゴロ島の天子みことおおお!!」

 抜き身の刀で斬りかかるかのように叫ぶタケミナカタの声は、直接向けられたみことだけでなく、その横に居る他の仲間の胸にも鋭く突き刺さった。

 タケミナカタの言葉に、アマテラスは歯を食いしばった。逃げるように顔を反らした。何かを堪えるように拳を握りしめた。アマテラスは――みことの旅に反対だった。

「みことが旅に出る必要はない」「イザナミを倒すなんて、他の天子にやらせればいい」「平和な島の中で、みことは自分たちと一緒に居ればいい」

 アマテラスはみことへそう言い続けていたし、力のあるクラオカミさえ一瞬で殺してしまうイザナミと、みことに戦って欲しくなかった。

 アマテラスがこの旅について来た理由も、道中の危険からみことを遠ざけるため。みことが旅を止めると言うなら、それが一番良い事だと、アマテラスはそう考えていた――今のこの惨状を、目の当たりにするまでは…

 オノゴロ島での平和が、どれほどの奇跡に恵まれていたのか、アマテラスは思い知った。(それでも…それでもォお…ッ! 私はみことにだけは死んで欲しくない…ッ!)

 天子を守る役目である、同じ「真守」でも、アマテラスとタケミナカタの二人の考えは、太陽と月ほどにも遠かった。

 ウカ様は、みことの旅に反対でも賛成でもない。みことが旅を続けたいというなら、全力でその支えになる。辞めたいというなら、周りが何と言おうと全力で旅をみことから引き離す。みことの味方であり続けることが、ウカ様の願いだった。

 かつてこの世界を創造した特別な神様「別天神」のような達観した目で、ウカ様は、互いに互いを想い合った三人の出す答えを、じっと見つめていた…。

 タケミナカタが口を開く。

「みこと…自分の役目を果たせ」

「役、目…?」クラオカミの死や、乗客乗員全員の死が立て続けに押し寄せ、泥沼のように混濁した頭に投げ込まれたタケミナカタの言葉が、みことに考える力を再び呼び起こさせた。

  イザナミと戦う事? 穢れを浄化する事? 

  それとも、クラオカミさんのように誰かを守って、そして死ぬこと? 

  それが天子の役目? だとしたら――天子ほど呪われた存在は無い…

 人々の希望のよすがとして立ち上がる事を生まれながら宿命付けられ、それ以外の生き方を知らない天子たち。その者たちの流したおびただしい量の血と、肉と、骨の上に、今の中ツ国の平安は成り立っている。(けれど――天子だけが知らない。自分の守った平和の色(世界)を。だって、イザナミを倒した時に、わたしたち天子はもう…)

「「天子」は、みことが望んでなったものではないだろう」とタケミナカタ。「でも、イザナミを滅ぼして、中ツ国に永遠の聖の世を届けると願ったのは、みこと自身だ」

 自分の信じた天子と共に歩き続ける。天子の進む路を切り開く剣としての役目。それが、タケミナカタが天子みことへ託した、自分の夢でもあった。タケミナカタは続ける。

「みこと…お前は託されたのではないのか? クラオカミに、クラミツハに、そして、スセリ様に――「生きろ」と…!!!」

 絶望と後悔の檻に、みことを閉じ込めていた壁が、パーン! とガラスのように砕け散ったのは、その瞬間だった。

 目が醒めたように、みことの視界が一気に開けた。洪水のように自身の内側へ流れ込む光の中で、みことはクラオカミの背中を見つけた。クラミツハの笑顔もあった。そして、その姉弟の背中を通して――みことは生まれて初めて、物言わぬ島の像以外のスセリ様の生きた背中(姿)を、みことは初めて目にした気がした。

 救命艇の狭い舟の中で、みことはゆらりと立ち上がる…

 タケミナカタの顔を見る。アマテラスの顔を見る。

 ウカ様の顔を見る。苦悩に表情を刻まれたあーしの顔を視た。

 四人を見つめるみことの顔に、迷いは無い。

 みことは舟の舳先へ向かって歩き出す。導かれるように四人へ振り返るみことの目に、美しく輝いたその碧い島が飛び込んでくる。

「みんなさんの故郷は――オノゴロ島は、わたしが守るんですうううッッ!!」

 その瞬間、雄々しく叫んだみことの全身から溢れた浄化の光が、白い矢のように空を翔け上がって天へ突き刺さる。


  注がれる血×力。


(人間? 神様? それとも、天災のようなこの世界の生んだ現象システム?)

「別禍ツ神イザナミ」――その存在について、中ツ国に生きる誰も、正確な答えを持ち合わせていなかった。当時分かっていた事は、イザナミが一度その巨体を持ち上げれば、百の島が滅び、千の命が掻き消え、世界中に万の禍神の大軍が押し寄せるという、天災級の大怪物という事だけだった。

 そして、それに挑むという事は、星や、宇宙や、神々さえ逃れられない絶対的な「死」に抗うに等しかった。

 イザナミを倒す旅を続ける天子に、中ツ国の人々や、神々が、言葉では言い尽くせない感謝と、明日を生きる勇気と希望を貰ったのは、当然の事だった。

 道中で穢れに飲まれ、禍神へ堕ちた数多の真守や、人心を乱す恐るべき禍神。それと戦う英雄然とした天子たちの姿は、季節のように時代が幾つ移り変わっても、人々の間で連綿と語り継がれ、暗闇に光を灯すように、生きとし生ける全ての者の心の中に、「天子」は輝き続けた。

 そんな語り継がれる天子たちの物語の中に、常に名脇役として登場する、一柱の神様が在った――ある時は童男、ある時は幼女、そしてまたある時は天狗のような姿で天子の前へ現れ、旅を導いた。その神様の顔には、「獣の面」がいつも掛けられていたという…


