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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

芽生える音

作者: 垂氷

 方向音痴というものは脳の障害なのだろうか、と真剣に悩む。(ひびき)は廊下の突き当りの壁を睨んで唸った。

 もっとも既に親に頼んで脳神経内科へ連れて行って検査をして貰ったが、何も異常は無いと言われているのだが。


 高校に入学して数か月。これまで放課後、帰りのHRでウッカリ寝て、いつもなら友達と一緒に行ける下駄箱への道を見失った。

 帰り道は駅へ向かう友人に着いて行くと、その途中に抜ける住宅街に目的地の家があるので無事に帰れていた。

 今日はそのどちらの帰る術を失ったのだ。


(どうしよう……)


 左右を見る。ジリジリと来週末で夏休みに突入する、この日。つまりテスト制を選んだ者はテスト期間だ。

 昨晩徹夜して、今日のテスト範囲を頭に叩き込み、何とかテストを眠らずに乗り越えて、気が抜けた。

 明日は得意の現国と古典A、世界史A、選択授業のコミュ英基礎なので、予習は殆ど必要無いと油断していたのも悪い。


(数学や物理は滅べばいい……)


 こんな事になった原因を呪いながら背後を振り返る。


 電気の落とされた放課後の廊下。下校時刻まで点けといてくれれば良いのに、とため息を零す。夕暮れに染まる廊下を見る事は滅多に無いからか少し不気味に思える。

 響はうっかり思い出しそうになる、夜の学校を舞台にしたホラー映画を頭から必死に追い払った。


「さて」


 気合を入れる為にあえて声を出し、目の前の廊下と横の階段を見る。

 一階に下駄箱のある学校なら良かったのだが、生憎とここの学校は一年生の下駄箱は二階にある。それは一年の教室が一階に職員室がある、旧校舎に在る為だ。

 二年以上は渡り廊下や体育館の中で繋がった新校舎に教室があるので、新校舎一階に下駄箱がある。もっとも門からは一年の方が近いので、どっちが良いとは一概に言い難いのだが。


 何となく廊下が怖くて階段を上がった。


 一番上まで上がれば、後は下がって行けば良い、と思ったのだが、その前に自分が新旧どちらの校舎に居るのか把握していない事を頭から飛ばしている自分に、響は気づいていなかった。


(まだ上があるのか……)


 人と一緒に、必要な教室にしか行かない響きは、数か月経った今も校舎の構造を覚えていなかった。 故に新校舎が八階ある事も、旧校舎は四階までな事も把握していない。


 夕方になり空調の消えた上に、戸締りのされた校舎は蒸し暑い。部活に使われている教室は恐らく空調が効いているのだろう。


 階段の窓から見える幾つかの教室は電気が点いているのが見えた。ソコに行けば人がいるのは分かっていたが、どうやって辿り着けばいいのかが分からない。


「はぁ……つい、……た」


 ようやく階段の最上部に辿り着いたが、見えたのは立入厳禁の札の掛かったスチール製のドアだった。試しにノブに手を伸ばしてみたが、鍵がかかっている。


「あーーー、下りるか」


 踵を引きずりながら階段へと向き直る。一階だけ下りて、諦めて廊下へ歩き出す。元より体力はあまりない。


 頭の中で明日のテスト範囲を思い出しながら、トボトボと歩く。窓から見える夕陽が怖くて顔を伏せて足先を睨む。

 特別教室の並ぶ廊下なのか、響の教室のある廊下の窓よりも小さくて若干薄暗い為、更に怖い。

 分かっていても、身体の横で振る手が勝手に拳に握られ、小刻みに震える。

 

 もう忘れた筈だった。小学生の頃の事だ。いい加減、もう克服したのだ。家や外なら何でもなかったのに。

 面白いから、と帰り道だからとたまり場と化している家にディスクを持ち込んで、ホラーなんて見せた友達を心の中で罵る。皆爆笑してみる中、響だけが膝を抱えて固まった笑みを顔に貼り付けて、視線を泳がせていた。

 この地域には中学の途中で、親の転勤で引っ越して来た。今住んでいる家も、一軒家だが借家だ。親の親戚の家らしい。今は海外で暮らして居て、売りに出していたが売れないから、貸してくれる事になったらしい。若干駅から遠いが、中学の通学路でもあったので、方向音痴の俺を心配した親がソコに決めてくれた。


