愛なんて
その日は突然やってきた。
なんの前触れもなく、まさに青天の霹靂であった。
彼が私の前から消えた。
いつかは別れが来ることを理解していながら実際は覚悟なんて全くしておらず、この日がやってきてしまう現実を見ないで生きてしまっていた。
考えないようにしよう。とにかくそれだけで必死だった。
ただ普通の生活をすればいいだけだ。
支度をして家を出た。
スマホが震えて、ほんの少しの淡い期待を抱きながら開く。莉奈からのラインだった。
彼女はおそらく私とはタイプが違うのだが、なぜかとても話しやすくて、高校を卒業してからもたまに会っている。
「今日の夜空いてない?」
私は既読をつけてスマホをしまった。
莉奈は、私のような面倒な女ではない。
彼女に会うのはいつだって楽しくて、苦になることなど全くなかった。数少ない大切な友達である。
ただ、今朝は感覚が違ったのだ。
大きすぎる喪失感が、私の心を少しずつ、でも確実に支配し始めていた。
職場に入る前にもう一度スマホを開く。
今夜空いてるよ、とだけ返信して私は出勤した。
「おはようございまーす。」
元気で明るく可愛く言う。ここに来たら、私は私ではない。
「おはようー。マキちゃん今日もよろしくお願いします!」
源氏名を本名にしてるのは私だけかもしれないと、ふいに思った。
ただ、年齢も六歳も若く設定しているし、どうしても完全に自分がなくなってしまうのが嫌だった。
他人の名前で呼ばれることが私には耐え難かったのだ。
風俗嬢であることを伝えたのは、莉奈と彼の二人だけだ。他の友達には言えなかった。
会社で事務をしていると嘘をついている。
だが別に辛いわけではなかった。
元々男性依存の私にとって風俗は、いわば天職と言っても過言ではない。
もちろん嫌なお客さんもいるわけだが、土地柄的に客層は比較的良かった。
「マキちゃん次40分フリーで。」
突然店長に言われて、自分がぼーっとしていたことに気付く。
「了解です。行ってきまーす。」
待機所は事務所とは別にあり、朝事務所に顔を出して財布をもらったら、待機所にて待つ。私は個室を選んではいないから、他の女の子を見ることができる。
そう、彼は言ったのだ。
「可愛い子と仲良くなって俺に紹介して。」と。
紹介したい子なんていないよ、と思うと同時に涙が出そうになった。
「そんな男のどこがいいの?」
以前莉奈に言われた言葉を思い出す。
ねえ、どうしてかな。なぜあなたは消えてしまったの?
もう届かない、行き場のない問いが膨らんでいくのを感じていた。
店長からメールが来て、お客さんが入った部屋番号が送られてきた。
私は髪だけ整えると、部屋に向かった。
風俗には様々な業種があるわけだが、私がいるのはソフトサービス店で、キスでさえオプションになる。
ソフトサービスな分バック率は低いが、以前いたヘルスよりやりやすかった。
風俗歴はもう10年になる。ずっと風俗一本だったわけではなく、レジやホールスタッフ、事務など普通のバイトをやりながらというスタイルだった時もある。
彼に出会ってからは風俗一本であった。
もう四年も前の話だ。
高校を卒業してからすぐに風俗業界に入った。母子家庭で育った私が大学に行くためにはそれしかなかった。奨学金や高校時代に貯めたバイト代を駆使してもだめだったのだ。
足りなかった。
しかし日々の生活費に消えていくお金。その虚しさと、風俗にまだ慣れなかった時期のあのどうしようもない苦しさは、私の心をすぐに蝕んだ。
まだ純粋だったと言える。完全に鬱病になっていたが、精神科にかかるまで3ヶ月間もほぼ毎日出勤していた。
そして精神科で鬱の診断を受けたにも関わらず、私は辞めなかった。
少しずつ、風俗の方に慣れてきていた。仕事だと割り切ってしまえばいいのだと。
それからお店はいくつか変わったし、普通のアルバイトも転々とした。
そんな中で彼氏くらい欲しいなと思い始めて出会い系を始めたのが、彼との出会いのきっかけだった。
メッセージはすぐに大量に送られてきた。
四年前の当時、私は24歳。世間から見れば普通の若いOLさんだっただろう。
丁寧な文章で、かつまとまりのあるメッセージを送ってきた人が彼だった。
私はすぐに返信して、ラインを交換した。そして彼はほどなくしてうちに来たのだった。
割と近かったのもあって親近感が湧いたのか、住所を教えることに何の抵抗もなかった。そんな私を莉奈はバカだと言ったけれど、彼の文章と選ぶ言葉にまず惚れたのだった。