  神代。オノゴロ島近海。

 クラオカミとイザナミの力の衝突で、全天を覆っていた黒霧は浄化されて消え去った。さんさんと降り注ぐ陽光に、波打つ海面は金箔をまぶしたように輝き盛っていた。

「あと少しでイザナミの正面に回り込みますわ! 全員、戦いの準備は済ませたかよ!」男女さだからない大声が、海上に響き渡る。

 舟の舳先で抜刀し、燃えるような眼差しを前方へ固定するアマテラスの頬を、海面で跳ねた水が叩く。その後ろで、タケミナカタ、ウカ様の二人が、声に従って武器を構える。

 三人を乗せた小さな救命艇は、まるでエンジンを積んだ水上バイクのように、柱のような水飛沫を上げて、禍神の群れの中を風のように駆け抜けた。オノゴロ島へ南進するイザナミの後を、舟は猛スピードで追走していた。

 その舟を操る者が、「猿田毘古神」という妙な神様だった。


「――そういう事なら、ボクの案内が必要なんじゃないかい?」

「え…?」

「誰っ!?」

「貴様どこから現れたああッ!?」

 突然、降って湧いたように救命艇に現れた声に、タケミナカタたちは一斉に武器を構えた。これが――猿田毘古神と、みことたちとの初めての出会いだった。

 その者は、空蝉丸の乗客ではなかった。船員でもなかった。「猿」の面を顔に着けた、異様な風体の神様だった。

 塞の神。道祖神。またある地方では、太陽神等々々。様々な呼び名で呼ばれるこの神様は、猿田毘古神。みことたちの暮らす中ツ国において、旅の道案内役として幾度となく天子の物語に登場する、民衆に非常に人気の高い神様だった。

 人気の理由は、その風体にあった。

 神代よりも更に古い神話の時代。天孫(大神天照大神の孫)邇邇芸命が地上へ降臨する際、その神聖な一行の先頭を歩いて案内したのが、「鼻の長さも七咫、背の長さ七尺余り、まさに七尋といふべし(日本書紀)」と伝えられる、巨人のような大きな体と、天狗猿のような長くて太い鼻を持った異様な神様だった。そして、

 世にも珍しいこの神様は、時代が移り変わった現代でも生き続けた。車の交通量の多い四つ辻や、村や町の境界に腰かけるように置かれた石碑や石像。それらはみな塞の神(猿田毘古神)を祀ったものだった。

 悪霊や災いから人々を遠ざけ(「塞」は遮るの意味)、また旅の安全の守り神として、この神様は、現代社会の中に上手く溶け込んでいた。人と人の間に立ち続ける神、それが猿田毘古神最大の特徴だった。

 さて、神代のみことたちの前へ現れたのは、童とも幼女ともつかない子供姿の猿田毘古神だった。顔には例の鼻の長い猿の仮面。そして、仮面の下で性別が目まぐるしく入れ替わるような、独特な声色だった。

「天子みこと。私が誰で、僕がどういう者か、忘れてもらっちゃぁ困るなァ。僕はどこにでもいるし、私はいつだって、迷える者の前へ現れて救いの手を差し伸べるのさっ♪」

 猿面のせいで、その表情は誰にも読み取れない。


「天の浮雲ッッ!!」舳先に片足をかけて舟の先頭に立つアマテラスが、先陣を切るように、陽光のように煌めく刀を真一文字に振り抜いた!

 次の瞬間、刀から噴き出した巨大な炎が海上を駆け抜け、禍神の集団を炎が焼き払う。

 伝説の名刀「草薙の剣」が一振りで草を薙いだように、振り抜いたアマテラスの刀から放たれた炎の塊は、舐めるように海上を駆け抜けて海水を一瞬で蒸発させ、舟の上空に山脈のような雲を幾重も作った。

「名を八坂の大太刀ッ、技を鹿島神道流ッ、音に伝わりし軍神の神技ぃぃッッ、その身に刻まれたい者はあァ掛かって来おおおォおおいいいッッッ!!」タケミナカタの口上が、海上に雷鳴のように轟く。

 南方の火山島に「比婆の郷」という里があった。小領ながらその郷は、島に伝わる剣術を修めた強者たちによって、禍神の侵攻を阻み続けていた。軍神建御雷之男神御自らが拓いたその流派の剣は、魔を断つ特殊な色を帯びていた。

 硝子が飛び散るように、救命艇のすぐ横の海面で、キラキラと水飛沫が跳ねた。と同時に、タケミナカタの腕は、嵐のような素早さで動いていた。

 海面を切り裂いて水中から現れた禍神が、黄色く淀んだその目に太陽を映すより速く、タケミナカタの電光石火の一太刀が、「斬ッ!」と禍神の胴を鋭く駆け抜ける。

 刀身全体が、トンボの翅のように薄ぼんやりとした透明な光を帯びていた。タケミナカタの細腕によって、羽毛のように軽々と振り回された大太刀に両断された禍神が、浄化されたように崩れ去る。

「ぐんぐんもりもり、ぐんぐんもりもりっ♪ ワッショイ、ワッショイぃい☆☆」

 歌だ! 踊りだ! 天女様だ! 金色の尻尾と、メロンのような大きなおっぱいを弾ませて、ウカ様が舟の上で長い手足を動かしてダンスする。

 すると、ウカ様の可愛らしい声と踊りに合わせて、三人の乗る救命艇の舟底から、青々とした植物が茂る。舟の上に天蓋のような蔓のアーチを築く。禍神から放たれる舟への攻撃を、植物の壁が鋼鉄のように弾き返す。

 ウカ様は、植物を操ることの出来る神様だった。

 ウカ様はベンチに腰掛けるように、自身のお尻の下に羽衣を敷く。着物の裾から覗く白い内股を露わに、空中で妖艶に足を組む。ウカ様は自分の手の平に唇を近づけ、「フゥ~っ」と甘い吐息を、自身の手の平の上へ落とす。すると、

 ウカ様の手の平の上で、ウカ様の甘い吐息に体をくすぐられた「植物の種子」は、男性器の勃起よろしく、青々とした茎を反り返るように屹立させる。葉を大きく膨らませる。睾丸のようにずっしりとした丸い実を付けて、植物が頭を重く垂れる――映像を早回ししたみたく、ウカ様の手のひらの上で急成長したのは、植物の「稲」だった。そして、

 縄を編むように稲がひとりでに寄り合うと、稲で拵えた立派な弓矢が、ウカ様の腕の中へ出現した。

 ウカ様の白くしなやかな指が、稲弓の弦を握り、水飛沫を上げて舟を追走する禍神の群れの中へ、黄金の矢を――射る!

