締め付けからの解放と、極楽の湯浴み
「……くっ、苦しいわ。ガブリエラさん、もうその辺りで勘弁してちょうだい」
朝の着替えの最中、私は思わずドレスの胸元を押さえて椅子にへたり込んだ。
鏡の中に映る私は、豪奢な刺繍が施された美しいシルクのドレスを纏っている。けれど、その内側は悲惨なことになっていた。コルセットという名の、硬いクジラの髭(のような素材)が入った骨組みで、容赦なくウエストを締め上げられているのだ。
五十を過ぎた肉体にとって、この「締め付け」はほとんど拷問に近い。
前世の真理子だった頃、私はいつからワイヤー入りのブラジャーを手放しただろうか。気がつけばクローゼットの中は、ユニクロのブラトップと、ウエストが総ゴムのストレッチパンツばかりになっていた。
「お洒落は我慢」なんて言っていられたのは、せいぜい三十代までだ。五十を過ぎたら、美しさよりも「血流」と「呼吸のしやすさ」の方が百倍大事。締め付けられると胃酸が逆流してくるし、何より肩が凝って頭痛がしてくる。
「しかし、王太后様。これがソルディス王国の貴族女性の正しい嗜みでございます。胸を高く突き出し、ウエストを限界まで絞ってこそ、王族としての威厳が……」
ガブリエラさんは生真面目な顔で紐を引こうとするけれど、私は首を激しく横に振った。
「いいえ、ガブリエラさん。息も絶え絶えで顔色を真っ青にしている王太后なんて、ちっとも威厳がないわ。大体、人間は呼吸をして、ご飯を美味しく食べて、元気に動けてこそよ。こんな鎧みたいな下着、毎日着ていたら命が縮んじゃう」
私はマリエルの記憶を必死に手繰り寄せた。
この世界にも、衣服の仕立てを専門とする「お針子」たちが王宮に囲われているはずだ。
「ガブリエラさん、今すぐお針子の一番若い子を呼んでちょうだい。伝統に縛られていない、頭の柔らかい子がいいわ。私のドレスを、根本的にリフォーム(仕立て直し)します」
三十分後、私の部屋にやってきたのは、大きな裁縫箱を抱えてガタガタと震えている少女だった。
名前はニナ。今年で十八歳になるという、見習い上がりの若手お針子だ。
「王、王太后様……! お呼び出しに応じ、お針子のニナ、参上いたしました。私の、どのような無礼がお気に召さなかったのでしょうか……っ!」
今にも泣き出しそうなニナに、私はお茶を一杯勧めて優しく微笑んだ。
「怒っているわけじゃないのよ、ニナ。あなたに、ちょっとした『発明』を手伝ってほしいの」
私は机の上に、前世の記憶を頼りに描いたいくつかのデッサンを広げた。
それは、現代日本でお馴染みの「キャミソール」や「ペチコート」、そして「サロペット」や「割烹着」の図面だった。
「ニナ、この国の女性の下着は、どうしてこんなに硬くて融通が利かないのかしら。もっとこう、身体の動きに合わせて伸び縮みする素材はないの?」
ニナはお茶を飲んで少し落ち着いたのか、職人の顔になって図面を見つめた。
「伸び縮み、ですか……。それでしたら、お好みの素材ではないかもしれませんが、東の森に生息する『チュル蜘蛛』の糸を紡いだ布がございます。あれは非常に強固で、引っ張ると元の長さの倍以上に伸びるのですが……独特の弾力があるため、型崩れしやすく、貴族のお召し物には不向きとされております」
「それよ……!」
私はポンと手を叩いた。それこそが、地球での「ポリウレタン」や「エラスタン」、つまりストレッチ素材の代わりになる。