 それでも結局は誰かの後に着いて行かなければ、帰りつけないのだが。 


 足先を睨みつけながら歩いていた響は、ボールの弾む音に顔を上げる。

 気づけば、先ほどとまた違った雰囲気の廊下に居た。


 電気の灯っていない薄暗い廊下。窓は無く、両側に壁が続いている。しかし少し視線を先に向ければ大きな片側だけのスライド式の扉があった。体育倉庫の扉に似ている。


 半分開いた扉の先から差し込む夕日が、廊下を仄かに明るくしている。


 また一つボールの音が聞こえた。


 あの色の光は怖い。けれど音がすると言う事は誰かが居るとゆうことだ。


(下駄箱の位置を聞こう)


 深呼吸を二回して止まっていた足を動かした。


 扉は廊下から三十センチほど上がった場所にある。廊下の奥にはマットやバレーの時に使うポールなどが立てかけてあった。


(ここも体育館か)


 それが視界に入ってようやく覗き込む場所が何かに気づいた。この高校はやたらと体育館が多い。大・中・小と名前の付いた授業で使われる体育館以外に、第〇体育館、というのが十一ある。大きさは小体育館よりも更に小さいモノから、中体育館と同じコート一面半の大きさまで様々。中にはトレーニング機器が集められた通称ジムと呼ばれる体育館もある、らしい。

 毎年全国大会常連の部活が複数ある学校なだけある。文化部も活発との事だ。強制では無いので響は帰宅部だったが。


 スポーツ推薦や、テスト期間に大会が被る部活の生徒は、この期間にもテストを受けず、また部活動が出来るように単位制を選ぶ者が多い。教科ごとに進捗と成果を報告して、単位を取得していく方法で数年前に新しく導入された進級判定方式だ。年々、コチラの方式を選ぶ生徒が増えているという。

 響は部活に入る気が最初からなかったので、中学校で慣れているテスト制を選んでいた。


 それでもまだまだテスト制を選ぶ生徒は多く、普段は全ての体育館がフル稼働なのだが、この時期は空いている体育館もある。そういう場所は、事務での申請で借りる事が出来た。


 途切れることなく、不規則に聞こえるボールの音。


 半分開いた扉からは廊下の空気よりは涼しい風が吹いてきて、火照った身体を僅かに冷ましてくれる。


 そっと覗き込む。体育館の中は灯りは点いておらず、空調さえ入っていなかった。

 開け放たれた窓が正面にあり、眩しくて目を細める。


 靴底が床を擦る微かな音。


 引かれて視線を向ける。眩んだ視界が合っていく。オレンジ色のボールが綺麗な弧を描き、微かな音を立ててネットを通り、床に落ちて音を立てる。

 弾んだボールを掬い取り、そのまま再び籠へと軽いジャンプと共に放つ。また微かな音だけでボールがネットを通り抜ける。


(へぇ、うまいもんだ)


 真下から打っても、バスケットゴールにまともに入らない自信のある身として感心する。

 それからそんな器用な事をしている姿に視線を移して、息が止まった。


 弾んだボールを片手で掴み小脇に抱えて、顎に伝う汗を制服のシャツの袖で拭う姿に見惚れた。

 

 スラリと高い身長。整った体形。襟足が少しだけ長い髪型。

 夕陽に僅かに茶色く見える黒髪。瞳の色は遠くて分からない。顔もよく分からない。夕陽を背にして斜めになっている角度で影になっているから、というよりも俺の目が悪いからだろう。


 ただゴールを見上げるその姿が、どこか傷ついた獣のようで見惚れた。


 強いのに弱い。


 そんなアンバランスな雰囲気に、心臓が一つ高鳴る。


 彼の荒い吐息。開けた窓から校庭でやっているのだろう野球の音がする。

 遠くからは吹奏楽部の音や、筝曲部の音も聞こえる。上にも体育館があるのか、複数の足音が上からする。


 沢山の音が溢れている筈なのに、響は彼が立てる微かな音も聞き取って、ただその姿に捕らわれた。

 