そして玄関の扉を開けた瞬間に恋をした。
彼が纏う雰囲気に、眼鏡の奥のその哀しげな瞳に、綺麗な手の甲に。
彼はお土産を買ってきてくれていた。高そうな駅弁だった。
なんだか全て知っていたような気がしてしまって、私はすぐに体を重ねた。
そしてまた、恋をした。彼の匂いに。
「お疲れ様でーす。」
基本十七時上がりの私は、事務所に戻った。
「はい、マキちゃんは今日はこれね。」
「ありがとうございます。お疲れ様でした!」
十時からの七時間勤務で三万五千円だった。
ソフトサービスでこれだけもらえたら満足だった。
莉奈とは仕事の合間で時間と場所を決めていた。
待ち合わせ場所に着くと莉奈がいた。
「真樹ー!お疲れー!」
私はなぜか少しホッとしてしまった。
「あれ?元気ない?疲れてる?何かあった?」
莉奈とは12年の付き合いだ。よく分かってくれている。
「とりあえずご飯食べながら話そう。」
私は笑顔で言うと、先に歩き出した。
「え、消えた⁈き、き、消えたってなに?どういうこと?連絡こなくなったの?」
莉奈はびっくりしていた。私だってびっくりしたんだ。なぜって、彼は無言で逃げるような人ではなかった。そんなのは私の思い込みだと言われればそれまでだが、四年の付き合いの中で、彼は私から逃げたことはない。
「なにかあったの?」
莉奈は心配そうな顔をしていた。
「最後まで普通だったよ。仕事の話してた。既読のまま無視は気にならないけど、未読はやっぱり心配になる。今までそんなことなかったから。」
「そっか。奥さんにバレたとかは?」
これも私が思いたいからだと言われてしまうことかも知れないが、彼はバレるようなヘマをする人でもなかった。
そもそも彼はそう、既婚なのだった。
私がその事実を知ったのは、知り合ってから半年後だった。
怪しいところは確かにいくつかあった。土日にはなかなか会えなかったり、基本的に短時間しか会えなかったり、場所も気にしていた。
でもまさか結婚している人だとは思わなかったのだ。ある日、彼の方から言ってきた。
「俺に特定の人がいたらどうする?」と。
少し遠回しに感じたが、私はすぐに分かった。その時の絶望感は自分でも計り知れない。
結婚したいと思っていたのだ。
私は、彼と結婚がしたかった。離婚を期待した時期もあった。なんせ奥さんへの不満はすごかったし、彼夫婦には子供がいなかった。
その頃莉奈は、真樹が彼の子を妊娠すれば離婚するんじゃない?と言った。
だけど私は知ったのだ。彼は離婚はしないという事実を。そして、もし離婚をしたとしても、それは私のためではない。彼自身が結婚にこりごりした結果であり、彼が再婚することはない、と。
奥さんには持病があるらしかった。彼はきっと無意識だ。気付いていない。だが人は誰かに必要とされなければ生きていけない。
奥さんには自分が必要だという事実が、しんどさの中でも彼を動かしているのだとしたら、私はそこから彼を奪えるだけの何かを持ってはいないと思った。
子供がいないからこそ、きっと離婚しない。私はそう思った。
彼が私に求めているものは明白だったし、私が彼に求めるものは、それに対してはあまりに重かった。
受け入れてくれていたことには、感謝しかない。
「真樹は泣いたの?」
莉奈の言葉には、泣いた方がいい、そして早く忘れた方がいい、というニュアンスが込められていた。
「泣けないのよ。なぜか。多分実感が湧かなくて。」
私はなんだか急に吐き気を感じて、莉奈と別れて家に帰ることにした。
一ヶ月が経過しても彼から連絡はなかった。さすがにもう諦めた私は、ひたすらに仕事をしていた。
ただ、もう話を聞いてくれる人がいないという感覚は、私をひどく孤独にした。
そしていまだに泣けない状態は続き、失恋ソングを口ずさんでみても、虚しさだけが増してなんの解決にもならないのだった。
私はついに風俗をやめる決心をした。
辞めたいと言って辞められるとは思えなかった。気の弱い私はきっと、だらだら続けてしまうだろう。だから飛ぶしかなかった。
こんな決断をしてしまったのは、彼のせいだった。もう無理だと分かっているのに待ちたくなってしまったのだ。
愛なんて、愛なんて。
いらないと思っていた。
ただ毎日が続いていけばいいと願うことも傲慢だと思っていた。
今は、もっと貪欲になれば良かった気がする。
求めることで変わるものもきっとあっただろう。
たった一滴の涙が頬をつたり、もういない彼の名前を思わずもらした。




