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そして、訪れる




 ヒメナの後継は、数人がかりでようやく形になろうとしていた。

 彼女の店は今やこの国屈指の大店で、安易に畳めば影響が大きすぎて穏やかに二人隠居するのが難しくなる。

 明け渡すに後悔があるとすればひとつ、慣れ親しんだ魔法石くらいだけれど、それにはそれの活きる場所がある。天秤にかければ、レオカディオとどちらに傾くか結果は分かりきっている。


 用意した転居先は小ぢんまりして、いつでもその存在を感じていられるだろう。使用人もいない真実ふたりきりの生活を夢想して、ヒメナは胸を高鳴らせていた。これからの話を、ふたりで何度もした。

 レオカディオだって、ヒメナが居るならなんでもいい。どんな生活でも、どんな未来だって、ふたりであるならそれでよかった。

 他の誰しもが怯え嫌う己を、唯一愛おしんでくれるひと。

 ふたりの想い方が全く同じでなくても、互いに互いを得難く失い難い存在であると思っていた。

 運命と呼ぶのが似合う、胸の高鳴りと向き合う安堵。充足と安息で、空いた胸が塞がる、満たされる。


 この店の中にふたりへ口出しできるものは居なかったが、美しいヒメナに懸想していた客の男らは何度かレオカディオに文句をつけようと画策した。

 すべて阻まれ、彼の姿さえ誰も見ないで追い返されているものの、もしも一度でも目にしたなら未だ訪れるそういった手合いは途絶えたことだろう。

 幸か不幸か彼らはその機会を与えられず、店には入れ代わり立ち代わりヒメナを引き留める声が届いていた。


 それでも彼女は意思を曲げない。愛しいものを独占して過ごす生活をより濃密にすることだけを考えていた。

 己の膝に頭をのせて横たわる彼を撫でる、今日のような日を誰にも邪魔されず過ごしたい。


 だというのに、その日に邪魔が入った。窓の外から声がする。


 階下の騒ぎ自体はままあることでも、聞こえた声が女のものであるのは珍しかった。

 見下ろしていた相手から視線を外し、格子のついた窓を見る。座った高さから隙間の外を見通すことはできない。


「なにごとかしら」

「この国の発音じゃ、ない気がする」

「そう? ……そうね、たしかに。方言とも違うわね」


 半身を起き上がらせて、レオカディオも耳を澄ませた。

 女の声は、この国の言葉を下手な発音で叫んでいる。異国の人間が騒いでいるとなれば、ヒメナが動かないわけにもいかない。彼女はまだこの店の店主なのだから。


 黙って行動を促す彼の仮面を微笑みと共に撫で、すらり立ち上がった。

 面格子の窓に寄り添うと、店の前には二人組。薄茶けた布を被っているせいで、顔立ちどころか髪の色もわからない。

 それでも観察すれば、被っている布は汚れていて、旅のあとが伺える。

 背後に従える変わった獣に旅支度が積まれていることも推測を確かにした。

 獣は大人が跨って余裕ある牛のような体躯で、山羊のような面立ち、白く長い毛並をしていた。おそらくこの国に生息していない、異国のいきもの。背には鉄の鞍、これも見慣れない形をしている。


 彼らが客ならば、接頭に「厄介な」をつけなければなるまい。


 窓から身を離し、愛しい相手の元に戻ったヒメナはおっとり眉を下げて、いつものように愛おしげに手を伸ばし、指先でくすぐる。


「話をしてくるわね」


 あんなふうにしていられれば、客が店に入りづらくなってしまう。仕方ない、女の嘆息にレオカディオは苦笑して頷いた。


「ああ、気を付けて」

「なるべく早く戻ってくるわ」

「待っている」


 口付け一つが落とされただけで、ずっと待っていられる。レオカディオはそう思った。




 細身の背中を見送って、残された部屋でもう一枚布を被る。

 常人ならほとんど人影しか捉えられない視界はすっかり慣れたもので、よろけもせずに窓に寄った。めくれあがらないようしっかり巻き付けた布を通せば、誰かが見ても精々背筋を粟立てるくらいだと知っている。

 しばらく待てば、軒の影から悠々の足取りで唯一が現れてくる。

 見知らぬ相手との揉め事に出て行く彼女をこうやって物わかりよく送り出すけれど、危険を見過ごすわけにはいかない。諦めたはずの希望を再度失うことに耐えられるはずもない。なにかあったなら、界隈を阿鼻叫喚で満たしたとしても駆けつけるつもりでいた。

