川辺の靴
「皆、川には入らないこと。判ったな? 真里菜パパとの約束だぞ?」
そう言うと、目の前に並んだ六人が「はーい」と声を合わせる。
この日、津山大輔は、友人家族と共に山間にある川へと遊びに来ていた。
川辺にキャンプ用のテーブルやチェアを並べ、バーベキューに興じていたのが十二時頃。
めいめいにバーベキューを堪能し十分に腹が膨れたとなれば、子供達は遊びたくて仕方がない。
三兄妹の年子に、二歳差の兄弟。そして津山の愛娘真里菜の六人だ。下は四歳から上は八歳まで。まだまだ十分に注意が必要な年齢だ。
六人いる大人の内、何故か大輔は子供によく懐かれているということもあり、こうして家族ぐるみの付き合いをする時は、いつも子供の世話を担当していた。
これはこれで道具の準備や、食材の支度などをしなくても、次々に料理が運ばれてくるから、ある意味変に張り切らなくても済んで助かっている。
──とはいえ、子供達に何かあったらただじゃ済まない。
「あ、ほら、それ以上は駄目だぞ!」
やんちゃ盛りの八歳児に注意すると、「えー行きたーい」と文句を言いながらも、渋々とこちらまで引き返してくる。
「ほら、こっち見てみろ。ちっさい魚が居るぞ」
水溜まりのようになっている場所を示すと、わぁっと子供達は寄って来て、水溜まりを覗き込んだ。
「ねぇ、焼きバナナ出来たよ」
その時、妻の由奈が紙皿を手に歩いて来ながら言った。
「おー、さんきゅ」
それを受け取り、大輔はすっかり水溜まりに集中している子供達に声を掛けた。
「焼きバナナ、食べる人ー?」
再び六人の声が「はーい」と揃う。
一人一人にスティックに刺して渡し、座って食べるように、と言う。子供達は言いつけ通り川辺の石に座り込み、チョコレートやマシュマロで飾り付けられた焼きバナナに瞳を輝かせている。
「よぉ、相変わらず子供遣いだなぁ、お前は。いつも助かってる。うちの子達もお前に会えるの楽しみにしてるし」
「いやぁ、照れるなぁ」
友人の言葉に冗談で返しながら、目の前でじっと見上げている真里菜に焼きバナナを渡そうとした大輔は、空の皿を見下ろした。
「ん、あれ? 真里菜ちょっと待ってな。──おーい、一個足りないぞ」
「えぇ? ちゃんと六個載っけたわよ。大輔が食べたんじゃないの?」
「食べてないよ。──ちょっと待ってな」
既に焼きバナナにかぶりついている他の子供達を、ポツンと羨ましそうに見つめる真里菜のご機嫌を窺いながら由奈が新しく作るのを待っていた大輔は、ぼんやりと子供達に目を向け、頭の隅でその数を数えていた。
いち、に、さん、し、ご、ろく……。
──ろく?
真里菜はじっと大輔のTシャツの裾を掴んでいる。
目を瞬いてからもう一度数える。
いち、に、さん、し、ご……。
──いや、全部で六人か。
「お待たせ。ごめんね、真里菜」
「うん!」
由奈が駆けて来て、真里菜に焼きバナナを手渡すと、途端に笑顔になった真里菜は、川辺で屈み込む子供達の群れに加わっていった。
「ねぇ、どっかに落ちてない?」
辺りを見回しながら言う由奈に、釣られるようにして確認するが、何処にも焼きバナナは落ちていなかった。
「んー、確かに六個あったんだけどなぁ。一本をふたつにしてるから、六個。ね?」
怪訝そうに言う由奈の肩を、大輔は励ますように軽く撫でた。
「まぁ、真里菜の分はあったんだから良しとしよう。もしかしたら、こんな山奥なんだ。天狗とか、そういうやつの仕業かもよ」
「もう、やだ。そんな訳ないでしょ」
呆れたように笑いながら、由奈が大輔の腕を叩く。
それに応えた大輔は、焼きバナナを食べ終え、今度こそ川に入りたいと騒ぎ出した子供達の許へと向かった。
そうして軽い水遊びをする内、山間らしく早くも日が沈む気配が辺りに漂い出した。
真里菜などは遊び疲れて寝てしまって簡易テントの中にいるし、大人達は片づけを始めていた。
「ほら、ちゃんと足拭くんだぞ」
「拭いてるよー!」
叫ぶように言う子供達の頭を撫でながら、ふいにTシャツの裾を引かれた大輔は振り返った。
「うん? 真里菜起きたのか?」
しかし、その先に真里菜の姿はなかった。慌てて辺りを見回すが、子供の頭が六つあるだけだった。
──むっつ?
