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窓格子、陰日中



 地下に一、地上に三の階を持つヒメナの店で、最上階はすべて私室となっている。

 そのうちの、表通りが見える最も日当たり良い中央がレオカディオのものとなった。彼を外に出すことはできず、ヒメナにそのつもりもない。せめて見晴らしの良い賑やかな街が、ひとり部屋に留まる彼の慰みになれば、などという。

 しかし真昼間の明るい光はすぐに陰ることになった。ヒメナの希望で仮面を覆う布が外されると、その異様な雰囲気がとたん空気を澱ませたのである。

 不穏は時と共に堆積して戸の隙間から漏れ出した。たかが布一枚がどうしてこれほど噴出する恐怖を抑え込むのか誰にもわからなかったが、違いは歴然だった。仮面を晒して過ごす彼の部屋へ、今や使用人でさえ近付けない。全面を覆う面格子の付いた三階の窓越し、目も合わないままの通行人が向き合って叫び声をあげたのだ。

 気が進まなかったけれど、ヒメナは使用人の悲痛な訴えを了承した。この世の邪悪を凝り固めた呪いの仮面を曝してはならない、世界と人のために。

 いまレオカディオは、仮面だけを布で覆って過ごしている。

 商人に連れてこられた時のような全面を覆う円柱ではなく、整った顔立ちを下半分顕わにしたかたちだ。ほんの少しめくれ上がっただけで周囲を阿鼻叫喚に陥らせかねなくとも、部屋から出なければ渦を生み出すこともない。気配さえ和らげば使用人が部屋の前まで食事を運ぶこともできるようになる、それも精神の強い者に限られたが。おかげで、部屋の前はいつも冷や汗で湿らされていた。

 ヒメナはこれ以上ふたりに障害を挟ませなかった。もう譲れない。怯える使用人らのためもあって、引退して胸の高鳴りに身を任せられる環境に引きこもろうと決めたものの、すべて明け渡すには全員そろって未熟すぎた。

 大樹を掘れば大穴が残るのは道理、埋める土を用意せずに去れようか。店を大きくしなければ、なんて冗談でも言いやしないけれど。


 だって、でなければ彼を買えなかった。これほど心震わせ充足した日々を過ごせなかった。見るたび、触れるたび心臓が早鐘を打つ。叫ばれる恐怖の由来がわからない、ヒメナの心はこんなにも浮足立つのに!


 まったく恋というのに相応しく、高揚と緊張がいつもヒメナを満たしていた。仕事のため離れるわずかな間も、ずっと彼のことを気にしている。

 こんなにも誰かのことを想い続けたのは初めてだ、心臓が自分のものではないみたい、世間ではこれを「楽しい」とか「わくわくする」というのでしょう?

 相手のことが知りたいという欲求もとめどなく湧いてくる。歌謡曲が歌っていた通りだ、『あの人のことが知りたいの』。いつだって気になって、考えて、なんだって知りたい。今なにをしているのか、今までなにをしてきたのか。


 過去について知っているのは、あの肥った商人が話したことだけ。

 なんでも南の国で見世物一座(サーカス)を転々とし、世にも恐ろしい仮面として展示されていたという。しかし冗談にするには恐ろしすぎ、刺激を求める人々すら敬遠するようになって、とうとう国を出たそうだ。

これだけでは足りない、と、ヒメナはレオカディオに何度も話を強請(ねだ)った。


 仮面のせいで話す相手もなかったから、レオカディオは寡黙だ。異国の言葉でさらに重くなった口、ただヒメナの求めにだけはいつだって応じた。落ち着いた若者の低音は、仮面さえなければきっと幾人もの女の胸をときめかせていたのだろう。

 薄い唇からこぼれる音は、ぽつんぽつん、雨樋の水滴に似て細切れで、静かな拍子がヒメナのうるさい心臓をいつも少し落ち着かせる。今日は外も細い雨が降っていた。

 肌寒い外とは違い、店の中は至るところ適温に保たれている。

 寄り添うには少し暖かすぎても、ヒメナには関係なかった。


「今日は、そうね。なんの話を聞こうかしら」

「……と、じゃあ。西国の、」

「いいえ。その話も聞きたいけれど、私、貴方が仮面と出会ったときのことがいいわ」


 にこりと笑顔に、レオカディオはしばし逡巡した。細い指先が仮面の縁をくすぐる。他の誰もが跳ねのけるそれを、中指が、人差し指が辿って、また輪郭に戻る。


「いいでしょう、レオ?」


 しな垂れかかるたおやかな肢体。甘い香り。凄艶な彼女の氷肌は人離れして、なのに布の向こうで熱を放つ。

 期待の込められた声に、頷かないではいられない。買われたレオカディオに拒否の権利が無いのはもちろん、彼が喜ばせられる相手はいまヒメナしか居ないのだから。


 記憶はとっく奥底にしまい込んでしまった。あまりにも憂鬱な記憶。

 人生の全てを孤独ひとつに彩らせたかつての日、仮面の下でいま伏せた彼の瞳の色をまだ誰かが知っていたころ。




 

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