木箱の隙間にあったもの
じっとり湿った空気を思い出していると、戸が引かれる。鼻が甘い香りを捉えて目を開けた。いまの己の唯一が戻って来た。
動き方を忘れた表情筋が、無意識に笑みを形作る。
優美なそれと、触れてくる指先の返事。仮面越しの玉肌に触れたくて、レオカディオは手を重ねた。年齢相応に骨ばった手は白くなめらかで、見世物の歳月を語る。
軒先では灯火が赤く燃えていた。寄り添うふたりは、時を巻き戻したと同じ姿。赤い唇が孤を描く。
「続きを聞かせて、レオ?」
「ああ。あの日、座長は俺を売ろうと―売り渡す、というのではなくて、ええと、貸す、というか」
「大丈夫、わかるわ」
「そう、そういうつもりでいたのに、モニカが嫌がって、俺を隠した。木箱の隙間に」
それも、ここしばらく動かされてないものの多いあたりで、腰を下ろすとざらり砂が指先に触れた。
埃がきらめき、空気が乾いている。
かび臭い隙間で、モニカの熱く湿った手が鮮明だった。
他の一座では人間を加工して異形の見世物にしているという。比べようとしなくても、ここはずっと人道的で良心的なことをしようとしている。
レオカディオにもわかっていた。座長の娘であるモニカや、人間を苦手としているリッドより、自分が適したことだ。
喜ばしくはないけれど、徹底した嫌悪も持っていない。はじめはそうなるはずだったのだ。
モニカの手がもたらす逃避は、長い時間になりようがない。座長は荒い足音で幌馬車に踏み入り、器用に小さく怒鳴りつけた。
「やい、レオ、レオカディオ。わかってんだろう。早く出てこい、大丈夫だ、無体なことはされやしない」
優しい客を選んでるんだ、だからよお。なあ。かたん、がたん。声が離れ、近付き、大きくなる。
モニカの息が細く深く、レオカディオの髪を撫でていた。
父親を警戒する少女をじっと見つめていた。
「ったく、大人しく出てきた方が幸せに違いねえんだぞ、おい、ここに居るんだろう。レオ、出てこいよ、なあ、おい。聞いてんのかよ、よお。大丈夫だぞ。」
モニカだけが焦り、緊張していた。彼女だけが受け入れない。彼女だけが。
だいじょうぶ、だいじょうぶよ。
父親と同じ言葉を繰り返し、黒髪を撫ぜる。薄暗闇で目を凝らし、彼女は何か探しているようだった。辺りには木箱しかないし、レオカディオには同じにしか見えない。
「だいじょうぶよ、あなたにさわらせたりしない。守ってあげる、守ってあげるから」
まだ引き返せる。レオカディオはとっさにそう思った。なにか、モニカが愚かなことをするのではと思ったのだ。このとき彼女はたしかに大事な友人だったから、無茶をする前に止めなくては。
柔らかい手のひらが湿っていた。
座長の舌打ち。
いよいよこの逃避行も終わりに迫る。
そこで立ち上がる気配を察し、咄嗟に引き留める。姉のような微笑みが向けられた。だいじょうぶよ。もう一度言った。だいじょうぶ、見つけたから。
いったい、何を。
訊ねる前に、モニカは腰を落としたまま進んだ。座長の声が二人の息を隠している。
いっそ立ち上がって名乗り出ることも考えたけれど、受け入れると望まないではまだ後者が強かった。
黙って服を握りしめる。
モニカは静かに埃をきらめかせながら、箱のひとつを持ち上げた。少女が両手で持てる、薄い箱だった。
目的に届いた油断からだろう、モニカは箱を掲げてレオカディオに見せびらかそうとして、そうして、箱の中身が、音を立てた。かたん。か細い吐息は紛れても、明らかな物音は座長の耳に届いてしまう。
座長が振り向く。
男の顔には安堵と嘲りを混ぜた笑みが浮かんでいた。
方向に検討を付けた座長はぐるり見渡して、まっすぐレオカディオをとらえた。影の濃いところに潜んでいたのが、彼にはかえって幸運だった。
黒い髪は紛れるけれど、なにせ目印がある。
モニカは小さく息を飲んで、レオカディオが見世物一座に売られた理由を思い出していた。
彼の瞳が、──暗闇で光る、ことを、忘れていた。
見間違えようもない目印を目指し、座長は木箱の迷路を抜ける。
彼より自分の方がレオに近いと咄嗟に判じた少女は、小さな両手で木箱を抱え走る。
低く、驚きの声が名前を呼んだ。迷路を縫う座長の慣れた足取りにモニカはいっそう焦って、まろぶように戻ってくると慌ただしく箱を開け、中身も見ずに手に取った。
「モニカッ」
「だいじょうぶ、これでっ!」
座長の声が鋭く飛ぶ。
焦っている、何にと答えが出る前に少女の手がなにかを押し付けてきた。硬い木の感触がぶつかって、合間の空気を失った。
「これで、もうだれもレオカディオに近づけなくなる!」
小さな手が離れても、顔には何かが張り付いている。勢いに瞑った目をゆっくり開いた。
包んでいた布が、膝に落ちた。
思い出したレオカディオは、無意識に拳を握った。叫び声が耳に残っている。他の何百回怯えられたよりずっと、最初、親しくしていた彼らにそうされたことが辛かったのだ。
ヒメナは優しく微笑んだ。自分は怯えないと、すべての根源である仮面に口づけさえもして。
話の続きを思い出す。話の最後を。最初の、最後を。
「二人は、怯えて。もちろん、買おうと来ていた客も。でも、落ち目の座長は好機も見た。異形を作るより人道に則っていて、猛獣よりも扱いやすい。これほど恐ろしいものは他にないといって人が連日やって来た、でも、国中の人間が見るよりはやく一座のみんなが耐えられなくなった」
仮面の下を知っていても、性格を知っていても、またはなにも知らないままでも、仮面の恐怖は同じ一括りだった。
モニカは自分から近寄って来たけれど表情にはいつも恐怖が表れていて、次の機会に手を伸ばしてくることは無かった。レオカディオは売られた。
比肩するもののない恐怖はどこの一座でも話題になった。
暇を持て余した富める者らは身を震え上がらせて、どこも彼を真に受け入れないまま転々と所属を変えさせられた。
だれも近付けなくなる、と、少女の言った言葉は真実だった。言葉は仮面の呪いを含んで、レオカディオを孤独に落とし込んだ。
仮面を撫でるしなやかな手に触れる。ヒメナと出会ってから、失ったと思っていた温もりが傍らに添う。
もう、自分にはヒメナしか居ない。
仮面に落とされた唇と髪を撫でる手に、彼は光る眼をそっと閉じた。