大輔は足を拭く子供達の数を数え直したが、しかし当然、答えは五つ。
何処か納得出来ない気持ちで振り返り、由奈に呼び掛ける。
「なぁ、真里菜は?」
「寝てるー」
そう言って由奈は簡易テントを指差す。開いた入り口から、小さな影が見えるから、そこに確かに真里菜は居るのだろう。
釈然としないまま再び子供達を見やると、足を拭き靴を履き終えた子供達がパッと駆け出した。
「ねぇー、ねむい!」
「ばんごはんどこでたべるのー?」
「なぁに、まだ食べるの?」
「のどかわいたー」
「あぁ、ほら、これ飲んで」
それぞれに好き勝手に話し始める。
それに笑みを浮かべてから、忘れ物がないかと辺りを見回した大輔は、ポツンと小さな靴が残されているのに気が付いた。
「おーい、誰だ靴を履いてないのは?」
そう訊くと、子供達は不思議そうに互いの顔を見合わせた。
「はいてるよ」と一人が言うと、次々に「はいてるよ」と繰り返す。
「もう、本当?」
それぞれの親が確認するも、言った通り皆しっかりと靴を履いていた。
「じゃあ、真里──」
言い掛けた大輔は、手にした靴に目を向け、眉を寄せた。
流石に我が子がどんな靴を履いているのかは判る。
真里菜は、このような地味な靴は履かない。それに、なんだか色も変だ。
薄い水色に、茶色の染みのような色が付いている。全体的に潰れて、汚れているように見えた。
次の瞬間、ひやりと冷たいものが胸をよぎり、大輔は焦りを隠しながら、その靴を元の場所へと戻した。
「何処かの誰かの……落とし物かな。ひとまず戻しておこう」
今日、この川辺で遊んでいたのは、もっと早い時間に老夫婦が一組だけ。昼頃に帰ってからは、大輔達のグループしか居なかった。
──あの模様……。いや、考えるのはよそう。
そうして子供達を見守りながら片付けを済ませた大輔は、友人達に別れを告げ、車に乗り込んだ。
後部座席では、真里菜がすっかり眠り込んでいる。
山道を抜け暫くすると、それぞれの家に向かって道を分かれていく。
それを見送って、意識的にも家族だけという感覚になってから、大輔は運転席の由奈に言った。
「そういえばさ、さっき子供の靴あったろ。あれさ、血っぽいものが付いてたんだよ」
「えっ⁉」
慌てた由奈がハンドルを動かし、車が揺れる。
ドキドキとしながら息を吐き、ちらと由奈と目を合わせる。
「……ごめん、それで……血が付いてたって?」
「いや……判んないけど。茶色の染みが付いててさ。……もしかしたら──」
「やめてやめて! 怖いから!」
由奈の声に口を閉ざす。
暫くすると、由奈は不安を滲ませた。
「それってさ……警察に連絡しておいた方が良いのかな……?」
確かに、大輔も一瞬そのことを考えた。しかし──
「いや……誰かの靴かもしれないって思ったのが不思議なくらい古そうだったし、ここらで子供が居なくなったって話聞いたことないだろ? だから……多分、大丈夫……だと思う」
重い沈黙が車内に落ちる。
「ままー、おうちついた?」
ふとした声に振り向くと、目を覚ました真里菜が目元を擦っていた。
「まだちょっと掛かるから、真里菜は寝てていいよ」
「うーん……」
真里菜はやはりまだ眠そうで、座席の上で寝返りを打つと、再び寝入ってしまった。
その様子を暫くルームミラー越しに眺めていた大輔は、家に帰りつくまで、極力明るい話をして過ごすこととした。
「えっ、びしょびしょじゃない!」
家に着き、後部座席のドアを開けた由奈が悲鳴を上げた。
トランクを開けて荷物を取り出していた大輔は、慌てて車を回り込み、由奈の横から車内を覗き込んだ。
中途半端に由奈に抱えられた真里菜の向こうの座席が、確かにぐっしょりと濡れている。
「え、おねしょ……か?」
そう言って確認するも、真里菜の服は何処も濡れていなかった。
「やだ、ちょっと掃除道具持って来てくれる?」
