第八話 宇宙消失
『十分に高度に発達した技術は、魔法と区別がつかない』
かつて私が愛し、そして人類が忘却の彼方へと置き去りにした言葉だ。
テイカーたちの襲撃を退け、再び静寂が戻った夜。
私は洗面所の鏡の前で、自身の背中を映していた。
そこにあるはずの傷がない。
数時間前、確かに矢で貫かれたはずの場所には、傷跡ひとつ残っていなかった。ただ、新しい皮膚の滑らかな感触があるだけだ。
「……魔法、か」
私は服を着直し、リビングへと戻った。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く部屋で、ソファに座り込み、グラスに琥珀色の液体を注ぐ。
奥のベッドルームでは、力を使い果たしたマリアが、泥のように深く眠っている。
レドリックたちは、畑周りの柵の強化と警備強化のために奔走しているが、私はマリアの傍にいる役目を仰せつかった。
グラスを揺らしながら、私は思い出す。
今日見た光景。光の翼、衝撃波、そして癒しの力。
この小さな「魔法」の塊を見ていると、どうしても思い出してしまうのだ。
かつて世界が、本物の魔法に満ちていた時代のことを。
――
それは、人類の黄金時代。
当時の人類にとって、労働は過去の遺物だった。
空気中を漂うナノマシンが、人々のあらゆる願望を物理的に叶えていたからだ。
喉が渇いたと思えば、手元の端末が大気中の水分と元素を再構築し、極上のワインを作り出す。
移動したいと願えば、重力制御されたポッドが音もなく滑ってくる。
怪我をしても、傷口は数秒で塞がり、病という概念すら教科書の中だけの話となった。
通信ケーブル? コンセント? そんなものは博物館の展示品だ。
エネルギーは空間から無尽蔵に供給され、情報は思考と直結していた。
音楽も、絵画も、文学も、AIが最適解を瞬時に出力する。
人間はただ、口を開けて幸福を享受するだけの、美しい家畜だった。
十分に幸福なはずだった。
だが、その「魔法」は、人類から「宇宙」を奪うことになった。
――
事の発端は、地上に残った人類と、宇宙コロニーへ移住した人類との間に生まれた、些細な溝だった。
『選ばれし宇宙の民』と『見捨てられた地上の民』。
あるいは、『重力に縛られた旧人類』と『虚空へ逃げた臆病者』。
互いが互いを蔑み、妬み、その感情は時間をかけて腐敗し、やがて殺意へと変わった。
不幸中の幸いと言おうか、人間同士での直接的な殺し合いは起きなかった。
なぜなら、戦争すらナノマシンとAIに委託されていたからだ。
人間が銃を持って泥沼を這いずり回るような野蛮な戦争は、コストパフォーマンスが悪いと判断され人間の軍隊は存在していなかった。
代わりに実行されたのが、『箱庭のスイッチを切る』という冷徹な計画だった。
地上の政府は、宇宙コロニーの基幹システムを掌握するナノマシン・ウイルスを開発した。
コロニーの維持装置を暴走させ、酸素供給を断ち、重力制御を狂わせる。
彼らを宇宙の藻屑にするための、最悪の贈り物。
そのウイルスを搭載したミサイルが、地上から発射された。
だが、宇宙の民も愚かではなかった。
彼らは高度な防衛システムを持っていた。
大気圏を抜ける直前、ミサイルは迎撃レーザーによって撃墜されたのだ。
作戦は失敗した。
だが、それは人類全体にとっての、本当の地獄の始まりだった。
――
上空で砕け散ったミサイルは、その身に宿した膨大な量のウイルス・ナノマシンを、成層圏にぶち撒けた。
ウイルスは、プログラム通りに「ナノマシンへの攻撃と支配」を開始した。
だが、対象となるコロニーのシステムはそこにはない。
行き場を失ったウイルスは、大気中を漂う通常のナノマシンたちを無差別に汚染し、自己増殖と結合を繰り返した。
その日、空の色が変わった。
青空は瞬く間に鉛色の雲に覆われた。
雨ではない。それは、暴走し、結合し、太陽光すら遮断するほどに高密度化したナノマシンの層だった。
『冬の始まり』
地上から、夏が、文明の熱が失われた日だ。
その雲は、灰色の雪と共に降りて来て、地上のナノマシンを食いつくした。
暴走ナノマシンによって変質させられたナノマシン群もまた雲の一部となるべく空へ上がって行った。
魔法が戻ってくる見込みはなかった。
扉は開かず、水は出ず、空調は止まり、食料プラントは枯れ果てた。
「魔法」に依存し、生かされていた人々は、魔法が解けた瞬間に、無力な肉塊へと成り下がった。
エレベーターは密室の棺桶となり、自動運転車は暴走する鉄の塊となった。
世界は一夜にして、数世紀単位で逆戻りした。
いや、知識や技術を失った分、石器時代よりも悲惨だったかもしれない。
――
皮肉な話だ。
最先端技術が世界を滅ぼし、世界から嘲笑されていた「時代遅れの変人たち(ギーグス)」が生き残っているのだから。
ここ、エンジェルステーション。
レドリックの道楽で買い占められたこの土地は、ナノテク全盛の時代にあって、意図的に「不便」がデザインされていた。
ここには、AI管理ではない、旧式の地熱発電機があった。
音声認識ではなく、物理的な鍵とレバーがあった。
合成食料ではなく、土にまみれて育てる畑があった。
電子書籍ではなく、紙の本があった。
和を意識して作られたリョカンには、オンセンすらあった。あれは良い物だ。
便利すぎる世界に飽き、自らの手で火をおこし、重い鉄を加工する。不便を楽しむため、ここに集まっていた。
それぞれが得意分野での腕を発揮し、作品を生み出してはそれを持ち寄り自慢話にふける。
世間からは「進歩を拒む懐古主義者」と笑われていた我々だ。
だが、その「不便」こそが、汚染ナノマシンの影響を受けない唯一の聖域となった。
ウイルスは、高度な回路を持たない鉄パイプには興味を示さない。
ネットワークに繋がっていないノートをハッキングすることはできない。
結果として、我々は生き残った。
魔法の杖を持たず、泥臭いクワとバールを握りしめていたからこそ。
――
「……全く、笑えない喜劇だ」
私はグラスを干し、暖炉に薪をくべた。 パチリ、と火の粉が舞う。
今の地上は、終わりの見えない寒冷期にある。
空を覆うナノマシンの雲が晴れない限り、太陽が再び地上を照らすことはないだろう。
人類は、自分たちが生み出した灰色の檻の中に閉じ込められたのだ。
だが。
私は、寝室の方角を見つめる。
マリア。
彼女は、あの汚染された雲を突き破り、宇宙から落ちてきた。
純粋で、無垢で、そして失われたはずの「魔法」を携えて。
彼女の存在は、我々ギーグスにとっての希望だ。
かつて人類が享受していた「魔法」の、最後の欠片なのかもしれない。
今日、彼女が見せた力。それは我々を守ったが、同時に世界の均衡を崩すほどのものだった。
あの力を狙う者は、これまでの比ではないだろう。
「お前がいつか、この空を晴らしてくれるのか?」
答えはまだない。
私は万年筆を執り、長らく白紙だった原稿に一行目を記した。
『宇宙を失ったが、たった一つの煌く星が、我々の手の中に落ちてきた』と。