 視線の先で、抱えていたボールをまた頭の上に振りかぶって、ゆっくりと膝を曲げ投げる。響の視線はボールを追った。


 微かな音と共にネットを潜り、ボールの音が響く。その音が耳の奥に強く残る。知らず汗の滲んだ胸元のシャツを握っていた。


 直ぐに取りに行くと思ったのに、ボールを受け止める手はなく複数の音を段々と小さくしながら、最後に床に転がった。


「……誰だ?」


 聞こえた声にハッと顔を上げる。


「あ、オレ」


 我に返って慌てる響に男は目を細める。部活、では無いだろう。制服のままやっているのだから。


「なんだ? また柳瀬の……て、違うか。一年、だよな?」


 低く不機嫌そうな声だったのが、直ぐに落ち着いたものに変わる。


「あ、はい。あ、その、えと」


 ゆっくり動き出した男を視線で追いながら、何故か酷く焦る自分をどこかで不思議に思いながら必死に言葉を探す。

 そして男がわしりとボールを掴んだ所で叫ぶように言った。


「勝手に見てごめんなさいッ。下駄箱どこですか?」

「あ゛?」


 何とかコート一面在るか無いかの狭い体育館内に反響する響の声に、返されたは低い声。


「す、すみません。道に迷って」

「校内なのに……、いや一年だと迷うか。新校舎と旧校舎の経路複雑だもんな。俺も一年の頃迷ったわ」


 頭を掻きながら男は言った。そして体育館の奥に押し込められた金属製の籠に、片手で無造作にボールを放って入れる。

 思わず拍手してしまった響にチラリと視線をやって、戸締りを始めた。


「あ、あの……」

「ちょっと待ってろ。案内する」

「あ、あ、あの、教えて頂けるだけで」


(は、きっと到着出来ないだろうけど)


 それでも彼の邪魔をするよりは、と口にしたが、軽く視線を向けられるだけで黙殺された。


「あ、て、手伝います」

 

 彼も上履きのまま入っているので大丈夫だろう、と自分もそのまま上がって、窓を閉めていく。


「悪いな」

「いえ、オレが中断させてしまったんですし」

「……そうか」

「はい」


 手早く窓と窓の鍵を閉めて行き、最後にもう一度確認をしてから、男は入口脇に置いてあった鞄を手に取った。

 体育館を出て、扉を閉めるとポケットから鍵を取り出し閉める姿を見ながら、沈黙に耐えかねて響は口を開いた。


「今日は部活お休みなんですか?」

「あん?」

「あ、いえ……」


 響きの身長は百六十にとどかない。これから伸びると思っているが、父親も百七十無い程度なのであまり期待は出来ない。そんな響きに対して、男は恐らく百七十を超えている。

 普通に並んでいても圧迫感があるのだが、見下ろされるとなおさらだ。


「入ってねーよ」


 響の様子に何を思ったのか、視線を逸らして歩き出しながら返された言葉に、何故か響は息を呑んだ。


「ほら、案内する。俺も職員室にコレ返さないとだしな」


 鍵を軽く鳴らす様子に、慌てて後を追う。


「あ、あの。スミマセン」

「何が?」

「傷つけてしまったようなので。あと、案内にお手を煩わせて」

「……別に」


 短く返されて会話は途切れた。気まずくて足元を見る。

 廊下に差し掛かって、自分の足にかかる男の影に気づいて息を呑む。


(違う。ここはあの場所じゃない)


 違うと自分に言い聞かせながらも、足が止まる。視界が揺れる。夕焼け色の廊下。俺よりもずっと大きい身体。


 数歩先に行っていた男が振り返る。それから響を見て訝し気に眉根を寄せた。


 廊下に踏み出す直前で止まった響の姿はまだ影の中。男には響の顔色は見えなかった。元より親しくも無い相手の顔色を見分けるのは難しい。更に言えば響は元より引きこもり傾向が強く、肌が白かった。


