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第九話 あれこれ好奇心

 マリアは、あの時のことを覚えていないようだった。


 背中に純白の翼が生えたことも、頭上に光輪が現れたことも。

 そして、奇跡のような力で私の致命傷を癒やし、武装した暴徒たちを吹き飛ばしたことも。

 高熱を出して二日間寝込み、ケロリとした顔で目覚めた時には、ただの甘えん坊な五歳の少女に戻っていた。


 エンジェルステーションの朝は、地殻の底から響く重苦しい駆動音と共に始まる。

 旧時代の遺物である地熱ジェネレーターが唸りを上げ、荒野の静寂を切り裂くそのノイズは、ここが死の世界で生き残るための「要塞」であることを住人たちに毎朝思い出させる。


 だが、ここ数日、その騒音に新しい音が混じるようになった。

 カン、カン、という小気味よい金属音と、幼い少女の弾んだ声だ。


「パパ、これなあに?」

「ん? ああ、そいつはトルクレンチだ。ボルトを決められた強さで締めるための道具だよ」

「とるく……れんち。……こう?」


 整備区画のガレージ。オイルと鉄錆の匂いが充満する男の城で、プリスキンは葉巻を噛み潰しそうになった。

 作業台の上には、まだ身長が一メートルにも満たない小さな「天使」――マリアが座っている。

 彼女は自分の腕ほどもある巨大なクロムモリブデン鋼の工具を両手で持ち上げると、分解された装甲板のボルトに正確に当てがった。

 そして、プリスキンが教えるよりも早く、目盛りを「規定値」に合わせてみせたのだ。


 カチッ。

 乾いた音が、静寂のガレージに響く。


「……おいおい。マジかよ」


 プリスキンはゴーグルを額に押し上げ、油にまみれた手で頭を掻いた。

 この装甲板の素材硬度を考えれば、そのトルク値は正解だ。だが、それは熟練の整備士が長年の勘で弾き出す数値であって、文字も読めない幼児が一瞬で理解できるものじゃない。

 

「マリア、お前……前にこれを使ったことがあるのか?」

「ううん。はじめて」

 マリアは無垢な瞳を瞬かせ、首を傾げた。

 

「でもね、この子が『そこがいい』って言ってるの。ここが一番、きもちいいって」

「……道具の声が聞こえるってか。こいつはとんだ天才様だ」


 プリスキンは複雑な表情でマリアを見つめた。

 アレンたちは彼女を普通の娘として育てようとしているが、隠しきれない「異能」が、ふとした瞬間にこうして顔を出す。

 だが、プリスキンは恐怖よりも、技術屋としての好奇心と、奇妙な親近感を覚えていた。


「いいかマリア。ここの道具は好きに使っていい。俺が知ってることは全部教えてやる。スパナの握り方から、エンジンのバラし方までな」

「ほんと!? やったぁ!」

 マリアが無邪気に笑い、プリスキンの太い腕にしがみつく。その温もりに、プリスキンの強張った表情が緩んだ。

 なんだろうと関係ない。今は、この笑顔が全てだ。


 暫く一緒に作業をしていたが、レドリックに呼ばれたプリスキンが、ガレージ脇の椅子に腰かけて何か真剣に話し込み始めた。


 暇になったマリアがガレージを見回していると、ガレージの奥にある巨大な扉が目についた。

 あの部屋は何だろう? 近づいてみると、何か呼ばれているような気がした。


 そっと手を伸ばしたところで、プリスキンの声。


「おーい! マリアどこだ? もう引き上げるぞ!」

「はーい」


 そう答えたマリアだったが、視線は扉に向けられていた。


「誰かが、私を呼んでる」

 微かだが確かな「呼び声」が聞こえていた。


 ――


 その日の深夜。


 居住区のベッドで寝ていたはずのマリアは、ふと目を覚ました。


 マリアは音もなくベッドを抜け出した。小さな裸足が、冷たい金属の床を踏む。

 アレンも、レドリックも、イノシロウも、深い眠りについていた。彼らは日中の重労働で疲れ切っている。

 マリアは忍び足で廊下を進んだ。目指す場所は一つ。昼間、プリスキンに作業していたあの場所だ。


 ガレージは、夜の闇に沈んでいた。

 月明かりだけが天窓から差し込み、工具たちが怪しげな影を落としている。

 マリアは迷うことなく最奥へ進んだ。闇に慣れた彼女の目には、その扉がうっすらと発光しているように見えた。


 (……まってて。いま、あけてあげる)


