うつくしい女の
幼いころから、ヒメナは「うつくしい」と並んで「度胸のある娘」だと言われ続けてきた。
村一番の強面にあやされても泣かず、崖際の花も平然と摘みに行き、罠にかかった生きた鳥を捌けるようになるまでも早かった。夜の闇も、荒れ狂う風雨も、家畜を殺す狼の唸りも彼女を震えさせられなかった。たった一度だって、恐ろしい、と感じたことがなかったのだ。怪我をすれば勿論痛む、けれどそれだけ。流れ出る赤い命に感情は生まれない。
それは恐怖に限らず、感動も喜びも悲しみも、すべて等しく。つまらないことだけはずっと知っていた。
心に琴があるのなら、ヒメナのそれには弦がなかった。
代わりになんとか学習を重ねて、琴の音に似せた歌を覚えた。
人が死ねば悲しく、生まれれば喜ばしい。眉を下げ唇を噛む、あるいは目を細めて口角を上げる。
相手の言動に合わせて蓄えた知識の中から一般的な最適解を見つけられる程度には、ヒメナは優秀な女優だった。
成長して今の大店を持つようになるまで、彼女以外が同じ筋道を歩めば控えめに数えても両手足で足りない数の自殺をしてきた。けれど未だに恐怖も安堵もやってこない。
装いが身に付き、時間と金が出来て、立てていた目標が成されてようやく気が付いた。例え飢えた猛獣の檻に閉じ込められたところで抵抗しようと思えない、なんとつまらないことだろう!
そうして金に糸目をつけず求め始めた、自身の心を揺らすものを。
少女の叫び声は、店の地下にまで聞こえていた。従業員が足早に駆けてきて、ソレを見て即座に息を飲み、叫び、泡を吹いて失神する。男も女も、倒れ込む先にさえ気を使えない。
雇い主は彼らの様子を横目にも見ず、男の正面ににじり寄った。商人は信じられずに横顔を追って、黒尽くめの彼を視界に入れかけ目を閉じた。
男は動かない。僅かに上下する胸元と肌の透明感が彼に生々しさを加える唯一だった。細い女の指が、男の頬に届く。
布を持ち上げるふたつの手は、哀れにがくがく震えている。赤い爪がそっと輪郭をなぞり、髪を払って、晒された上半分に触れた。
青年の顔の上半分は、仮面に覆われていた。
ただの仮面ではない。悍ましく、禍々しく、邪悪で醜悪。思いつく限り悪し様の形容詞をあげつらってもまだ足りない、見たものの背筋を凍らせ吐き気をもたらす鮮烈な恐怖。
視界の端にあったとて、身の毛がよだって全身が震える。悪鬼羅刹が、地獄が、ありとあらゆる絶望が怨嗟が凝縮された形ある死。
不気味だというだけなら、いくらだって見てきた。生きたまま四肢が腐りゆく病人も、その腕に集る蛆も、撒き散らされたはらわたも、溶ける死体も嬲られる親子も膨れた腹に枯れ木の枝で抱えた我が子を食らう様さえ。
それでも何も思わずにいたというのに、ただ木を彫って作られた仮面に―心を揺さぶられた。
仮面の造作は、恐怖を求めて作られていない、むしろひどくうつくしい仮面だった。なのに、存在するだけで恐怖をもたらすほかない。
一度も視界にとらえていない商人も、すぐ後ろにそれがあるだけで遠のきそうな意識をどうにか繋ぎ止め、点滅する視界と止まらない脂汗に服の色を変えながら耐えている。
唇が触れかねない距離まで顔を寄せると、ぼんやりしていた男の焦点が急に定まった。瞳は琥珀の色をしていた。
はあ、再度吐息がかかってしなやかな指先が仮面を撫でる、男はその色香にゾクリ背を震わせた。
「貴方、名前は?」
吐息が唇を撫でる。花の香りがする。男は久しく出していなかった己の声がこの女性の耳に入るに値するか考えた。薄い唇が開かれる。舌がもつれる。仮面の表面を紅の爪が辿って、彼女の視線は指の後を追っている。
「れ、レオ。レオ、カディオ。レオカディオだ」
自然と覚えた母語でない言葉は口の中で絡まって、名前だけを繰り返した。
ヒメナは優しい声音で「そう、レオカディオ」と名を呼ぶ。レオカディオは、もしや今は久しく見ていない夢の中にいるのだろうかなどと考えて、まばたきもせず女性の姿を見つめ続けている。叫び声はいつの間にか途切れ、外に野次馬が集まってきていた。累々を乗り越えて新たに近寄る者はもうなかった。
ヒメナはレオカディオの左右で布を持ち上げている白い手に触れた。顔を覆うそれを受け取り、名残惜し気に仮面をなぞって微笑むと、元のように下ろして閉じる。
留め具はしなくていいだろう。持ち上がったレオの手を軽く握り、逆の腕を首に絡める。先ほどまで触れていた場所に布を挟んで唇を落とす。
滑らかな生地の向こうに硬い感触、レオカディオは小さく肩を揺らした。繋がる糸を惜しむかのように、ゆっくり体を離す。
商人は頑なに背を向け続けていたが、仮面が布の内側に消えた瞬間消え去った悪寒に、安堵で腰を抜かしていた。
「買うわ、此れほどだなんて期待以上……。用意していた倍をお出ししましょう。本日はどうぞ、心ゆくまでお楽しみくださいまし」
軽く握ったままの手を引いて、ヒメナは己の座に戻る。必死に目を背けていた姿を視界の中央に連れてこられた商人は、必死に焦点を散らしている。
座ったふたりのすぐ横では、案内役をさせるはずだった少女が仰向けに倒れていた。少女の顔は涙と鼻水、吹いた泡で汚れていたので、懐から手拭いを出して拭いてやった。
それから後ろの戸棚に手を伸ばし、手持ちの鐘を取り出して鳴らす。下男が来るまで少しかかった。倒れる人を跨いできた彼は、先ほど逃げたひとりか話を聞いただけの者か。
どちらでも構わないので気にせずに、青い顔を見上げていつものように声をかける。
「用意していた続き間にご案内して」
「かしこまりました、が、今動ける人数が、少々、」
「本日はこちらの方々を優先して頂戴」
「はっ」
鹿爪らしく命じながら、ヒメナの表情はかつてないほど明るく緩んでいた。頭の隅は、冷静に倒れた人数や快方に向かうための時間のことを考えている。人員補充もしなくてはなるまい。
反して、残り全てで手に入れた彼のことを思っていた。
仮面を見た瞬間、雷に打たれたような衝撃があって胸が高鳴った。心臓が痛いほど拍動して、うるさく鳴り響く。己の全てが彼を追っていた。
倒れそうな衝撃がまだ髄を揺らしている。苦しくなるほどなのにまだ足りない、もう一度を求めている。布が遮るあの感情を、ヒメナは思い返して胸を詰まらせる。ともすれば、溺れてしまいそう。
初めて感じる欲求を抑え込んで、もう一度直接触れ合える環境を整えるべく首を捻った。そっと手を握ると、レオカディオは躊躇うように軽く、そうして強く握り返してきた。