我が杖を君に
俺の地元の山にはモーゼの墓なんてものがある。無論迷信だが、子供の頃の俺は興味本位でこの山に探検に行ったことがあった。この話を聞いたミキはそこに行きたいと言った。田舎暮らしを嫌って東京に出てきたものの、何もかも上手くいかずに結局ミキのヒモ同然になっていた俺は彼女の言葉を断れず、用意されたオフロードバイクの後部に乗り、捨てた筈の故郷に渋々戻った。
誰もいない真夜中、俺とミキは山中へ踏み込んだ。急な岩肌を汗だくで登り、中腹で口を開く洞窟の前に来た。
「あなた一人で行って。古い木で出来た杖がある筈だから、それを取ってきて」
何故その事を知っている?そう思ったが、ミキの厳しい表情に気圧され中に潜り込む。子供の頃の記憶を頼りに、入り組んだ迷路のような洞窟を進んでいくと、俺だけが知っている秘密の空洞にたどり着いた。そこには古い木片が至る所に散乱し、片隅に古い杖と思われる木の棒が転がっていた。
なんの装飾もない太めの枝だが、先端に何かの花が咲いた跡がある。無論今は枯れ果てているが、そこだけが奇妙な印象を与える棒で、杖と言えなくもなかった。
それを拾い上げて外に出ると、ミキは驚きと喜びをない交ぜにした笑顔を見せた。すぐに山を下り、俺に杖を持たせて再びバイクに乗る。走っている間にミキは俺に語りかけた。
「その杖はアロンの杖って言うの。あなたの一族だけが持つことを許されたものよ」
アロンの杖。どこかで聞いたような気がするが、今は思い出せない。何かの骨董品なら価値のある代物なのだろう。
そうして行き着いた所は能登半島の突端、外浦海岸だった。日本海の荒波が打ち付ける堅い岩くればかりで何もない浜辺に立ち、ここに来た訳を訝しんでいると、ミキが海面を指差した。
「杖を投げて」
てっきりマニアにでも売り付けるものだと思っていた俺は面食らったが、ミキのすがるような瞳で懇願され、古ぼけた杖を彼女の指差す北西の方角に放り投げた。
杖を飲み込んだ海は、轟音を上げて左右に引き裂かれていった。驚愕する俺の眼前で、海底が幅広の道に変わる。それは真っ直ぐ北西に伸びていく。その先は……。
「ごめんなさい」
気付くと、ミキはバイクに跨がっていた。涙に濡れた顔でそう告げると、新しく誕生した海の道へ駈け降り、走り去ってしまった。
この時ようやく、俺はアロンの杖の正体を思い出した。十戒という古い映画に出てきた杖だ。そして自分がしてしまった事を思い知った。ミキは恐らく最初から、俺すら知らない俺自身のルーツを知っていたのだ。
やがて、あの海の道を辿って数百万人の顔色の悪い連中が銃を手にしてやって来る。日本にそれを防ぐ術はない。
利用され、売国奴に成り下がった俺はその場にへたり込むだけだったが、そのようになっても性懲りもなく彼女の涙の理由を考えていた。