 昼間、厳重なロックに見えたが、マリアが触るといとも簡単に扉は開いた。

 マリアは無自覚だったが、指先から目に見えない粒子――ナノマシンが流れ込み、回路を直接「説得」してしまったのだ。


 ピピッ。カシャ。

 警告音も鳴らさず、重い扉が音もなくスライドした。


 闇の中に、それはいた。

 

 それは、巨大な蜘蛛の死骸のようだった。

 八本に折り畳まれた脚は、重機のアームのように太く、鋭い爪を備えている。

 丸みを帯びたボディから長い首が伸び、頭には昆虫のような複眼がついていた。

 

 全身を覆う複合装甲はナノテク以前の技術で作られており、今でも堅牢さを誇っている。

 見た感じではどこにも瑕疵は無く、いつ動き出しても不思議はないように見えた。


 けれど、マリアには聞こえていた。

 鉄の殻の奥底で、微かな、消え入りそうな「命」の灯火が震えているのを。


「……いたいの?」


 マリアは恐れることなく、その巨大な鉄の脚に歩み寄った。

 冷たく、ザラザラとした錆の感触。

 彼女は両手を、装甲の隙間――露出した内部フレームへと優しく差し入れた。


「だいじょうぶ。いたいの、いたいの、とんでけ」


 そう言って、マリアが無骨な機械を、小さな手のひらで優しくなでた。

 たったそれだけで、プリスキンの工具では届かない内部の微細な回路、焼き切れた神経伝達バイパスを、マリアの意思を受けたナノマシンが驚異的な速度で再構築していく。

 切れたシナプスが繋がり、凍りついたオイルが溶け出し、死んでいた心臓部に温かな血が通い始める。


 ――ヴォン……。


 頭部に埋め込まれた複数のレンズ――センサーアイが、一瞬だけ赤く明滅した。

 それは威嚇ではない。手負いの獣が、傷を舐めてくれる相手に見せる安堵の吐息だった。


「よしよし、いいこだね」


 マリアは嬉しそうに微笑むと、巨大な鋼鉄の頭部を撫でた。

 マリア自身は自分が何をしているのか正確には把握していない。昔リンジーに教えてもらった、手当の真似事をしているだけだった。

 

 それは、まだ完全に動くわけではない。

 けれど、もう「ガラクタ」ではない。彼は眠りながら、確かにマリアを見ている。


「えっと、名前はマンショ……マンショニャッガー? うーん、言いにくいなぁ」


 マンショニャッガー、それはナノテク時代以前の大戦で使われた殺戮兵器。

 その性能はすさまじく、あまりの殺傷能力の高さに世界中で使用中止になったシロモノだった。

 

 この機体はたまたま故障中で、処分されず残っていたものをレドリックがコレクションしていたのだ。

 

 マリアは小首を傾げ、ポンと手を打った。


「そうだ。あなたの名前は『マンシー』ね!」


 ――ヴォン!

 機械が嬉しげに応答した(ように見えた)。


「パパには内緒だよ、マンシー。パパ達をびっくりさせようね」


 マリアは悪戯っぽく微笑むと、再び扉を閉め、ロックを元通りに掛け直した。

 一流の職人であるプリスキンですら、まさか幼い娘が夜な夜な古代兵器を手懐けているとは夢にも思わないだろう。


 こうして、マリアと「マンシー」の秘密の交流が始まった。

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