「ニナ、そのチュル蜘蛛の糸を細い帯状に織って、平たい紐を作ってちょうだい。それを、この図面にあるように、スカートのウエスト部分の『布の筒』の中に通すのよ。紐で結ぶのではなく、その帯自体が縮む力で、腰に引っかけるようにするの」
「えっ……? 紐で縛らないのですか? そんなことをしたら、お腹の大きさに合わせて、勝手に伸び縮みしてしまいますよ?」
「そこが良いんじゃない! ご飯を食べた後もお腹が苦しくないし、脱ぎ着も一瞬よ。これを『ゴム仕様』と呼びましょう」
ニナは目を見開いた。彼女自身、毎日重いドレスのコルセットに苦しめられ、時には貧貧血を起こして倒れる先輩お針子を見てきたという。
「それから、このドレス自体も、コルセットで型を作るんじゃなくて、胸の下や背中に『ギャザー(細かい襞)』を入れて、布自体の立体的なカッティング(裁断)で女性らしいラインを出すの。コルセットがなくても、綺麗に見えるようにね」
「コルセットなしで、美しいシルエットを……!? そんなこと、考えたこともありませんでした。でも、この図面の通りに型紙を起こせば、もしかしたら……!」
ニナの目が、職人としての情熱でキラキラと輝き始めた。
若くて柔軟な彼女を選んだのは大正解だった。伝統的な仕立て屋の親方なら「不吉な邪道だ!」と怒り出すところを、彼女は新しい技術として吸収しようとしている。
「よし、じゃあ試作品を作ってみましょう。私の普段着のドレスを数着、その『楽ちん仕様』に変えてちょうだい。それから、厨房で作業する時用に、この袖口がゴムで窄まった『カッポウ・ギ』という上着も作って」
「はい! 喜んでお作りいたします、王太后様!」
数日後、ニナが完成させた「リフォームドレス」と「カッポウギ」が私の元に届いた。
さっそく、コルセットを外し、チュル蜘蛛の糸で作った伸縮インナーを着用し、新しいドレスに身を包む。
「……っ! 素晴らしいわ……!」
私は思わず、その場で足踏みをし、深呼吸をした。
どこも締め付けられない。肺がいっぱいに膨らむ。腰を曲げても、どこにも芯が刺さらない。それでいて、胸元からウエストにかけては、ニナの巧みな立体裁断によって、大人の女性らしい上品で美しいラインが保たれている。
「王太后様、なんという動きやすさでしょう……!」
試着を手伝ったガブリエラさんが、驚愕の声を上げた。
「ガブリエラさん、あなたもニナに作ってもらいなさい。侍女の仕事は立ち仕事が多いんだから、こんな楽な下着にしたら、仕事の効率が三倍は上がるわよ」
「は、はい……! 実は、羨ましくて仕方がありませんでした!」
さらに私は、完成した白い「カッポウギ(割烹着)」をドレスの上からすっぽりと被った。
袖口がゴムでしっかり止まるので、腕まくりをしても落ちてこない。前身頃がすっぽり覆われているので、どんなに泥や油が跳ねてもドレスが汚れない。
これぞ、日本の昭和から令和までを支え続けた、主婦の最強戦闘服である。
「よし、身体が軽くなったところで、次は『命の洗濯』をしましょうか」
実は、服の締め付けから解放されたことで、もう一つ、どうしても我慢できなくなったことがあった。
それは、この世界の「お風呂事情」である。
このソルディス王国の王宮には、立派な湯浴み室がある。
けれど、その実態は、宮廷魔術師が呼び出した温かい「霧」を浴びて汚れを浮かせ、それを若い侍女たちが香油をつけた布で拭き取るという、なんともじれったいものだった。あるいは、浅い石造りの浴槽にぬるいお湯を張り、プールのように浸かるだけ。
(違うのよ……。私が求めているのは、そんなオシャレなスパじゃないの……!)
