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夜になるまで姿を見せぬ




 辺りはすっかり日が暮れ、昼間の穏やかな賑わいは姿を消していた。同じ道を歩く人々も、ぼんやり赤く浮かぶ火の玉のような提灯と共に様相を変えた。この国屈指の歓楽街は夜になるまで姿を見せぬなどと唄われるほど、街は激しい二面性を抱えている。


 ひしめく店らの間を、少女が走ってゆく。

 乱張りの石畳には濃い影が落ちて、ひらりひらり兵児帯のゆらめきが照らされては消える。階下の足音までは届かない。


 背中が小さくなるまでぼんやり見つめていたヒメナは、戸の向こうからかけられた声にゆるり顔を向けた。客が来たという。

 裏通りだけを見下ろすこの部屋から、客の訪れを察することはできない。長い髪が翻ると同時、焚き染められた仄かに甘い香が気配を強める。

 窓際から真上に立ち上がって、広い部屋の上座に腰を下ろした。新興ながら辺りで最も力を持つ大店の店主が、下座で客を迎えることはそうない。ヒメナの隣には、煌々と照る魔法石が鎮座していた。

 この魔法石は店すべての灯りの源であり、幼子ほどの大きさに比例した力は抱える灯りの膨大さを知らしめる。

 並の人間では目にすることもないようなそれを無造作に撫でながら、女主人はやけにゆっくり視線を上げた。長い睫毛が上を向き、濡れた黒曜石が再度の少女の声を向く。


 己が迎えた客だというのに、到着の声を聞いても彼女の瞳は石のように無感動なまま、扇情的に真っ赤な唇を開いて、入室の許可を出した。

 開いた戸の正面に、腰を落とした案内の少女と、その数倍大きな体格の男。後ろに三人の若者を従え、でっぷり太った商人はたるんだ頬を持ち上げた。いつもの口上を述べようとして、ヒメナの姿を捉え、言葉が出ずに唾を飲む。

 石を撫でる手は細く、白い。

 きちり着こなす着物の首すじに、下したままの艶髪がかかっている。片手で隠せてしまいそうなちいさなかんばせには、宝石もかくやこれほど美しからんといった瞳に、ぽってりと赤い唇が、天の采配で並んでいる。

 脂ぎった太い首がいくらはっきりと飲み込んだ唾を示そうと、商人に手を伸ばす権利は与えられていない。呆然と立ち尽くし、目の前の天女を見つめていた。


 だが、それはそう長くは続かない。


 ヒメナは妖艶な微笑みを浮かべ、おっとりと首を傾げた。


「どうぞ、お座りになって?」


 脳髄を揺らす、蠱惑的な声だった。思考がぼんやりとして、何も考えず頷いてしまいたくなる。

 しかし狸の理性は存外に丈夫で、商人の笑みを浮かべて部屋に立ち入った。風の流れと共に甘い香りがする。背後の三人も続き、最後に少女が入って戸を閉めた。赤い着物を纏い、十を越えたばかりの幼い顔を俯かせて静かにヒメナの後ろに侍るが、視線はちらちら連れの一人を見つめていた。視線を追って、ヒメナが微笑む。


「それで、話のものは、後ろの?」


 会話を楽しむ間もなく尋ねられ商人はいささかぎょっとしたが、当然の顔をしたヒメナに抗おうとも思わず頷いた。商人は連れの男ら以外に荷物を持たなかったが、質問にははっきり頷いた。


「ええ、ええ。間違いなく、ヒメナ様のお気に召すかと。」


 二人の視線の先には、連れの男のひとり。ただし他の二人と明らかに異なる様相をしている。

 若そうな雰囲気だが、実際の年齢は分からない。というのも、その男は一部の隙もなく顔を覆い隠していたせいだった。

 木枠でもはめ込んでいるのか、首に乗った大ぶりな円柱に分厚い布が被せられ、正面の合わせ目は僅かも開かぬよう重ねて留められている。服装も頭と同様に黒く、ゆとりある形は体型さえも知らせなかった。おそらく二十代だろう、と幾人もの男を見てきた経験から推察するも、十代、あるいは五十代でもおかしくはない。


 商人の目くばせに、部下らしき若者ふたりが手を震わせながら男の布に手をかけた。少女が動きを横目で見ながら、ヒメナと商人の杯に濃茶の茶酒をとくり注ぐ。茶酒は酒精を含んだ茶で、一般家庭でもよく飲まれていた。若者たちが、それぞれ上下の留め具を外す。

 興味深げな表情で、ヒメナの瞳の奥にはつまらなそうな色が潜んでいた。いままで何度も「気に入るだろう」とさまざまなものを紹介され、一度たりと期待は叶えられなかった。

 渦中の男はじっとしていた。左右の若者の手が布を持ち上げる、円柱が少しずつ割れてゆく。内を見ようとするのはたったふたり、少女とヒメナだけだった。白い首筋が顕わになる。商人は頑なに振り向かない。しみひとつない肌はやはり若者のそれか、そして顎、鋭い角度は精悍な印象を滲ませる。

 もったいぶるように、いや実際にもったいぶって、布はのろのろ持ち上がってゆく。

 薄い唇、高い鼻梁。顔の半分が晒されたところで一旦ふたりの手が止まる。そこまででも男の美貌を察することができ、少女は密かに胸を高鳴らせたがヒメナはつまらなそうに脇息に凭れた。うつくしいものならば、鏡を見れば済む。ヒメナが求めるものはそんなものではない。

 しかしその表情に、艶やかな顔をひたすら見つめる商人は自信を返した。単なる下心とは別に、後ろを振り向かないための注視に見えて、ヒメナは少し体を起こす。


「ご安心ください、ヒメナ様。これを置いて、他に貴女様を満足させられるものは存在しないでしょう」

「まあ、其れほど?」

「ええ、そうですとも。ほらお前ら、お待たせするでない。」


 早く持ち上げろ、と片手を上げて急かす間も視線はひたすら前を向く。布を持つ手に力を込めて、若いふたりは悲壮な覚悟に目を瞑る。

 布が持ち上がる。ばさり、音がやけに大きい、空気に一瞬の間が生まれて割かれる。


「ひっ、ぃ」


 引き絞られた少女の喉から、擦れた声が勝手に漏れた。若者らはがくがくと震え顔を伏せ、商人は必死に半笑いで視野を狭めている。少女は飲み込んだ空気に身体中の血液が押し出されるように思って、震える自身を抱きしめたけれど、ちっとも押さえつけられてくれない。息を吐いたら共に自分から追い出されてしまうとでも思っているのか、息を詰めたまま青白い顔で強張っている。

 けれど、いつまでも呼吸を止めてはいられない。叫び声が破裂する、その一瞬前に甘やかな震えが起きた。


 ──ほぉ。


 密度の高い、陶酔の溜息。

 頬を紅に染め、瞳を蕩けさせ、唇から白い歯が覗いている。胸を抑える細い手、信じられない反応に商人が目を見開き、声をかけようとしたが、一拍早く掻き消された。


「ひっ、ぃやああああああ!」


 少女の声が絹を割く中、たったひとり、ヒメナだけがまっすぐ布の内を見つめていた。表情には、微笑みさえ浮かべながら。




 

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