「おい? どうした」

「……ッ、ぁ……」


 一歩近づいて、様子がおかしい事に気づく。足が震え、目を見開いて焦点があっていない。

 手を伸ばした瞬間、ガクリとその身体が崩れ落ちる。


「おいっ、……おいって。どうした。なぁ、おいっ!」


 倒れきる前に何とか捕まえたので頭は打っていない筈だ。だがしかし、相手は既に目を閉じていて起きる気配が無い。


「おーーーーい。どうすりゃいいんだ」


 途方にくれため息を零した男は、響の身体を肩に担ぎ上げようとして、持ち上げた軽さに一度下ろして確かめる。顔を見ても優顔だが男らしい。制服も男子のモノだ。女子の制服にもズボンがあるが、それは模様が違う。男子は無地、女子はチェックだ。

 トイレは男子女子中性用と分けられているが、ジェンダー用の制服は無い。その辺りは申告制になっている。

 だが肉体的な性別で基本は分けていて、それが制服の校章の色で決まる。

 それも男子を示していた。と言う事は男子、の筈なのだが。


 改めて見下ろした細い身体は、新入生故の大きめの制服の中で泳いでいて、制服を着るというより着られている。それにても


(大きすぎじゃ無いか?)


育つの期待して大きいサイズの制服を購入する者は多いが、あまりに大きい気がする。合わないにもほどがある。

 思いはしては自分には関係無いか、と改めて身体を担ぐ。


 面倒そうにため息を零し、自分と響の鞄を反対の肩にかけて歩き出した。


「保健室、だよな。俺のせいじゃねぇよな」


 そうであって欲しいと願いつつ、あまり揺らさないようにと慎重にと少しだけ気を付けながら。



 


 保健室に入ると、帰り支度をしている保険医の姿があった。

 振り返った保険医は肩に担がれた姿に眉を寄せた。


 直ぐに支度を放棄して、ベッドに寝かせるように言いながら問いかける。


「喧嘩?」

「ちげぇよ。何か校舎で迷ってて案内頼まれたから、しようとしたら急に倒れた」

「熱中症かしら」

「分かんねぇ……です」


 チラリと見られて慌てて語尾を付けたした。自分の母親と同じ程度に見える女の保険医につい口調が緩むのは、彼女の雰囲気が柔らかいせいだろう。他の生徒も、どちらかというと親戚のお姉さんのように接していて、敬語を使っていない子が多い。特に女子。あの距離感は分からない、と男は時折思っていた。


 ベッドに寝かされた響の顔を見た保険医は目を丸くした。


「響くん? あっらぁ、なんでこんな時間まで学校に。これは、どうしましょう。頭は打ってないのよね?」


 寝かせるまでの間に交わした会話で、頭を打っていない事を伝えたのを再度確認されて、頷いた。


「大丈夫よ。横川(よこかわ)くん、あなたのせいじゃない。コレは……カウンセラーの先生まだ残っていたかしら……」

「あの、俺帰っても」

「あああ、ちょっと待ってね。待って、担任の先生も残ってると良いのだけれど。ちょっと知らせて来るから、その間見てて」

「いや、あの……」

「ごめんなさいね。でもちょっとだから。起きて、錯乱するようだったら、傷つけないように抑えて置いて」

「え? あの」

「まぁまぁ、どうしましょう。お願いねー」

「いや、ちょ」


 横川の声を聞いているようで聞かずに、保険医が出て行ってしまう。


「どうしろってんだよ……」


 思わず声にだして呟きながら、ため息を落とし周囲を見回す。とりあえずと適当に床に置きっぱなしだった鞄をベッドの横に置き直し、入り口側のカーテンを引く。


 窓側のカーテンを開けて、隣のベッド越しに赤い光が差し込む。


(さっさと目覚めろぉ……)


 眩しさに起きれば良い、と思ったのだが見下ろした顔色の悪さに罪悪感が沸き起こり、カーテンを引き直す。


(帰りてぇ)


 椅子を持って来て、座り、眠る響の顔を見てから天井を仰ぐ。


「あーーー、厄日だ」


 零した時、小さくベッドの中から悲鳴が聞こえた。


「お、起きたか?」


 帰れるか、と期待したが見えた酷く怯えた目に、ため息を零す。

 保険医に言われた通りに暴れるかと思ったが、見開いた目から涙を零す姿に、困惑する。

 内心慌てつつも手を伸ばしたのは、昔妹にした時の事が身体に滲み込んでいたからか。

 今では、噛みついて来て可愛くないと思う妹だが、小さい頃は可愛かったのだ、と触れてから思い出す。


(あ、やわけぇ)


