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恋い焦がれたもの



 その陽気でない騒ぎは、ひとつ階を挟んだレオカディオの元にまで届いていた。

 戸に手をかけたまま、じっと立ち尽くしている。

 つい先ほど、何かあったなら飛び出すだろうと思ったのに、どうしても手が躊躇う。己の意思で外に出るのなんて何年ぶりか。この戸の向こうのどこにも、彼のために誂えられた居場所はない。ヒメナが誂えた安寧の寝床は。

 閉じられた世界を自ら開くことが、破壊の一手になりはしまいか?

 手に汗が滲む。些細なことだとわかっていた。指先の温度は予想と違っていつもと同じを保っている。

 決心がつかない男の耳に、階下から絹裂き声が届いた。高い声が叫ぶのは女の名前、この世で最も大事な音。

 レオカディオの手が戸を引く。ヒメナの名前が彼に部屋を開かせる。何も考えないまま走り出していた。


 二階と三階にかかる階段には扉がついていて、もどかしくぶつかりながら押し開ける。

 二階の間取りを彼は知らない。たった一枚の黒布が視界を邪魔して、咄嗟に取り払った。二階で客を持て成していた女たちが様子を伺うべく顔を出し、おぞましい気配に一瞬で気をやった。中から今度は客が出てくる前に階段を見つけ、不格好な体勢で走り抜ける。

 一階を見下ろす階段、人集りがそこにあった。


 桜の髪、白いけもの、目立つそれらに目を滑らせてヒメナを探す。仮面のせいで狭い視野を初めて恨んだ。


 ヒメナ。


 心の内で名前を呼ぶ。ヒメナ。思考を邪魔する叫び声、倒れ重なる人々の身体、耳も視界も騒々しい。ヒメナ、おれをすくうひと。

 仮面を見て、立ったままの人数が減ってゆく。男の上に女、女の上に男、足も頭も吐瀉物さえ気にできないまま誰しも自分を守ろうと意識を手放す。徐々に減っていく人数の中でも、狭い視界はまだ彼女を見つけられない。


「レオッ!」


 名前を呼ばれた。けれど、求めた色ではない。琥珀色がくるくる仮面の下で動き回る。

 いったいどこにいる。ヒメナ。

 空気に乗らない呼び声に、甘露の音が応えた。



「レオカディオ」



 張り詰めた緊張が、安堵にとって代わる。自然と頬が緩み、光る瞳に輝きを足す。レオカディオの人生の中で一番自然な笑みに間違いなく、もしも仮面がなければ今とは逆の理由で人の意識を奪っていたかもしれなかった。己の唯一が変わらず存在しているのを見つけ、そして。


 瞬間、レオカディオは流れるように身を滑らせた。上質な黒の絹糸、見知らぬ白の毛並み、まだ立っている人々の服、その隙間にいやな輝き。


 呪いの仮面は、同じ空間に居るだけで心をざわめかせる。


 相手がレオカディオを、仮面を認識していなくても、逆であってさえ、そうさせる存在感がある。

 なのに、鋭い金属光沢は彼を完全に気に留めていなかった。妙だった。狭い視界で姿を確認すれば痩身の男、この国らしい暗色の髪は短いが不潔に脂でべたついていて、反して服装は小奇麗なもの―よく見れば布地は季節にそぐわないし、手足の首が不自然に露出していたけれど、レオはそこまで気付けない。


 痩身の男は、周囲が悍ましきに全身全霊で警戒を向ける中、周りの様子を知らないまま一心に駆け抜けた。


 無情な銀の照り、その先を察する。心優しかった少年はもう有象無象に心を配らない、ただひとつ失えないもののためならば。大股で一歩二歩と飛び越えて、ヒメナの前へ身を乗り出した。

 目の前に迫った男。脂と埃が固める前髪から血走った目が覗き、レオカディオは場違いにも「なんだ」と思った。なんだ、どこにだっているんじゃないか、光る目の持ち主なんてのは。視野を外れた銀色の存在を次に感知したのは、腹部だった。