 海面を漂流物のように覆う無数の禍神の隙間を、猿田毘古神の操る救命艇は、まるで針の穴に糸を通すような神業で駆け抜ける。

「いやぁ~。しかし、みこと君は凄い真守を揃えたものだね~!」

 思わず感嘆の声を上げる猿田毘古神の後方――ウカ様の射た稲の矢は、空中で巨大な化け狐に変化へんげした。鋼鉄のような爪と牙で禍神を次々と切り裂き、九つの尾が、追走する禍神の一団を怒涛のように撃ち貫く。

「み~ちゃん…っ。あとは、お願いウカ…!」ウカ様は彼方の海を見つめて声に出す。

 みことの真守の三人を乗せた舟は、オノゴロ島へ南進するイザナミの周囲を、火の玉のように駆け回った。周辺に群がる禍神を、カンナで削るように徐々に排除していった。そして、愛する人へ囁いたウカ様の声に呼応するように、黒山のようなイザナミの正面へ、海面を切り裂いて巨大なソレが立ち上がる!!


 猛獣に噛みつかれたように、イザナミの巨腕が岩塊に貫かれる! 

 イザナミの進路上へ、海面を切り裂いて現れたのは、槍のように鋭い岩塊だった。

 突如目の前に出現した巨大な岩塊に激突して、イザナミは体ごと岩の上へ乗り上がる。イザナミの進行速度は、ゼロになる。昆虫標本のように、鋭い岩塊の束に全身を縫い付けられたイザナミは、七つの山が連なったような、全長数キロに及ぶ恐るべき巨体だった…!

 大河のように太い腕。黄泉の食物を食したような、肉の腐った腹。どす黒い体液と穢れをオイルのように海上へまき散らし、何千、何万という禍神を、今この瞬間も産み出し続けている。

 浅瀬へ乗り上げたクジラのように、イザナミは岩塊を咥え込んだ腹を暴れさせた。滝のような黒血が、海へ吐き出された。イザナミの振り下ろした巨腕が、空まで水飛沫を上げて海を切り裂き、海上を駆け抜けた衝撃波が、周辺の島々を砂の城のように破壊する。

 猛牛のように暴れるイザナミの正面、海上に人が立っている――みことだった。救命艇の中から消えたみことの姿は、イザナミの目の前の海上にあった。

 そして、みことの足元の海面が、突如山のようにせり上がったかと思うと、海をひっくり返すほどの大量の水飛沫を上げて海中から姿を現したのは、鋼鉄の巨体だった!


「やっぱり、反対…でしたか? ようせいさんは…」

『……』あーしは少し黙って、

『そりゃァ当然っしょ! でも…でもそうしたいって、みことが決めたンなら、あーしからは何も言うことはないよ。だってそれが「みこと」なんだしっ。ニシシっ♪』

 一度こうと決めたら、梃子でも、ダンプカーで押しても動かないみことの頑固さは、あーしもよく知っている。みことへの正直な思いを、あーしはそう口にした。

 「イザナミを倒したい」「聖の世をみんなさんへ届けたい」「オノゴロ島のみんなさんを守りたい」純粋にそう願うみことだから、旅立つ前も、そして旅立った後も――(あーしは応援したいと思ったンだ。みことの事を、心から…(^^♪)

「イザナミとは、わたし一人で戦わせてほしいです…」

 救命艇の中で四つの顔を突き合わせて、オノゴロ島へ南進するイザナミを止めるための術を話し合っていた時、おもむろにそう切り出したのは、みこと本人だった。

『まぁ、あーしが言いたいことは、その時アマテラスがほとんど言ってくれたしね。みことだって、その自覚はあるっしょ? おらおら、どうなんだい~?(*´з`)σσ)д`)』

「あは、はは…ハハハ…っ」みこともその時の事を思い返して、苦笑い。

「そんなのは駄目だあ! 危険すぎるッ! 相手はあのクラオカミ、クラミツハさえ簡単に殺してしまうような化け物なんだぞ! みことに勝てるわけないだろう!!」雨あられのように反対の言葉を投下した。アマテラスは。一人でイザナミと戦うというみことの案を、アマテラスは即却下した。けれど、

 みことが一度言い出したら、どうあっても譲らない事は、アマテラスを含めその場の全員が知っている。

 黒玉の瞳の奥に、ギラギラとした不滅の炎(闘志)を燃やすみことの眼差しに、結局全員が押し切られた。みことは三人へ、改めてそう切り出した。

「あーちゃんの言う通りです。今のわたしには、イザナミを相手にしながら、周りにいるいっぱいのも禍神と戦う力は、ありませんです。だから、三人にはこの舟に乗って、イザナミの周りんの禍神を、出来るだけ、倒してほしいんのですっ!」

 渡りに船とはこの事だった。みことが仲間たちに熱弁していた丁度その時、猿面を被った妙な神様が、舟に突如現れた。猿田毘古神が、舟の運転を買って出た。

 その後、舟を降りて仲間と別行動になったみことは、集まった小魚たちの絨毯のような背に乗って、あーしと二人で海中を進んでいた――

 今現在、水中を進むあーしとみことの周りは、泡のような薄膜に包まれていた。船全体を光の薄膜で守っていた、クラオカミの力の縮小版かな? といったものだった。

 当然周囲に人はいない。会話が途切れると、あーしとみことの間に重い沈黙が流れた。これから待つイザナミとの戦いに、あーしは勿論、みこと自身緊張を隠すことが出来ない様子だった…。

 一方、亀に連れられて竜宮城へ向かう浦島太郎のように、海中を進んで行くあーしは、宮崎のシーガイア。そこに隣接する水族館へ昔行った時の事を、思い出していた。

 あーしを育ててくれたおじいちゃんとおばあちゃんは、連休があると宮崎に暮らす孫(産霊日結衣さん)の家へいつもあーしを連れて行って、みんなで一緒に動物園や水族館へ、よく遊びに行ったものだった。