由奈の言うのに頷き、幾つかの荷物を持って自宅マンションのエレベーターに乗り込んだ大輔は、色々と考えを巡らせながら、ふとエレベーターの窓に目を留めた。
それぞれの階と階の間に、真っ暗になる瞬間がある。
窓に反射した大輔の少し後ろに、何かを見た気がしたのだ。
振り返るも、当然そこに何かが居るということはない。大輔は一人でエレベーターに乗り込んだのだから。
川辺での、大輔のTシャツを引いた小さな力を思い出し、ゾクリとする。
──いやいやいや……。
もう一度よく見ようと再び窓に目を向けた大輔だったが、軽い音を立てエレベーターの扉が開いた。
玄関先に荷物を置き、掃除道具を持って車へと戻る。
「俺がやっておくから、真里菜連れて行って」
「うん、よろしくね」
大輔が言うと、由奈は真里菜を抱えて自宅へと戻って行った。
改めてびっしょりと濡れた後部座席を眺める。顔を近付けて臭いを嗅いでみるが、全くの無臭──いや、若干土のような臭いも混ざっているか。
しかし、拭き取ってみても汚れが付くということはなく、やはりそれは〝水〟であるのだと判った。
掃除を終え、改めて車内を見回すも、原因となるようなものは見当たらなかった。
「真里菜はちゃんと拭いたけどなぁ……」
真里菜はこちら側に座っていないし、荷物は全てトランクか足元に置いていた。窓も当然閉まっていたし、これほどまでぐっしょりと濡れるようなことが起きれば、すぐに気が付くだろう。
真里菜を車に乗せる時には、濡れてなどいなかったのだから。
そうして納得がいかないまま掃除道具を片付けた大輔だったが、その日から、消えぬ違和感を抱くこととなった。
家に居る時。
一人で居る時はすぐ近くに。
家族と過ごしている時は別の部屋で。
何かの気配をふと感じることがある。
ただ、少し不思議な体験をしたことで、敏感になっているんだろう。
そう考えるも、それだけでない〝何か〟を強く感じるのだ、といつしかその考えに囚われるようになっていた。
そんな思いを抱えながら過ごす内、徐々に疲労が溜まり出掛けるのも億劫になってしまった大輔を置いて、由奈と真里菜が外へと出かけたある日。
ぼんやりとリビングのソファに座っていた大輔は、玄関から聞こえた音に、少し遅れて意識を向けた。
「由奈? 真里菜? 帰って来たのか?」
返事はない。
その代わり、ピチャ……という音がした。
耳を澄ませる大輔のもとに、続いてパタパタンという軽い音が届いた。
ガバリと体を起こした大輔は、恐る恐る廊下へと向かうと、ゆっくりと玄関を覗き込んだ。
ぐるりと見回し、そして──
「ひっ……え……ッ?」
小さな悲鳴を上げ、慌ててリビングへと戻る。
全身の毛穴がぞわりと立ち、息が苦しくなる。鼓動がドクドクドクと高鳴る。
玄関にあったのは──あの、靴。
川辺で見つけた、あの薄汚れた子供の靴だった。
──な、何で……あの靴が……?
当然、拾ってなどいないし、その後家や車の中で見掛けたということもない。
由奈と真里菜を見送った時には確かになかった筈だし、その後玄関には行っていない。
トッ──トッ──。
その時、大輔の耳に小さな音が飛び込んで来た。
水気を含んだ小さな音が、玄関から続く廊下から聞こえている。
トッ、ピチャ──トッ……ピチャ──。
大輔は、廊下に目を向けることが出来なかった。
明らかな気配に、存在に、動きを止める。
トッ……ピチャ──トッ……。
ふいに止んだその音に、しかし変わらず振り向くことが出来ない。
どれだけその状態が続いただろう。
一瞬のような、もっと長い時間だったような気もする。
変わらず動けずにいた大輔は、振り向くべきかと悩んだ。いやしかし……そう考える内、ふとした音が届いた。
「おとうさん」
ハッキリと。
小さな子供の声で。
確かに、大輔に向けられて。
「おとうさん……」
縋るような声に、大輔は由奈と真里菜が帰って来るまで、動くことが出来なかった。