 少しくせ毛のゆるふわなマッシュ。見上げて来る怯えを含んだ少し茶色を帯びた目は、男にしては大きく、柔らかい顔立ちの中で主張していて、ぶっちゃけ可愛い。男でも可愛いと思える奴に初めてあったかもしれない、とよくよく見てから感心した。


 少し乱暴に掻き混ぜてから、今度は整えるように優しくする。

 数度優しく撫でつけていると、怯えが瞳から消え、ゆっくりと瞬きする。


「あ……れ?」


 響が状況が分からず周囲を見回す。それから頭の上にある手を認識し、そして横川を見て、顔を真っ赤にした。


「わ、あ、オレ、え?」

「落ち着けー。大丈夫だから、落ち着け。な? ええと、……ヒビキくん?」

「へ、あ、はい」


 落ち着けと繰り返されながら頭を撫でられて、響はどうにか頷き、それから目を閉じ深呼吸をする。

 その様子を見ながら手をどけると、瞼が上がりどこか寂しそうに横川の離れていく手を目で追った。

 無意識なのだろうその様子に横川の口元が微かに笑みを浮かべる。去年からずっと胸に抱えていた鬱屈した気持ちが少しだけ軽くなった気がした。


「あーーーえっと、ヒビキくん」

「あ、はい」


 この「あ」は癖なのか、と考えながら横川は腕を組み少し考えて口を開いた。


「お前が廊下で倒れたので保健室まで運んだ。ここは保健室だ」

「あ、はい」

「んで、倒れる時に頭が落ちる前には受け止めたが、どっか痛みはねぇか?」

「あ、はい。……いえ、大丈夫です」


 問われてのそのそと起き上がった響は、軽く手を開閉して首を横に振った。

 それから頭を深く、タオルケットに着きそうなほどに下げる。


「お手数おかけしました。ええと……先輩」

「横川、だ。横川 (ヒロ)


 名乗っていなかった事に気付いた響が慌てて顔を上げて名乗る。


「あ、オレは、町田(まちだ)響です」

「へぇ、響って名前だったのか。ヒビキって苗字かと思ってた」

「あのオレの名前って」

「ああ、センセイが呼んでたから」

「あ、なるほど」


 それで互いの間に沈黙が落ちた。

 けれど直ぐに祐が口を開く。


「もう大丈夫か?」

「あ、はい」

「そか、じゃ、俺は行くな」

「あ、はい……。あの、ありがとうございました」


 もう一度深々と下げた響の後頭部に、ポフリと大きな手がのった。


「もう、良いって。じゃあ、お大事に、な」


 クシャリと混ぜるようにして撫でて行った手の感触に息を呑み、閉まるドアに消えていく背中を見送る。

 汗ばんだシャツの胸元を握り締める。


「横川祐、先輩……」


 トクリトクリと苦手なオレンジ色に包まれている事も忘れて、響はその背中が消えた場所を見送った。耳の奥でボールの跳ねる音が木霊した。


 一方、鍵を返しに行く途中で保健室へ戻って来る途中の保険医に会って少し叱られ、膨れるも、響が起きた事と特に様子が落ち着いている事を伝えた祐は、鍵も返し終わり、校門を出てから空を見上げた。

 既に薄暗くなって星が見え始めている。途中、体育館で昼寝を挟んだこともあり、かなりの時間が過ぎていた事に今さら気づいた。

 夕方を過ぎ、夜気を孕み始めた風を頬に感じながら駅に向けて歩き出す。


 ふと、風が指の間を通っていく感覚に視線を手に落とす。


 その口元に浮かぶ笑みに祐は気づかない。


 膝と足首を接触事故で壊し、普通の運動ならまだしも部活や本格的な運動などの激しい動きは駄目だと言われ、部活を辞めて以来、胸に抱えていた鬱々したものが僅かに晴れているのも。


 思い出すのは照れて真っ赤になった頬と、拍手を送ってくれたキラキラした瞳。

 耳の奥にパチリパチリという少し音が響く。


 また会いたい、などというハッキリした気持ちでは無い。


 けれど胸に落ちた温かい何かは、静かに芽生え始めていた。

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