 今思うと――おじいちゃんたちは分かっていたンだ。自分たちは長くは生きられない、と(そして自分たちが死んだあと、一人きりになってしまうあーしの事を想って、あーしと結衣さんを何度も会わせていたのだろう。今となっては確かめる術はないけれど…)。

 三六〇度を海水が覆い、神代の海を泳ぐ色とりどりの魚を視界に収めながら、昔の事をぽやぽやと想い返していたあーしは、ふいにその言葉を口から零していた。

『みこと……知ってた…? イザナミと戦ったみことは――死ぬってさ…』


 ハッ! と自分の口を押えて、あーしは愕然となった。

(なななァあああぁだわわあああッナニ話してンだあーしぃィっ! うっかりで話していい事じゃねェゾおお! 「お前死ぬ」なんて、放課後どっかへ遊びに誘うのとはワケが違うンだあああ!!)その話題を常に手の中に持って、あーしは言うタイミングを計っていた。みことがショックを受けない方法を探していた。にもかかわらず、独り言のようなトーンでそんな重大な事を零してしまった自分に、あーしは自分に殴りかかる勢いで頭を抱えて大声で喚いた。

 しかし、みことから返って来た言葉は、あーしの予想を超えたものだった…

「はい――知っていますです…」


 …一瞬、言葉の意味が理解できなかた…っ。語彙を失ったみたいに、あーしはみことの言葉をうわ言のように繰り返した。

『ナニ…それ…ぇぇっ…ナン、デ…みこ……そのことッ、知って――』

 未消化のまま何気なく見てきた、これまでのみことの行動が、別の色(意味)を帯びてあーしの頭の中で再生されたのは、この瞬間だった…。

  オノゴロ島の海を見て、空を見て、景色を見て、

  人々や神様の笑顔を見て、営みを見て、神楽を踊る後輩たちの元気な姿を見て、

(あの時も…この時も…その時も、みことがシテいたのは――「最期のお別れ」だった…)

「イザナミを倒せば、天子は死にます…。これは、わたしたち天子の、逃れられない運命なんのです…」みことはそう言って、あーしへ天子の真実を話してくれた…

 みことと初めてオノゴロ島の海で出会った時、母の面影を訪ねて島を巡っている、とみことはあーしへ話してくれた。そこに嘘はなかった。「全て」を話してくれなかっただけで。

 大好きな島のみんなさんへ、大好きな島の自然へ、自分が死ぬと分かっている旅へ出発する前に、みことは「バイバイ」を言うために島中を歩き回っていたのだ。

 穢れを浄化する。禍神を倒す。イザナミを滅ぼす――そのために、自身の身もいとわない極度に大人びた部分と、純粋無垢な子供の表情。この両極の表情をみことが宿している事があーしは不思議だったが、その理由は、わずか十三歳という幼いみことが、「世界」と「自分の死」という重みを、天秤のようにその両腕の中に抱えているからだった。

(だから…だからみことは、いつも…っ)沢山の人の笑顔や、神様に囲まれている中で、みことの心底にいつも響いていた「寂しさ」の正体へ、あーしはこの時初めて触れた。

「…ようせいさんは、知っているますか?」と、みことはおもむろに質問を投げる。

「この世界中でたった一人。聖の世を知らない人間がいるんです…」

(答えられるはずがない。現代人のあーしに)分かりきっている事を訊ねるみことに、あーしの胸の中で、言い知れぬ不安が駆け巡る。

「それは、聖天子です――」とみこと。

「えっとね、イザナミを倒してね、世界に聖の世を届けたその当人だけがね、自分の産んだ平和の色を知らないんです。どの時代の聖の世にも、聖天子だけが、いつも居ない…。だって、わたしたち天子は、自分の命と引き換えにイザナミを倒すますですから…」


『がんばって!』『応援するよ!』『みことならきっとイザナミを倒せるって!』

 あーしはそう言って、みことの背中を押した。みことを応援してしまった。未来に待つみこと自身の「死」へ向かって、知らず知らずみことを追い詰めてしまった。

『そ、そンな…ぁァ…知らなかった、知らなかったあああッ! 応援するなんて、がんばれだなんて、そんな言葉であーしぃぃ…ッ、みことを追い詰めてっ――!』あーしは自分の吐いた言葉の恐ろしさに、悪寒に襲われたように体の震えが止まらなかった。

『それにぃい…「羨ましい」だなンて…っ!――あーしそんなつもりじゃなかったああ!! ごめん…ごめん、ごめんなさい…みこと…ッ、ごめ…ごめ…んン…っっ!!』

  苦しかった? 悔しかった? 怒った? 

  悲しかった? 許せない、と思った? 本当はみことは、どう思っていた…?

 「応援する」と、他人事のようにあーしが口にした時。その時のみことの遣る瀬無い気持ちを想うと――あーしの言葉を受け取って、晴れやかに笑った、その時のみことの笑顔が想い出されると――あーしは余計に自分の事が許せなくなって、跳ね返った自分の言葉に殴られたように、あーしは真っ直ぐに立っている事もできなかった。

『みことの未来を変える』『運命を変える』『そのためにあーしはここに居る!』なんて、あーしは心のどこかで、ゲームや漫画のように軽く見ていた。神代のみことや、そこに生きる人々や神様のいのちを。自分自身を物語の主人公に重ねて、どんな不可能でも覆せるだろうと、あーしは何の理由もなくそう信じていた。だけど――

 唐突に突きつけられた現実の「みことの死」の重みを前に、(みことの未来を変える? 運命を変える? そのためにあーしはここに居るだってェぇええッ!? そんな事、あーしにも、誰にもできやしない…!)あーしはみことへ掛ける言葉が見つからなかった。

 顔も見えない世界中の人や、神様たちの笑顔を願って、旅を決心したみことの深い愛情(決意)にあーしはしがみ付いて、『うぅ…ひぅう…っ、みこ…ど…ぉォおおッッ、みどどおおお…!!』あーしは子供のように泣きじゃくる事しか出来なかった。

