紗環会戦 前編
清くあれば、苦しく
狂うておれば、楽しく
あゝ、すなはち僕は、狂つてしまつたのだなア
お父様、お母様、息子は先日五人も敵兵を殺してやりました
夏江さん、もし僕が帰つたなら、家を建てませう
産まれ来る我が子よ、父を蔑め
(ある一兵卒の手紙)
秋季と冬季の間特有の、誰もが布団を頭まで被って目覚めを拒絶するような、冷えた空気が漂っていた。
しかし訓練された軍人というのは立派なもので、起床喇叭の音が響くと、布団を跳ね飛ばし、即座に軍服に着替えて野営を飛び出し、各班点呼を取る。
第一軍司令官黒乃木義楨大将は、喇叭が鳴る※一刻前には既に軍服に着替えており、会戦予定地の紗環平野を見下ろしながら、煙草を吹かしていた。
義楨は※七将家の土元家の家臣、黒乃木義蔵の長子として生まれた。幼い頃より腕白で知られ、七つになる頃には、身分年齢関係なく子供たちから慕われる、いわば餓鬼大将と化していた。
息子の将来を案じた義蔵は、直属の上司である、土元家重臣の眞鍋之久に相談した。眞鍋はこの小童をたいそう気に入ったらしく、当時の土元家当主に進言し、義楨を土元家の※学舎に入れることの許可を求めた。そして当主も、その噂の腕白小僧のことを気に入り、義楨は、八歳から陸軍幼年学校に入学する一二歳までの間、土元家の学舎にて武芸百般を学んだ。
その後、一五で幼年学校を出た義楨は、同年勃発した鷹北戦争にて初陣を飾り、戦争終盤の北虎会戦にて獅子奮迅の活躍を見せたという。
その後も数々の対外戦争や内乱を経験し、御歳六〇。土元戦士らしい豪傑肌な性格で、白い口髭が風にたなびき、浅黒く焼けた肌には大小様々な傷痕があり、その勇猛さを語っている。この男ほど「歴戦の将軍」という言葉が似合う男は、今この帝国にはいない。
義楨が本陣に戻ろうとすると、従兵長が馬を引いて来るのが見えた。従兵長とはかなり長い付き合いだった。
「閣下ァー!おはようございますー!お早いですな!」
「おーう!おはよーう!何時も通りぞ!ハッハッハッ!」
従兵長は義楨の近くまで来ると、主人が乗り易いように馬を静止させた。
「あいや御苦労!」
歳を感じさせないハリのある声で従兵長を労うと、鞍に足掛け、ひょいと軽やかに跨った。従兵長は主人が馬に跨りきったことを確認すると、馬を引いて本陣の方へ歩み始めた。
「どうじゃ、皆起きたか?」
「えぇ、幕僚団の皆様は既にお目覚めです。閣下が到着し次第、会議を始めるおつもりだとか」
「かァーッ、俺ァ、会議は嫌いじゃ!延々と書類を読まねばならん上に、幕僚団の眠ぅなる話も聞かねばならんでの!」
義楨が冗談を言うと、従兵長と義楨は互いに笑い合った。その姿はまるで、数十年来の友人同士の様であった。
幕僚団の待つ露営に着くと、義楨は馬からひらりと降り、幕をくぐって中に入った。すると、中で待ち構えていた幕僚団が一斉に義楨の方を向き、右人差し指を額の前に持ってくるように敬礼をした。
「閣下、お早うございます。昨日、全物資の運び込みも完了致しましたので、いつでも行けます」
幕僚団の一人が報告した。
「強行斥候の面々からは?早馬は来たのか?」
「いえ、未だに交戦の報告も無ければ、発見の報告もありません」
義楨は「そうか」と小さく一言呟くと、自分のイスに腰掛けた。幕僚団もそれに続いて着席する。
「昨日の『おちょくり』は結局どうなった?」
「えぇ、概ね成功です。しかも敵はこの紗環平野まで出て来てくれたそうです」
義楨は口髭を撫で、二、三回撫でた後に立ち上がり、戦況図を指差した。
「よし、今日やるぞ。第五軽兵旅団に伝達するように。さて、各々方、人事を尽くせ」
そう言うと、義楨は表に出て、従兵長が連れていた馬に再び跨った。幕僚団もそれに伴い、次々に馬に跨った。
この東方親征の火蓋を切る戦いとなるこの一戦、第一軍総勢約五万の邪魔をするものは、敵と気候と無能ぐらいであった。
帝紀六〇一年一〇月三〇日、薄っすら雲かかる朝だった。
続く……
※の解説
※時刻は、前第一刻から前第一一刻、間に正刻を一刻挟み、後第一刻から後第一一刻、また間に正刻を一刻挟み、繰り返し、となっている。(言ってしまえば現実の時刻と一緒)
※帝国建国以来の忠臣、もしくは帝室に多大なる奉公をし、なおかつ絶大なる武功を挙げ、時の大王より姓を賜った将を祖とする将家
寺矢、創野、光本、周、嘉井、勝、土元のことを指す
これらの家々は、代々名将を輩出しており、全く邪魔な存在ではない
※言ってしまったら藩校みたいなモン。有能と判断された家臣の子や衆民の子を集めて、英才教育を施す機関。生徒は一二歳になったら、幼年学校か官営学校に進む
注目などされなくとも、僕は書くよ。いつか評価されると信じて