 ヒメナさえいれば、もはや、誰に嫌われても恐れられてもどうだっていいのだ。


 騒いでいた影のうち、ひとつはずいぶん小柄に見える。おそらく女か子供、もうひとつより前に出て言葉を交わしていることから女だろうと思われた。

 大きいほうは後ろに控えている、この国の言葉を話せないとしても子供に交渉や会話の全てを任せはしないだろう。

 会話を聞き取るには二階ぶんの高さは遠すぎるので、レオはヒメナを気にかけつつも視線を移動させた。


 彼女が居るときは、こんなふうに外へ目を向けることはない。

 都会だというのにこの国の道は田舎のように剥き出しで、建物はすべて木造。夜に赤く光る魔法石の灯りが、丸く沈黙し連なっている。行き交う人々も、立ち止まって見慣れぬ獣らを見る人々も、皆バスローブを固く着付けたような恰好をしていた。顔立ちもどこか茫洋として感じる。

 これほど外見も、文化も生活も違って育ってきた彼らなのに、恐怖はどこでも同じ姿をしているらしい。

 己を恐れないのはヒメナだけ、受け入れてくれるのは。


 ヒメナと対峙する旅人に動きがあって、浮かせていた視線を戻す。小さいほうが布を脱いだのだ。ぱさり流れる髪は腰ほどまである桃色で、レオカディオはぼんやり「あれは自分と同じ国の生まれではないか」とだけ思った。

 店の男が誰か、獣を裏に連れてゆく。そして何事もなかったように、旅人を連れてヒメナはこちらに足を進めた。

 じきに戻ってくるだろう。

 すっかり安心して、巻き付けた布を一枚減らしながら元の位置に腰を下ろした。




 だというのに。

 レオカディオが手元に注がれていた白湯を飲み干し、保温釜から注ぎ足したぶんが水になっても、ヒメナはまだ姿を見せなかった。


 新しく仕事が舞い込んだのだろうか?


 それとも先ほどの客が、中で厄介事でも?


 一番想像したくないのは。頭を振って振り払おうにも、言葉は勝手に続きを紡ぐ。

 一番想像したくないのは、彼らが異国の行商人で―己よりもっとヒメナを引き付ける商品を見せていること。

 こんな誰もが恐れ拒絶される仮面をつけた男に今まで向けてくれていたあの熱、ヒメナの瞳の蕩ける色、あれを今まさに失おうとしているのではないか。想像だけで心に冷たい水が注ぎこまれる。

 今この手にある他のなにを失っても、それだけは失いたくない。

 レオカディオにはもう彼女しか、ヒメナしか居ないのだ。

 全身が仮面の呪いに蝕まれ、虫さえ恐怖したって、ヒメナが居るなら幸福を感じていられる。何年も自分のせいじゃない孤独に耐えてきたのだから、たったひとつくらい望んだって構わないだろう?


 信じてもいない神に話しかける。祈る。

 呪いから解放されたいだなんてもう言わないから、ヒメナだけは奪わないでくれ。

 どうか。

 今すぐにでも様子を見に行きたいけれど、悪い想像ばかりが続いて足が竦む。部屋を出れば人がいる、他人がレオカディオを見れば間違いなく恐慌し騒ぎになるだろう。

 布を被れば緩和されるが、彼らはもう恐怖を知っている。一度経験したものを、人はけして忘れない。

 彼らの記憶が仮面を後押しする。

 そうやって辺りに混乱を撒き散らしながら行ったその場所で、ヒメナがべつのなにかをうっとり見つめ、頬を染め微笑んでいる……。


「やめてくれ」


 小さく呟くも、想像を止めてくれる彼女はまだ現れない。はやく、はやくきてくれ。頭の中で幻像がいつか自分を罵った姿と混じる。

 ヒメナはあれらと違うんだ。ヒメナが顔を白くして、目を見開いている。ちがう。喉が引きつる音、ちがう、ちがうちがう、ちがう!


 思わず戸に手をかけて、はっとした。深呼吸をすると、芳しい香りが肺いっぱいに広がる。

 ヒメナの微笑みを、温もりを、信じていないわけじゃない。すこし時間がかかっているけれど、彼女は間違いなく戻ってくる。

 何も考えないことは得意なはずだった。頭の中を白色の壁で遮るように。

 落ち着いてみれば、不安は希望があるからこそだとも思えて、レオカディオはまたふたりの定位置に座り込んだ。階下は静かなままだ。





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