「…ようせいさんは、こことは別の…もっと未来から、来られた方なんのでしょうね…」


『えっ――』あーしは再び驚かされた。みことはあーしの正体に気付いていた!? 続く言葉の出ないあーしにかまうことなく、みことは続ける。

「ひょっとすると、ようせいさんには、わたしがこれからどうなるのか、この旅で、どんな事が待っているか――イザナミとの戦いの結末も…知っているのかもしれませんね…」

『……』

「わたしね、ようせいさん。自分が駄目な天子だって、分かっているですよ。スセリ様は、イザナミのもたらす死に閉ざされた未来を変えるために旅をして、それで、本当に聖天子になられた凄いん人です」けれど自分は違う、とみことは続ける。

「イザナミの現れた海を見て、いま怯えている人が居ます。怖がっている動物たちが居る。人々を逃がすために、懸命に戦っている神様たちが居るます…っ――わたしはね、ようせいさん。そんな、いま苦しんでいるみんなさんの為の力になりたい。命がけでわたしたちを逃がしてくれた、クラオカミさん、クラミツハさん、そんな強くて優しい人たちのような天子に、わたしはなりたいんなと思うのです」

 海上を覆う禍神を避けて、海中を進むみこととあーしの周囲には、空蝉丸の残骸や乗客の死体が、海底へ沈んでゆく様子が広がっていた。それらの残骸は、体操のリボンのようにヒラヒラと海中を舞いながら、海の藍に溶けるように、海底へ沈んで消えて行く…

「先の事、未来を知っているようせいさんには、無駄だと思えるかもです。今ここで、わたしとイザナミと戦う事は。せっかくクラオカミさんたちに助けられた命、わたしはここで、亡くしちゃうかもしれないかもです。でもね――」と、みことは自分の中の恐怖に抗うように、雄々しくあーしへ話すのだ。

「今のこの瞬間も、海を見つめて、宇受売様が不安がっているかもしれない。オノゴロ島の大好きなみんなさんが、怖い思いをしているかもしれない! でしたら、わたしはっ――今この瞬間、わたしがここで居る事が、わたしの一番のアレなんですぅ! 「アレ」ってなんでしょうね? わぁははっ♪ あれ? ほんとに何ですたっけ? へへっ、わたしよく言葉はよく見失っちゃうですけど、自分のやりたい事と、みんなさんを笑顔にしたいってことを、忘れたっちゃ事は、一度もないのですよ、ようせいさんんっ♪ んぐふふふっ♪♪」その時、みことを背中に乗せて水中を進んでいた魚たちは、長い海底トンネルを抜けるように、海面から燦燦と降り注ぐ陽光の中へ勢いよく飛び込んだ!

 晴れ渡る青空の下、海面へ浮上して白波の上に立つみことは、イザナミの島のような巨体を正面から捉える。そして、

「この青い空の下に生きる、みんなさんの笑顔を守れる力を、わたしへお貸しください…水蛭子様…」みことが祈るようにそう口にした次の瞬間だった。

 周囲の海水が、なるとのように轟々と音を立ててうねり始め、本人の背丈を越える水柱が、突然、みことの目の前に立ち上がった。そして、

 噴水のように空を駆け上がる水柱と、正面から向かい合うみことは、長いまつ毛の生えそろった瞼を、そっと閉じる…。つま先立ちになるみことは、丸みを帯びた顎を、くっと持ち上げる…。目の前で噴き上がる水柱へ、幼さの残る無垢な顔をゆっくりと近づけるみことは――チュ…っ、と水柱へ口付けをする…。

「神婚――」

 呪文のようにみことが口の中で囁いた次の瞬間。目の前の水柱はみことの体を包み込み、みことを飲み込んだ水柱の中から、眩い光がレーザーのように四方八方へ飛び出した。

「みことおおお!!」

「みことおおおお!!」

「み~ちゃああぁァんんん!」

 みことと別れたアマテラスたち三人は、海上を火の玉のように駆け回っていた。イザナミの周囲を岩礁のように固める禍神を、ミキサーのように打ち倒していた。突如、海上を駆け抜けた眩い閃光を救命艇の中から認めた三人は、舟の上で立ち上がって叫んだ。

 アマテラス、タケミナカタ、ウカ様の凝視する視線の先で、陽が昇ったかのような眩い閃光を放つ海面が、ゆっくりと山のように盛り上がる。すると、三人の乗る救命艇の上へ、海水と泥が滝のように降り注ぐ!


 壁面にびっしりと付着したフジツボが、ビスケットの欠片ようにポロポロと剥がれ落ちる。鋼鉄の甲板を、大量の海水が白糸の滝のように流れ落ちる。雄々しく空を見つめる砲口の奥から、住処にしてタコやカニや魚が、驚いて一斉に外へ飛び出してくる。

 海底の美しい珊瑚礁を枕に、横たわっていた深海から突如海上へ引き揚げられたソレは、全長二〇〇メートルを超える巨大戦艦だった。

 艦は太陽の眩しさに一瞬目が眩んだように、始動する機関に、錆びついた全身を大きく震わせた。波を蹴立てて豪快に走り出した。岩に体を貫かれて動けないイザナミの頭上へ、艦は大量の砲弾の雨を降らせた。

 爆音と、爆炎と、爆煙が、碧い海を数百メートルに渡って覆い尽くした――島のようなイザナミの巨大さだ。艦が放った砲弾は全弾命中し、飛び散る火花と共に、イザナミの黒い血肉が、ブシュゥウ! と空に爆ぜた。

 幽霊船のように腐敗と侵食の進んだ艦橋の上に、人が立っていた。イザナミへ放たれる砲弾の行方を、片方の目で悠々と追っていた――みことだった…。

 この時のみことの容姿は、折り紙で折ったような、純白の振り袖姿ではなかった。綿のシャツの上に黒ベストを重ね、ミニスカートに膝丈ブーツを履いて太ももの絶対領域を作り、穢れの花の咲いた左目の上へは、ドクロマークの入った黒い眼帯を着けた――小さな頭の上に三角帽をちょこんと乗せた、さながら「海賊船の子供船長」といった、マスコット的可愛らしさの溢れたいで立ちだった。そして、みことの片手には、西洋のサーベルよろしく、白い釣り竿が握られている。