五十代の疲れた身体が、魂の底から求めているもの。
それは、41度前後の熱めのお湯がなみなみと注がれた湯船に、肩までどっぷりと浸かり、「ふぅぃぃぃ……」と長い溜息を漏らす、あの「日本式のお風呂」だった。
血行を良くし、一日の疲れを芯からリペア(修復)するには、湯船に浸かる以上の特効薬はない。
私はカッポウギを着た姿のまま、王宮の湯浴み室の管理頭を呼びつけた。
「湯浴み室の浴槽の、この排水の穴を塞いでちょうだい。そして、私の肩の高さまで、しっかり浸かれる深さまで温かいお湯を満たすのよ」
「えっ……!? 王太后様、そのような深いお湯に浸かっては、お体に障ります! それに、そんな大量のお湯を一度に温めるなど、火の魔石を大量に消費してしまいます!」
管理頭が慌てて手を振るが、私は昨日の財務大臣との会話を思い出した。
「大丈夫よ。昨日の『断捨離』と『ベジブロス』のおかげで、王宮の予算にはかなりの余裕が出ているはずです。ハルバート伯爵には私から話を通しておきます。それから、火の魔石だけでなく、厨房の竈の残り火の熱をパイプで回す仕組みを作れば、魔石の消費は最小限に抑えられるわ。これはバルト料理長に提案してみて」
「は、はあ……」
「それから、これを用意して」
私は、ここ数日、孫のレオンとシアに集めさせていた「あるもの」を取り出した。
それは、王宮の庭で採れる柑橘類「オラン果実」(オレンジのような果物)の皮を、数日間おひさまの下でカラカラに干したもの――前世でいう「陳皮」、つまり乾燥させたミカンの皮だった。
「これを、目の粗い布袋に詰めて、お湯の中に浮かべるのよ」
ミカンの皮に含まれる「リモネン」という成分には、血行を促進し、身体を芯から温める効果がある。何より、柑橘類の爽やかな香りは、最高の阿波羅テラピーになるのだ。
数時間後。
湯浴み室には、今までにないほど、なみなみと豊かなお湯が張られていた。
湯気からは、干したオランの皮から溶け出した、甘酸っぱくてどこか懐かしい、爽やかな香りが立ち上っている。お湯の色も、かすかに黄金色に色づいていた。
「ガブリエラさん、誰も入ってこないように鍵をかけてね。……さあ、極楽へ行きましょう」
私はリフォームされた楽ちん下着を脱ぎ捨て、贅沢な大浴槽へと足を踏み入れた。
ザバーーーッ……。
お湯が床に溢れる贅沢な音。
ゆっくりと腰を下ろし、肩までお湯に浸かる。
「……っ、ふぅぅぅぅぅいぃぃぃ…………」
思わず、前世の温泉旅行で漏らしていたのと全く同じ、地響きのような溜息が出た。
41度のお湯が、日々の緊張で固まっていた背中や腰、そして五十代特有のガチガチの肩甲骨を、優しく、じんわりと解きほぐしていく。
(これよ、これ……。日本人なら、やっぱりこれじゃなきゃ生きていけないわ……)
お湯の中で、自分の腕や脚をゆっくりとマッサージする。
オランの皮の成分のおかげで、肌がピリピリと心地よく刺激され、みるみるうちに血行が良くなっていくのが分かる。湯気に乗って広がる柑橘の香りが、脳の疲れまで洗い流してくれるようだった。
「王太后様、お加減はいかがでしょうか……?」
扉の向こうから、心配そうなガブリエラさんの声がする。
「最高よ、ガブリエラさん! あなたも、仕事が終わったら絶対にこのお湯に入りなさい。肩こりも腰痛も、一発で吹き飛ぶわよ!」
「は、はあ……。王太后様が、そんなに声を弾ませておられるのを、初めて聞きました……」
お風呂から上がった私は、ニナが作ってくれた、柔らかいチュル蜘蛛の糸の「ルームウェア(部屋着)」に身を包んだ。
鏡を見ると、お化粧もしていないのに、お肌がツヤツヤとピンク色に上気している。血流が良くなったおかげで、目の下のくすみも消え、まるで十歳若返ったかのようだった。
その日の夕方。
私がすっぴんのまま、楽ちんな部屋着姿でサロンのソファで寛いでいると、息子のライナルト王が、いつものように真面目な顔で入ってきた。