 刃の鋭さに見合った鋭い痛みが突き抜ける。心臓が下がる。身体に残った異物がヒメナに襲い掛かることはできない。

 脂汗を浮かべて膝から崩れ落ち、横向きに倒れ込んだ。


「きゃあ、レオカディオッ!」


 高い声、聞きたいのはこれじゃない。

 痛みに目を瞑りかけるのを堪え、レオカディオは近寄って来た見知らぬ女を睨みつけた。どこかで見たような桃色、ああそうだ、モニカに似ている。焦った表情で怯えを隠せない目が、あのころのモニカとそっくりだ。でも、どうでもいい。


 ずきんずきん痛む腹を内側に丸まりたいところ、レオカディオは首を持ち上げて庇ったヒメナを見た。凶器を手放した痩躯の男が遅すぎる警衛に抑えられ、直視した仮面への恐怖に震えている。馴染んだ温もりが背をさする。震えた声で名前を呼んだ。


「……ヒメナ」


 優しい黒曜石がレオカディオを見つめる。いつものように、左手が優しく仮面に延ばされた。硬い縁を指先が伝う。

 赤い唇がほんの少し開いて、ほう、と息を吐いた。


「よかった、無事で……」

「ああ、大丈夫、これくらいの怪我ならすぐ」

「貴方に傷がつくなんて耐えられないもの」

「え?」


 傷はまだ脈打ち、深々刺さった凶器に血が伝っている。ヒメナは仮面を撫でる。

 微笑み、瞳を潤ませ、いつものように仮面に唇を──、


「ヒ、メナ……?」

「貴方に代わりは居ないわ。貴方だけなの。壊れてしまっては嫌よ、お願いだから」


 目元の硬質な黒に、何度も唇が落とされる。

 甘えた声音、蕩ける瞳、ヒメナの、その染まった頬の理由は。

 なんとも言えない違和感に思わず頭を引くと、伸びた前髪がさらり瞼をくすぐった。


「……え?」


 腕を持ち上げる。傷が引き攣れたが気にならなかった、それより目元がやけに涼しい。

 指先の感触を、顔が知る。視界が開けている。信じられなくて繰り返し触れても、柔らかい皮膚しか触れてこない。

 先ほどの違和感を忘れ、レオカディオは喜色を満面に浮かべヒメナを見上げた。


「ヒメナ、仮面が、ヒメナ……っ!」


 これで、誰にはばかることもなくヒメナの隣に並び立てる。

 素顔のレオカディオは、幼い頃そのままに美しく育った青年だった。高い鼻筋、凛々しい眉。長い睫毛が歓喜の涙を押し出した。



「ヒメナ……!」



 そして、望んだ熱は。



「ああ、ほんとうによかった。これからも、ずっと側に居て頂戴。私もけして離さないわ」


 うふふ。

 美しいかんばせが愛らしく笑っている。たおやかな手が優しく撫でる、撫でられるはずのレオカディオは呆然彼女を見つめるだけ。

 きめ細かい白磁の頬が、すり寄せられている。


「ヒ、ヒメナ、ヒメナ……ヒメ、」

「戻りましょう、部屋へ。……その男は憲兵へ。お客様にも騒ぎに巻き込んでしまった謝罪を。旅のお方は憲兵に渡さなくてもいいわ。それから」


 立ち上がった女が、やけに恐ろしくみえる。

 熱がどこにも触れていない。

 望んだのと同じ色をしているその瞳が、違っている。


「こちらの、レオカディオにも医者を」


 手を伸ばせない。


「恩人だわ、」


 赤い唇はいつもと同じ角度をしている、そのはずで。


 自分の呼吸音がうるさい。そう、そうだ、怪我をしたから、だからいつもと違って見える。脈打つ痛みのせい、そのせいに違いない。


 思考がかき混ぜられるレオカディオを、ヒメナは一瞥しただけで、胸元に抱き寄せた何かを見下ろす。




「……私たちの。」




 ばら色の頬、緩む唇、その熱量はなぜ、どこへ。


 見上げる視界で、レオカディオは確かに彼女の手に硬質な黒を、見た。







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