 砲弾が吹き飛ばしたイザナミの肩から、瞬時に新しい腕が再生する。イザナミはその腕で海面を薙ぎ払う。全身に突き刺さる岩塊を荒々しく破壊し、岩の拘束からイザナミは解き放たれる。そして、

 なおも嵐のような砲撃を続ける戦艦の左舷で、爆発が起こった。ごうごうと音を立てて艦が大きく振動した。右舷へ一〇度以上戦艦が傾いた。

『みことおお! アレっ、あれあれあれぇェえみことおおおおおお!!!』傾いて海面へ急接近する艦橋で、自分の体を支えるみことが、あーしの大声に面を跳ね上げる。

 爆発のあった艦の左舷で、擦り傷のように装甲が剥がれ、血のような真っ赤な炎を噴き上げる艦の損傷部から、影が動いているような真っ黒い生物が姿を現した。

 ――禍神だった。

 途端に、首を巡らせるように旋回した76mm速射砲が火を噴く。艦橋へ登ろうとする禍神を一瞬で肉片へ変える。イザナミは、自身の体から産み出した無数の禍神を、砲弾のようにみことの乗る戦艦へ放ち始めた!


 イザナミの全身から放たれる禍神肉弾が、みことの乗る艦を掠める。海上に幾つも水柱を上げる。戦艦の放つ砲弾が、空中で敵の(禍神)弾を撃ち落とす――みこととイザナミの海上戦は、さながらボクシングの殴り合いのような様相へ突入した。

 クラオカミ同様、邪魔な天子の命を握り潰すかのように、イザナミは体から大量の禍神をミサイルのように空へ撃ち放った。量、そしてその数は、島のような巨体のイザナミの体積が、一割ほども減少したかと思うほど膨大な数の禍神だった。

『マジ、か…マジか…ぁァ…マジかマジかマジか嘘だろううぅぅううううう!!??』

 イザナミから放たれた禍神で、空はインクをぶちまけたみたいに真っ黒に染まった。あーしはその空を見上げた。竿を握ったみことの手が動いたのは、あーしが叫んだのと同時だった。

「ヨイショおおおおぉおおおおおおおおオオオオオッッッ!!!!!」海へ垂らしていた釣り糸を、畑に埋まった大根を引き抜くみたいに、みことが両手で勢いよく振り上げた次の瞬間だった――

 海面がにわかにグツグツと沸騰し始めた。途端に視界を覆うほどの白い蒸気が水中から勢いよく噴き出した。みことが持ち上げた釣り糸の先から、昼間の空へ向かって勢いよく釣り上った(飛び出した)のは――『ままままままままmmmっッつマグマあああァああああああどわァアアアアアアッッ!!??』

 釣り糸の先に繋がった真っ赤に煮え滾るマグマに、あーしは口から心臓が飛び出すかのように絶叫した!


 「死」という概念そのものに抗うに等しかった――別禍ツ神イザナミに対して、人も、神様も、自然も、等しく無力だった。しかし、「天子」という穢れを払う力を持つ人間の内へ、「神」の血と力を注ぐことによって、異郷の能力を得る奇跡の業があった…

「これが――「神婚」。これが、みことと水蛭子様の力、か…ぁァあッッ!?」

 凄まじい水蒸気が海を覆った。幾筋もの稲妻が、海上から空へ向かって翔け昇った。大海原に浮かべた笹船ように、救命艇の上から、まるで別世界のようなその凄まじい光景を凝視していたアマテラスたちは、驚嘆の声を漏らした。

 神婚――それによって、沼と生命を司る漂流神水蛭子様の力を自分の内へ注いだみことは、大海の抱くあらゆる存在を、時間と場所を越えて、白竿一本で釣り上げることが出来た。

「た、戦っておられる…。みこと様が、我らの為に戦って下さっている…っ!」

 恐怖に震える肩を隣の者と抱き合いながら、遠くの海で起こった凄まじい光と爆発を凝然と見つめるオノゴロ島の島民たちは、直感した。眩い光の先に、みことの姿を視た。

「神の力を許容するみことの「器」としての能力もそうだが…。さすがは原初の神水蛭子だ…っ」いつにない真剣な眼差しを海上へ注ぐのは、天宇受売様だった。

 みことの神婚の相手は、水蛭子様。日本創生の神「伊邪那岐」「伊邪那美」の間に産まれた原初の神。その水蛭子様と、みこととの出会い場面は、また別の話。とにかく、創造神の子である水蛭子様の力を、自身の手足のように使うみこととイザナミの戦いは、熾烈を極めた。

『みことッ! ソコだああ! やっちまええええ~~ッッイっケぇェエエエッッ!!』あーしはみことの中でぐるぐると腕を振り回して、大声で叫んだ。

 イザナミは腕を持ち上げる。ビルが立ち上がったかのような長大な腕だった。戦艦との殴り合いのような戦いに苛立ったように、イザナミは巨腕を海へ叩きつける。

 その瞬間、時が止まったかのように、海面は一瞬で凍り付いた。周囲にいた数千の禍神ごと、コンクリートのように分厚い氷が海面を覆い尽くした。

 その恐るべきイザナミの力は、みことの乗る艦の足を捕まえる。停止させる。艦の船体を瞬く間に霜が覆う。だけでなく、みことが海へ投げた釣り糸が――ごつ! と、鈍い音を立てて針が氷に弾かれる! これでは海中のものを釣り上げられない!