「母上、失礼いたします。……おや?」
ライナルトは私を見るなり、その場に固まった。
「は、母上……? その、お召し物は一体……? それに、なんだか今日の母上は、妙に……その、お美しく、輝いて見えるのですが。何か強力な【美髪】や【若返り(エイジ・リバース)】の高級魔導具をお使いになられたのですか?」
「ふふ、違うわよ、ライナルト」
私は温かいハーブティーを飲みながら笑った。
「ドレスの下のコルセットを止めて、ニナに楽な服を作ってもらったの。それから、管理頭にお願いして、オランの皮を入れた深いお湯に肩まで浸かっただけよ。これを『湯治』、あるいは『お風呂の魔法』と呼びましょうか」
「コルセットを……止めた? しかし、それでは王族の格式が……」
戸惑うライナルトの横から、先ほどお風呂を貸してあげた侍女長のガブリエラさんが、興奮を隠せない様子で進み出た。
「陛下! 王太后様の仰る通りにございます! 私も先ほど、あの【オランの黄金湯】に浸からせていただきましたが……見てください、私のこの手の震えが止まり、長年苦しんできた腰の重みが、まるで幻だったかのように消え去ったのです! さらに、コルセットを外したこの新しい下着……呼吸が、呼吸がいくらでもできるのです! 私たちは今まで、伝統という名の呪縛で、自らの肉体を痛めつけていただけだったのです!」
ガブリエラさんの熱弁に、ライナルト王は気圧されたように一歩引いた。
「そ、そこまで言うのか、ガブリエラ……。確かに、今の母上は、以前のあの『鉄の女』と呼ばれていた頃の、どこか張り詰めた冷たさが消え、まるで包み込むような『慈愛の温もり』に満ちあふれている……。これこそが、本来あるべき王太后の姿なのかもしれん」
ライナルトは私の前に跪き、その手を取った。
「母上。あなたの知恵は、ついに衣服の歴史と、我が国の医療の常識まで変えてしまわれた。……実は、我が国の騎士団の兵士たちは、過酷な訓練や遠征により、若くして関節の痛みに苦しむ者が多いのです。宮廷魔術師の癒やしの魔法は高価で、一般の兵士には行き届きません。しかし……」
ライナルトは目を輝かせた。
「あの『オランの黄金湯』を兵舎にも導入し、兵士たちを肩まで浸からせれば、魔法を使わずとも、安価に彼らの疲労と傷を癒やすことができるのではないですか!?」
「ええ、もちろんよ。お風呂はね、身分に関係なく、誰の身体も平等に温めて癒やしてくれるものだもの。兵士たちだけでなく、街の一般の皆さんのためにも『公衆浴場(お風呂屋さん)』を作ったらいいわ」
「公衆浴場……! 民の健康を保ち、疫病を防ぐための、新たなる国家事業ですね! 素晴らしい、すぐにハルバート財務大臣に予算を組ませます! 母上、あなたの『主婦の知恵』は、我が国の兵力を高め、平民たちの命を救う、偉大なる聖法です!」
(……いやいやいや、ただお風呂に入って『極楽〜』って言いたかっただけなんだけどな)
私は心の中で頭を抱えた。
ただの「ウエストゴム」と「みかん湯」が、どうして「国家の健康増進政策」になってしまうのだろう。この国の男の人たちは、本当に何でも大きく捉えすぎる。
けれど、まあ……重いドレスから解放されて、毎日気持ちいいお風呂に入れるなら、私はそれだけで大満足だ。
「おばあ様ー! その白いお洋服、かっこいい! 僕たちも着たい!」
「シアも、おばあ様と一緒にお風呂に入りたいな!」
部屋に飛び込んできたレオンとシアを、私は締め付けのない、柔らかい腕でしっかりと抱きしめた。
「ええ、今夜はみんなで一緒にお風呂に入りましょうね。お背中、流してあげるわ」
湯上がりの爽やかな風が、窓から吹き込んでくる。
私の二度目の人生は、どうやら世界で一番「ラクで、温かくて、気持ちいい」王宮を作り上げてしまいそうだった。