 泥のようにぬらぬらと光るイザナミの眼の前に、光が集まる。中ツ国の天地を焼いた、破壊の光だった。その光が、艦橋に立つあーしとみことを呑み込む刹那――

「ぅわああぁァアアアっ☆」好物のアイスクリームを前にした女子みたいに、みことは場違いな歓声を海上に響き渡らせた。

「うふ、どふふっ、わぁはははっ! くすぐったい、くすぐったいですよぉ~♪ ようせいさん、ようせいさんようせいさんも見て、見てくださいよぉ。でへへ~☆☆」

 友人を遊びに誘うみたいなみことの浮かれた声に、あーしは咄嗟に顔の前で身構えていた両腕を、ゆっくりと下ろした。恐る恐る瞼を開いた…。その次の瞬間、

『うンンンぎゃァアアアアアアアアっどわあああああ!!?? カ、カカがっ怪獣だあああァアアうげえェエエエエエエエエエ~~ッッ!!』

「ンもぅっ、怪獣じゃありませんですよぉ! こんなに可愛いのに。ねぇ~っ? うふふっ」赤ちゃんへ話しかけるみたく、喉から甘い声を出すみことがその腕の中に抱いていたものは、巨峰のように大きな黒目の愛くるしい、アザラシの子供。


 そのアザラシの子供は、自分の母親と間違えているみたく、マシュマロのように柔らかいみことの頬へ、鼻先を擦り付ける。でっぷりとしたお腹をみことへ押し付ける。魚臭い口を開いて、みことの頬をペロペロと舌で舐める。

 みことに懐いたその愛くるしい哺乳類は、実は、みこととあーしの危機を救ってくれた、海の恩人だった。

 イザナミの放つ光が、艦橋に立つみことを直撃しようとしたその刹那――氷に覆われた海に穴が開いた。その穴の中からちょこんと顔を出す、海坊主のような生物があった。

 分厚い氷に穴を開けたその犯人こそ、今みことの抱いている、アザラシの子供だった。

 直後、アザラシの掘った氷の穴からみことが釣り上げたのは、海底に貯蔵された大量のメタンガス。

 無色透明のその可燃性ガスは、イザナミの正面で巨大な火球のように大爆発した。その凄まじい威力の衝撃で、海面を覆っていた氷は砕け、融解し、空気が急激に熱膨張した。そして、爆発によって仰向けに吹き飛んだイザナミの放った光は、戦艦の横を掠めて空を翔け上がり――青空に真っ白い線を引いたような光の筋が、空を横断した。

 みこととイザナミとの戦いは、人の立ち入れる領域を、一歩も二歩も超えていた…。寄せては返す波のように、優勢と劣勢を、みこととイザナミは激しく交換し合った。

(みことぉぉ…っ、負けるんじゃないよ…!)アマテラスは心の中でそう祈りながら、みことがイザナミに勝利してしまう瞬間を想像して、

(ヤメて…っもう戦うのはヤメてくれ! じゃないとお前は――みことぉォ…ッ!)

 アマテラスも知っていた。イザナミを倒せば天子も死ぬ、という悲劇を。

 アマテラスは自身の中の相反する思いに身を引き裂かれんばかりに、表情を歪める。

(みことが戦っている…オノゴロ島や、他の島の生命を守る為に。その傍に、どうして私は居ないのだ…っ)

 「みことの剣」と気炎を吐いておきながら、その隣に並び立つ事さえゆるされない自分の非力さに、タケミナカタは歯がみする。

「みぃぃ~ちゃんガンバレえええええええ!!!! フレ~フレ~っっ、イザナミなんて倒しちゃえウカああああああああああ!!」

 ウカ様は全力で大声援を送った。みことの背中を押した。ウカ様はみことの願いの最大の理解者であり続けた。例えどんな悲劇が、未来に待っていようと。

「ようせいさんは、「聖の世」――というものをご存知ですか?」


 みことは、あーしへそう話してくれた事がある。

 禍神や、千滅の呪い、そしてイザナミへ挑んで散って行った数多の天子たちの命。みことたちの生きる神代の世界は、国中に溢れる死の質量によって、沈みかけていた。

 聖の世とは――と、みことは語る。人間も、神様も、この世の全ての生き物たちも、家族や親しい人とご飯を食べて、明日を夢見ながら眠ることの出来る幸福な時間の事。

 オオサザキノミコト様という、初代聖天子が居た。

 その真守であらせられたイワノヒメ様が、故郷の国へ帰って来た時の事だ。ヒメ様のご尊顔に、イザナミを倒したという達成感は、絶無だった…

 国を出発した時の、冒険心と希望を顔いっぱいに散りばめたかつての表情は失われ、地獄を覗いて来たかのような狂気がヒメ様の目に宿り、人間を生きながら窒息させるような絶望に、ヒメ様は取り憑かれていた。

 けれど、ヒメ様がふと顔を持ち上げた時、国中の家という家から、白い炊煙がゆらゆらと立ち昇る光景を見て、ヒメ様は感涙にむせび泣いた。

 それまでの人の暮らしは、家の壁は穴が空いてうらぶれ、雨漏りをしても修繕が出来ず、床に器を置いて滴る雨粒を受け止め、家族は侵入してくる風雨を避けて、家の中央に固まって息を潜めるように暮らしていた…。

 なぜなら、人や神が集まって町を成し、文明が芽吹き始めると、決まってイザナミが現れた。そして全てを破壊してイザナミは去って行った。これまで人は、息を殺し、生活臭を消して、野に生きる獣同然のような生き方を強いられてきたのだ。

 イザナミや、禍神共の目から隠れることなく、自由に飯炊きの出来る平和の世の到来を目にしたヒメ様は、溢れる涙を拭いもせずその場に蹲った。

「わたしも届けたいんのです。そんな聖の世を…お腹いっぱいの笑顔と、みんなさんの明日を…!」自身の夢をそう語るみことへ、あーしは心の中でこう想っていた。

(聖の世を、「自分も見てみたい」とは言わないんだ…?)


 艦橋の上で白竿を握るみことの細い手の上へ、あーしは自分の手を重ねた。あーしも想いもみことに重ねるように、大声で叫んだ。

『みことおおおおぉおおおおおおおお一緒に釣り上げるぞおおおおおおおウォオオオオオオオオっっうわああああああああああああ!!!!!!!!』

「ようせいさんん!!」と、みことは叫んで、あーしの行動に力強く頷いた。あーしとみことの二人は、四本の腕で釣り竿を一気に引き上げた! 次の瞬間、

 海面が眩い光の柱を吐き出した。太陽を釣り上げたかのような眩い光の奔流が、海中から天へ向かって勢いよく噴き上がった!

 あーしたち二人の頭上を越えて、空へ釣り上がった海の大物は――海へ沈んで行った天の沼鉾(クラオカミの鉾)。そして、空蝉丸に乗っていた乗客乗員全員の想いだった。

 クラオカミの鉾に、人と神様全員の想いが一つに重なった。雷をまとう大翼を広げた黄金の竜が、暗雲を従えて空へ出現した。

 天空に顕現した眩い黄金の竜は、オノゴロ島へ進むイザナミの頭上へ、矢のような雷を穿った。万雷の雨を降らせた。嵐のような雷霆が、イザナミの体をズタズタに切り裂く。

「クラオカミさん…クラミツハさん…キフネの水神様――どうかッ、どうかわたしたちに、みんなさんを守れる力を御貸し下さいいいいいい!!!!!」

 みことがそう叫ぶや、荒れ狂う金竜はみことの持つ竿へその身を宿し、白い釣り竿は、神をも打ち滅ぼすような光の大鉾と変化した。柄から翼を生やした大鉾が、羽ばたくようにみことの手を離れ――イザナミへ向かってロケットのように飛翔した! 次の瞬間、

 イザナミの全身を、鏡のような闇が包み込む――

 みことの放った光の大鉾は、イザナミを貫く寸前で、鏡のような闇に弾かれる。跳ね返された大鉾が、牙のようなその鋭い刃を、グワァァ! と、みことへ容赦なく突き立てる!


 己の放った大鉾に胸を貫かれみことは、白目を剥いて壮絶な悲鳴を上げた。寿命を迎えた白熱灯のように、チカチカと点滅して消えそうになるみことの意識を、

「みことおおおおおおおおおおおお!!!!!」

「みことおおおおおおおおおおおお!!!!!」

「みぃぃいいちゃあああああああああああああんんんン!!!!!!」

 同時に叫ぶアマテラスたち三人の悲鳴が、みことの意思をなんとか繋ぎ止めた。

 みことの乗る艦は轟沈。海水は蒸発。神婚は解除。何が起こったのか、みこと本人にさえ理解できなかった。

 光の大鉾が、イザナミを貫こうとした刹那、カーテンのような闇がイザナミの全身を覆った。それに弾き返された光の鉾が、みことの体を貫いた――そう頭で理解できた時には、みことは真っ逆さまに空を落ちていた。

 目といわず、鼻といわず、口といわず、みことの穴という穴から血が噴き出した。障子のように肉がビリビリと裂けた。破れた皮膚に風が触れ、焼けるような激痛がみことの全身を突き刺した。炭のように真っ黒に焦げたみことの唇から、煙のような息が立ち昇る。

 もはや指一本動かすことも出来なかった。全身から黒煙を上げて空を落下し続けるみことは、次に目に飛び込んできた光景に、正気を失わんばかりに目を見開いた。

 差別暴力殺人戦争テロ虐待環境破壊虐殺ets…人類史の産んだ全悪が凝縮したかのような、夜より深い闇の球体が、イザナミの頭上へ浮かび上がる。

「…め、て…っャ…め…ぇェ…やメっ…止めテえええええええええええエエエェェッだめえええええええええ”え”え”え”え”え”え”え”え”え”え”え”え”え”え”エ”エ”エ”エ”エ”エ”エ”エ”でえええェエエエッッtっっ!!!!!!!」

 喉が張り裂けんばかりに叫ぶみことの絶叫と、漆黒の珠がオノゴロ島へ撃ち出されるのは、同時だった。


「ウヴヴヴヴァアアア”ア”ア”ア”ア”ア”あ”あ”ッッぶぶツlァアアアアああああがががggッガア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ヴヴヴヴッッッ!!!!!!!!」

 どんな痛みや、傷でも、決して声を上げる事をしなかった気丈なみことが、喉を潰されたような悲痛な断末魔を轟かせた。

 イザナミから漆黒の珠が放たれる刹那、空を真っ逆さまに落ちるみことは、空中でもがくように腕を動かした。体の向きを反転させた。イザナミの正面で両腕を広げるみことは、全身から力をかき集め――自身の体を楯にして、イザナミの攻撃を受け止めた!

「みことォオオオオオオオおおおおおおおおおおおぉおおおッッッ!!!」その大きな叫び声は、その場に居合わせたアマテラスら全員の声だった。

 みことの頭髪は燃え、皮膚は腐り、全身に数十創走る傷口へ、直接指を入れてこね回されているような凄まじい激痛が、みことの体と心へ容赦なく牙を突き立てた。

 元々穢れに覆われていたみことの左目、胸、右太ももは、イザナミの力に呼応するように、服を突き破ってみことの体に広がった。恐ろしいほどの血を噴き出した。

 その惨憺たる光景が、あーしに胸に突き付けるのは、「みことの死」――誰がどう見ても、クラオカミの再現だった。

『みことダメだあああッ無茶だァア! みことおおお前死んじまううう!!』あーしの必死の叫びも、破けたみことの耳には、ザーザーと雑音交じりの音声にしか届かない。

 イザナミの攻撃を受け止めるみことは、両腕の感覚を喪失した。自分に、いまも腕があるかどうかさえ、みことは判然としない。ガラス人形にヒビが入るように、みことの胸から腹にかけて、バックリと斬られたように肉が裂ける。みことの体の個所で、血に染まっていない個所は、一つとない。

 舟から飛び降りんばかりに絶叫するアマテラス、タケミナカタ、ウカ様の三人も、皿のように開いた眼から滝のような涙を流す。

 黒炎に焼かれるみことの唇が、掠れ掠れに言葉を紡ぐ――

「よう…せ…、さ……ン…」

『みことみことッみことぉオオオ!! ふざけンなしッ!! みことしっかりしろおおおッみことおおおおおおおおおおおおおおおーーーッッッ!!』喉が張り裂けんばかり叫ぶあーしへ、「えへへっ♪」と、いつもの無邪気な笑みを残したみことは、

「ごめ……n――ネ…っ」

『みことおおおおおおおォオオオオオオオオオオおおおおおおおおおお!!!』その瞬間、PCの電源が落ちたみたいに、みことの言葉を最後に、あーしの周囲は闇に堕ちt…

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